第7話


 日曜日の朝。

 近衛にとって、それは特別な朝だ。

 奏の学校が休みのお陰で、ゆっくり寝坊ができるからだ。

 だが、その日は違った。千明の声がした気がして、目が覚めてしまったのである。

(夢、か)

 再びまどろみの中に身をゆだねようとして、今度はハッキリと千明の声が、いや、正確に言えば『歌』が聴こえたのである。

(店の方からだ)

 近衛は急いで顔を洗い、髪を整え、服を着替えると店に向かった。

 店の裏口にたどり着くまでもなく、千明のスキャットが聴こえてきた。そして千明の歌声に重ねるように、若々しい声が聴こえてきた。

(まさか、奏?)

 そっと裏口のドアを開け、中に入る。

 スピーカーの前に奏の姿を見つけたが、近衛は奏の表情、歌う姿があまりにも千明そっくりで立ちすくんでしまったのだ。

 さらに、どこで覚えたのか、身振り手振りまでがそっくりで、髪が腰まであったら、出逢った頃の千明を彷彿とさせる姿だった。

 裏口のドアが風に吹かれてバタン、と音を立てた。驚いた奏は唖然として立ちすくんでいる父親の姿を目の当たりにした。

「ご、ごめんなさい、父さま」

 奏の声にやっと我に返って、近衛はアンプのボリュームを下げた。

 スピーカーからはファースト・アルバムの5曲目が流れていた。ピアノの伴奏に千明が軽やかにステップを踏むように歌っている。

「本当にごめんなさい」

 奏は頭を垂れた。

 近衛は音量は下げたが、ゼロにはしなかった。だからまだ奏の後ろで、千明が歌い続けていた。

「いつも、ここで歌ってるの?」

「いえ、歌ったのは今日で二回、二回目です」

「まるでしょっちゅう歌っているみたいに振り付けまでして・・・・・・」

「こ、これは違うんです。勝手に振り付けをしてみただけで」

 近衛はその振り付けが、千明とまったく同じだとは言えなかった。

「曲は一度聴いたら、だいたい覚えてしまうから・・・・・・。それに母さまが小さい頃は枕元でよく歌ってくれたから・・・・・・」

 曲を覚える能力は、明らかに父親の近衛や曾祖母の能力を受け継いでいる。そしてその歌声は、千明の娘ならではのものである。

「こうして歌っていると、まるで母さまが一緒に歌ってくれているようで、懐かしくて、嬉しくて・・・・・・。もうしません。本当にごめんなさい」

 奏は再び頭を垂れた。

「別にいいんだよ。母さんとこういう形でつながっていると感じるのなら、それもいいだろう。だが、歌うのならちゃんと訓練しなくちゃ、喉をやられる。声が枯れてしまう。発声練習もしないで歌うようなことはするんじゃない」

「父さま、それじゃ・・・・・・」

「お前の母さんは、歌う前には必ず発声練習をして、その日の声の状態、体調をチェックしていた。そして聴きにきてくれたお客さんには、完璧な歌声を聴かせていた。真のプロだった」

 近衛はステージで歌う千明の姿を思い浮かべていた。なぜだか胸が高鳴っていた。

「歌うのなら、ちゃんとレッスンを受けなさい。発声練習のやり方は、知りたければ母さんのビデオを観るがいい。コンサートの朝、声のチェックと発声練習をやっていたんだが、それをDVD初回限定版用に収録したものがある」

 千明の物まねで歌う芸人、時にはプロの声楽家が挑戦したりすることもあったが、最高音のH音を一発で音程をあてた上に、ビブラートをかけながらクレッシェンドできる歌手はなかなかいなかった。

 だが、目の前にそれを難なく、まるで当然のように歌ってのけた娘がいる。さすがに祖母の麗子は声がわずかに震えていたが、それでも音程は外していなかった。

(これもやはり、『血』の成せる業なのかな)

 近衛は認めざるをえなかった。

「クラシック音楽畑だけど、声楽のとても素晴らしい先生がいる。千明もその先生のレッスンを受けて上達した。母さんといろいろ比較されて嫌な思いもするかもしれないが、やってみるかい?」

「はい!」

 6日後、二人は世田谷にある広い邸宅を訪れた。もっとも二人が足を踏み入れたのは、こぢんまりとした、それでも50坪以上ある離れの部屋だった。

 近衛がドアをノックする。響きが殺された鈍い音がした。

「どうぞ」

 中から声がしたのを確認して、レッスン室の重たい防音扉を開けて中に入る。

 近衛よりも10歳ほど年長で2周り以上太めの女性が入り口の二人に鋭い視線を向けた。

「ご無沙汰いたしております、冴木先生」

 近衛は深々と頭を下げた。

「珍しいねえ、あんたが誰かを連れてくるって。ひょっとしてレッスン希望かい?」

「ええ、まぁ、先生の眼鏡にかなうかどうか」

 視線を少女に向けた冴木は目を見開いた。

「千明、千明ちゃんじゃない? いや、そんなことはありえないか。そうか、嬢ちゃんだね」

「はい、娘の奏、です」

「ほんと、最初に会った頃の千明ちゃんによく似てる」

「奏、ご挨拶なさい」

「近衛奏です。よろしくお願いいたします」

「良い声しているじゃない。声質は千明ちゃんより少し高めだけど、それは年のせいかもね。じゃ、なんでもいいから歌ってみて」

 奏は近衛の方を見た。近衛は小さくうなずく。

 奏は千明のスキャットを歌った。恐る恐ると。

 ふぅ、と冴木は肩を落とした。

「あんたには致命的な欠点がある。肺活量が足りないんだよ」

 奏は項垂れ、その瞳が潤んでくる。

「それから歌う時は胸で呼吸するんじゃない。臍の下をドンとつきだすように。そして体全体で歌うんだよ。こんなふうにね」

 そう言うと冴木は「魔笛」の夜の女王のフレーズを歌い出した。

 脚を肩幅に、そして手を広げて声を張り上げる。

「す、凄い」

 奏は目を丸くした。

 かつてドイツオペラ界で日本人初の「魔笛」で夜の女王を披露し、絶賛を浴びた歌い手である。声量もだが、格が違う。体格もかなり違う。

 舞台で膝を傷めて第一線を退いたが、ソプラノを歌わせたら並ぶものがいないと言われるだけあって、未だにソロとして引っ張りだこであった。そのため、よっぽど気に入らないと弟子をとらないことでも有名だった。

「ま、これはオペラだからこれくらい声を・・・・・・」

 得意満面で歌い終わった冴木の横で、今度は奏が同じような姿勢をとり、歌い出した。

 驚いたのは冴木と近衛である。

 さすがに声量は冴木に劣るが、まるで日頃から冴木についてレッスンしているかのような見事な音程とスケール感、そして譜面を見ながら歌ったかのように、いや、見ても初見では間違うこともあるのだが、それを一音も間違えずに歌いきったのである。

「あ、あんた、誰について習ってたの?」

「いえ、誰にも・・・」

 近衛が横から付け加えた。

「発声練習だけはこの5日間、千明のビデオを見せて同じようにやらせてみたのですが・・・・・・」

「夜の女王、歌えたじゃないの。クラシックもやってたんでしょ?」

 今度は奏が答えた。

「先生が歌ったから、真似てみたんですけど、やっぱりぜんぜん駄目ですね。足もとにも及びません」

 冴木は目を丸くした。

「真似ただけでこれだけ歌えるなんて、ちょっと、なによそれ。これ、ドイツ語なのよ。ドイツ語、勉強してたの?」

 奏はベートーベン交響曲第9番第4楽章『歓喜の歌』をドイツ語で歌える。近衛から意味も含め、教わったからなのだが、ドイツ語風の発音はできるものの、相手の話が聴き取れるわけではない。

(言語も音として認識して歌ったのか!?)

 近衛は驚愕した。

「だいたい第2幕の夜の女王のアリア『復讐の炎は地獄のように我が心に燃え』って、最っ高に難しいのよ。それをコロラトゥーラも知らないで歌ったって言うの? しかもたった一回聴いただけで譜面なしで!? 呼吸も胸式からちゃんと腹式になってたし、普通じゃ、あり得ないよ。おまけに声帯の強さが桁違いだね。まるで女版フィッシャー=ディースカウだよ。鍛えもせずに、よくもまぁ・・・・・・」

 冴木はまるで怒っているかのような自分の口ぶりに気づいて、声のトーンを落とした。

「会話の声はミルキー・ボイスだけど、その気になって腹から声を出せば芯のある、よく通る声になる。さらにクラシックとポピュラーでも声音を使い分けることができるときている。まさに至宝の七色の声音、だね。あんた、まだ中学生?」

「は、はい」

 冴木は近衛の方に向き直って言った。

「この子を私に預からせてくれないかね」

 近衛は再び驚いた。千明の時でさえ、一度も口にしたことのない言葉である。

「お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」

 近衛が頭を下げると、奏も続いて頭を下げた。

「あ、有り難うございます。よろしくお願いします」

「さすがはおやかたさまの血筋だね。音感は抜群、耳もいい。頭も良さそうだ」

(僕の娘、とは言わないんだ)

 近衛は少し寂しげな微笑みを浮かべた。

「レッスンは最初は週2回。なんなら学校が終わってから毎日でも来て良いからね。他の人達のレッスンも見ておくと勉強になる。ウチには音大受験の子も来るから参考になるだろうよ」

 近衛は月謝が幾らになるだろうか、と気をもんだ。千明の時には1レッスンあたり一般的な相場の倍、2万円もしたからである。

(毎日だったら、いくらになるんだろう)

 千明の場合は、歌手活動を開始してからだったので経費として落とすことができたが、中学生の奏には歌手活動はまだ早いと考えていた。従って当分の間、手出しとなってしまうのは明かだった。

「有り難うございます。でも、それだとお店の方、手が足りなくなるんじゃ・・・・・・」

 奏の声を遮って、冴木はキッと鋭い視線を近衛に向けた。

「あんた、まだあの喫茶店、やってんの? しかも娘を働かせて! 止めちまいなあんなお店!」

「そんなの嫌です。私、大好きです」

 横から突然、奏が声を張り上げた。

 奏の真剣なその表情に、冴木も近衛もたじろいだ。

「喫茶店、母の匂いなんです。幼い頃、私が寝付けなくて枕元で歌を歌ってくれた時、いつも薫っていた匂いなんです。母の思い出なんです」

「そうかい。千明ちゃんが亡くなってから、もう5年になるんだねぇ。よく今まで、頑張ったねぇ」

 冴木は丸太のような腕を奏の頭の上に挙げると、そっと頭を撫でた。

「はい・・・・・・」

 奏の瞳に光るものがあった。

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