第6話

 松田は実に精力的に薫風堂の広告を随所で繰り広げた。

 まず、FM局のジャズ・コーナーでは新しくジャズ喫茶としてオープンした薫風堂を取り上げてもらった。それだけでも数万円分の広告料に相当する。

 さらにオーディオ誌の他誌のライターにDD66000を今、一番良い音で聴かせるジャズ喫茶の話をしたところ、興味を持ってもらったばかりか、「JBLエベレスト特集」を組んでもらって、「ネットワーク・オーディオを駆使して最高のエベレストの音を目指す」と題して、薫風堂を取り上げてもらった。

 さらには奏とバイトの娘、二人が写ったチラシをショッピングセンター入り口とJR駅前で配ったりもした。もちろん、二人が制服でチラシを配った効果はてきめんだった。高校生の梢の上着はピンクではなく、落ち着いたバイオレット・ブルーが見事な対比を成していた。

 もちろん参考にしたのは、奏が観たアニメであることは言うまでもない。

 ブラジル・ベースのブレンドコーヒーに5種類のケーキが選べるコーヒーセットは、500円ワンコインという値段設定もあって、高校生や大学生、OLなど、若い女性に人気となった。ただし苺ショートは毎日24個、チーズケーキは16個、モンブランは10個、チョコレートと日替わりのケーキは8個限定で完売終了である。日替わりのケーキには抹茶を使用することが多いが、抹茶の『御園の白』が入手できないときもあって、そういう場合は林檎やアボガドのタルトになることがあるようだ。

 季節限定の博多あまおうを使用した苺ショートは大人気で、32個に増やしても、昼どきの2時間で完売してしまって、学校がひけてから駆けつけた女子高生たちを落胆させてしまうこともしばしばであった。

ちなみにケーキは近衛のお手製である。

 チーズケーキは奏が作ることもあったが、素材のチーズは近衛ならではの独自ルートで仕入れた拘りのシロモノである。

 パテシエとしての勉強をしたわけではないのに、近場のケーキ屋のオーナーが我を忘れて全品目食べ尽くすほど美味だった。持ち帰りができないと言われて文句を言うほどまでに。

 しかし一方で、困った問題も起こった。それまでの常連客の足が遠のいてしまったのである。

 中でも月末になると数日間通い続ける女性小説家が指定席を女子高生に占拠され、悲しげな表情でそのまま帰って行ったのを目の当たりにしてしまったのである。

 近衛はあとを追った。

「すみません。リニューアル・オープンしてから、一気にお客さまが増えてしまって・・・・・・。明日もう一度、お越しいただけますか? あのテーブル、少し狭くはなりますが、お一人様特別仕様に変えて、お待ちしております」

 彼女は頬を染め、コクリとうなずいて足取りも軽く、駅の方へと向かった。

 翌日、同じ時間。

 女性小説家は店内に足を踏み入れると、ニッコリ微笑んだ。今日は客が少なく、スピーカーから出る音も小さめで、奥の席が空いていたからである。

「いらっしゃいませ。どうぞ、奥へ」

 近衛がカウンターから出てきて、奥のテーブルへと手を指し示す。

 テーブルのところまできて、「あらっ」と彼女は小さく呟いた。

 机の上には、テディベアや人形が置かれ、そして赤いバラが一輪、細身の花瓶に生けられていたのである。

 近衛はテディベアと人形をカウンターの壁側に置き直し、「どうぞ」と椅子を引いた。

 彼女は嬉しそうにニッコリ微笑むと、「いつものモカを」と注文した。

 カウンターに戻ると近衛は手挽きミルで丁寧に豆を挽く。

 そして「モカ・マタリ用」と書かれたフックからネルドリップ・フィルターを取ると、朝汲んでおいた井戸水を沸騰させて30秒ほど置き、豆を入れて蒸らす。

 カップはもちろん、湯通しして暖めてあるウェッジウッドだ。

 盛り上がってきた粉がプクリプクリと息を吐く。そして盛り上がりが一段落して平坦になってくる。そのタイミングで、今度は沸騰させず、少しだけ暖めた直した湯を注いで、粉の山を崩して散らす。上の泡が落ちきる前に再び湯を注ぎ、ネルドリップ・フィルターの先端がコーヒー面に接する直前に引き上げる。

 カップとお揃いのソーサーをトレイに置いてカップを載せると、素早く、しかしコーヒーの表面が波立たせることなく、テーブルまで運んでいく。

 テーブルではあまり日頃目にしたことがない近衛の笑顔がしばらく続いていた。

 一部始終をカウンターの中から奏がじっと見ていたのだが、その視線に近衛は気づかなかった。

        *

 その夜、近衛の書斎をノックする奏の姿があった。

「どうぞ」

 書斎に足を踏み入れたものの、視線を落とし、落ち着かない気持を表すかのように、両手をしきりに動かしている奏に近衛は声をかけた。

「どうした? 最近ずっと忙しくてすまなかったね」

 意を決して奏は顔を上げた。

「父さま、私のことはお気になさらず、再婚されても構わないですわ。父さまが選んだ方なら、きっとうまくやってみせますわ」

 言いながら、なぜだか頬を一筋の涙が伝って落ちた。

「奏がいるのに、再婚するとでも?」

「あれ、どうしたんだろう」

 次々と頬を濡らす涙を拭う奏の頭を、近衛は撫でた。

「奏がいるのに、再婚なんかするものか」

「だって、今日、奥のバラのテーブル・・・・・・」

 やっと合点がいって、近衛は小さくうなずきながら、もう一度、力をこめて奏の頭を撫でた。

「小説家のお客さんのことだね」

 奏は涙をこぼしながらうなずいた。

「あの人は単なるお客さん。5年以上も前から毎月月末が近づくとやってきて、あのテーブルでノートパソコンを開いて原稿を打っているんだ。昨日はあのテーブルに先客がいて申し訳ないことをしたから、今日は特別に、ね」

「でも、あんなに親しくしてた。それに、ずっと前にも、どこかで会った気がする」

 奏は「家で」という言葉を飲み込んだ。そして完全に涙声になってしまった。

「そりゃ、長年毎月4~5日通ってきてくれた馴染みのお客さまだから。ただ、それだけだよ」

「本当に?」

「本当さ」

 目を真っ赤にして、でも笑顔で奏は父に告げた。

「お休みなさい」

「ああ、お休み」

 そして翌日の同じ時間。

 女性小説家は、今日もやってきた。

「いらっしゃいませ」

 奏が声を掛ける。

 落ち着かない様子で、カウンターの中まで視線を走らせる。

(父さまを探しているんだ)

 奏はグラスに水を注ぐと、カウンターから出て奥の席へ急ぐ。

テディベアや人形をカウンターの上に戻し、テーブルを拭いて声を掛ける。

「こちらへ、どうぞ」

 細くて美しい生足をまるで誇るかのようにモデル歩きで近づいてくる。

 奏の胸が高鳴った。

 指も脚に負けていない。キーボードに爪が当たらないように綺麗に切り詰められた爪先なのだが、華奢で細長い指先は付け爪やネールアートしなくても、十分、その美しさを際立たせていた。

 店内をぐるりと一巡り視線で追った彼女は、少し落胆した表情を見せた。

「今日はマスター、いらっしゃらないのね」

 奏は胸がチクリと痛んだ。

「はい、今日は打ち合わせのため、出かけています」

 あの松田が自分の事務所に新製品を持ち込んで試聴することになり、近衛を拝み倒して連れ出してしまったのである。

「そう・・・・・・」

 どこか遠いところを見ているような、我が心、ここにあらずというような定まらない視線に、奏の胸はザワザワとさざ波が立って落ち着かなかった。

「あ、あのぅ、ご注文は・・・・・・」

 奏を見つめた視線に、ちょっとためらいがあった。

「いつものモカをお願いするわ」

「ご注文はモカ、ホットでよろしいでしょうか?」

 彼女はニッコリ微笑んだ。

「ええ」

「繰り返します。ご注文はモカのホット、以上でよろしいでしょうか」

 小さくため息をつき、「はい、その通りです」と答えた。

 カウンターに戻った奏は早速、豆を挽いた。もちろん、モカ・マタリだ。

 薫風堂では豆は手挽きだ。電動では高回転で発熱し、香りが飛んでしまうからなのだが、ミルで挽く豆の大きさの設定がけっこう難しい。

 奏はいつもよりも一段、粗挽きにした。

 昨日、近衛が淹れるところを見ていたので、同じように2杯挽いて、水は軟水を使用した。沸騰して30秒ほど置いて、底から泡が上がってくる音がしなくなるまで待った。

 お店にはサイフォンもあるのだが、近衛はわざわざ女性小説家にはネルドリップ・フィルターを使用した。豆の油分等で適度の目詰まりを起こし、抽出スピードが落ちてくるので、濃厚な味わいになるという特徴がある。サイフォンは温度のコントロールによる調整が難しい上に、湯の中で豆が泳ぐ形になるので、豆の持つ味わいをすべて出してしまって、モカでも特にエチオピア産では、ともすると苦み、渋みが表に出すぎて、爽やかでフルーティーな香りと酸味が損なわれてしまうことがある。

 粗挽きでは苦み、渋みを抑えることができる反面、豆の持ち味を十分生かし切れないことがある。

 近衛はそれを最初の蒸らしと、その後、蒸らした山をわざと崩して豆をばらけさせ、湯を浸透させる方法で、豆の味と香りを可能な限り引き出そうとしていた。

 奏はこれらを見よう見まねであるが、同じようにやって見せたのである。

 さすがにフロアの客席に持って行くまでの間、コーヒーの表面に波を立てずに、というわけにはいかなかったが、中学生としてはかなりハイレベルだったと言えよう。

 女性小説家は香りをかいで、コーヒーを口に含み、意外そうな顔をした。

「あら、あなた、上手じゃない」

 奏の顔が、パッと明るくなった。

「あ、有り難うございます」

「私、世界中のカフェでモカを飲んできたけれど、モカの淹れ方では、ここのマスターが一番」

 奏はニッコリ微笑んだが、一方で、自分はまだまだだ、と言われた気がして、肩を落とした。

「そしてあなたが二番!」

 奏は目を丸くした。

「ほ、本当ですか!?」

「ええ、本当よ。少なくとも、私の好きな香りと味よ」

 奏は安堵の表情を見せた。

「でも、マスターの淹れたモカは、香りがもっと立っていたわ。たぶん、温度ね」

 これには奏も同意見だった。しかしそれ以外にも香りを逃がさない方法はある、と考えを巡らせていた。

(サイフォンだったら、香りが逃げずに抽出できるかな)

「あなたはマスターの淹れ方をなぞるのが精一杯で、まだ自分なりの淹れ方を確立したわけではないでしょう?」

 うなずかざるを得なかった。

「あなたがマスターのことを意識せずに、自分のやり方でコーヒーの方にすべての意識が集中できた時、本当の意味で、マスターと勝負できる真のバリスタになれるんだと思う」

 彼女の言葉に、緊張がほぐれていくのがわかった。

「でも、凄いわ。あなた、まだ中学生でしょう? 酸味と深いコクを保ったまま、クロロゲン酸の渋さを抑えて、ほろ苦さは残す。ちょっと深煎り気味の焙煎技術によるところも大きいけれど、一流のフランスのバリスタでも、なかなかここまで淹れることはできなかったわ。あなた、バリスタとして才能あるわよ」

 奏は頬を染めて、視線を下げた。

「それって感性の問題かも。やっぱり血筋よね。あのMNOのあらたさまのお嬢さんだものね」

 MNOの新の娘、とは初耳だった。今まで千明の娘、と言われることはあっても、父親絡みで言われることはほとんどなかったからだ。

「MNOって?」

 奏の怪訝そうな顔をまじまじと彼女は見つめた。

「あら、あなた、本当に知らないの?」

「え、ええ」

「もう、20年以上も前になるわ。雅楽に使われる楽器と西洋のオーケストラの楽器を組み合わせて、新しい日本ならではのオーケストラ、モダン・ニュー・オーケストラを結成して絶賛を浴びたのよ。海外ではジャパニーズって意味で、J―MNOって書くことが多かったようだけど、オーボエと笙、ファゴットと尺八、フルートと横笛、クラリネットは篳篥と組んで、さらに弦楽器には箏も加えて越天楽のヴァリエーションや、ブルックナー風のとっても面白い音楽を聴かせてくれたの」

 奏は父親の過去を知るこの女性小説家に、嫉妬心がわき起こるのを覚えた。

(やっぱり、単なるお客さんじゃなかった)

「千明さんと組むようになってからは、プロデュース中心になってしまってちょっと残念だったけど、3枚目のアルバムに越天楽風のフレーズがあって、篳篥や笙に加えて横笛も出てくるでしょう。あれ、全部、新さんの演奏なのよ」

(そういえばあの曲、とても懐かしい感じがした)

「今、聴くこと、できる?」

「あ、はい。少々、お待ちください」

 奏はカウンターの奥へとって返す。

 タブレットPCを手にして出てきた時には、すでに曲が流れ始めていた。

 彼女はしばらく目を閉じて聴き入っていたが、突然、大きく目を見開いて奏の方に振り向いた。

「浦安の舞というのがあるでしょう」

 奏は顔を伏せて頭を振った。知らなかったのだ。

「昭和15年に創られた巫女神楽なのだけれど、デビューした翌年の新年に千明さんが本装束姿でライブで舞ったことがあったの。『天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波たたぬ世を』と、昭和天皇がお詠みになった歌を鉾鈴を鳴らしながら舞った時には、会場がシーンとなって、荘厳な雰囲気に包まれたわ」

(私が生まれるだいぶ前のことだわ)

 奏はまぶたを閉じ、曲に耳を傾けながら、まだ高校生だった母が舞う姿を想像した。

 当時、後ろは膝裏にまで届く長さと、鬢そぎした胸元まで届く漆黒の髪が千明の隠れた人気の秘密でもあった。

 特に胸元で揺れる鬢そぎした黒髪は、振り付けの効果も相まって、男性聴衆には絶大な威力を発揮した。

「普通はライブ会場などで浦安の舞を舞うことは許されていないのだけれど、新さまが宮内庁の楽師として篳篥を演奏したことがあること、千明さんが宇佐神宮で舞ったことがあるということで、特例で許可されたみたいなの。演奏は宮内庁楽師時代の同僚に頼んで実現したらしいのよ」

 女性小説家はカウンターの真ん中奥の壁に飾っている篳篥と笙に視線を移し、口元をほころばせた。

「ぜひアルバムに入れて欲しいという話があって、新さまが何度も宮内庁と交渉したんだけど、そのままではちょっと無理だったみたい。で、曲のフレーズや歌詞は使わないことを条件に、旋律は違うのに雰囲気はそっくりな雅楽合奏にして出したのよ。あれって、才能よねぇ。そうそう、そのアルバムの3曲目だったと思うわ」

「あ、はい」

 手にしていたタブレットPCで瞬時に選曲する。途中で曲が変わっても、他の客はほとんど気づいていないようだった。

 朝鮮民謡にも似た、どこかもの悲しい曲が流れた。

 曲が鳴った瞬間、「あっ」と、小さく奏は声を上げた。

「この曲、母がよく口ずさんでいました」

「そう、ぃちゃんが・・・・・・」

「えっ?」

「あ、ごめんなさい。私ね、あなたのお母さんと高校まで一緒だったの。そしてあなたとも同じ学校。先輩でもあるのよ」

「し、失礼いたしました」

 奏は深々と頭を下げた。

「だから本当は駅前でチラシなんか配っちゃ駄目。アルバイトも禁止。学校から呼び出されちゃうわよ。あなたが通っている学校って、そういう学校なのだから」

(なんでもお見通しなんだ。敵わないな)

 奏はうなずくように、小さく頭を下げた。

「でも、家業の手伝いなら、言い訳できるかもね。それに、あなたの淹れてくれたコーヒーが飲めなくなるのは残念だから、学校には内緒、ね」

 と言うと、小さくウインクした。

(やっぱり、ただのお客さまってわけじゃなかった)

 奏は再びうなずくように、頭を下げた。

(千ぃちゃんが亡くなった時、あんなに小さかった子が、もう、中学生。時が経つのって、本当に早いものね)

 女性小説家は千明の生前、奏がまだ幼い頃に何度か会ったことがあることは告げなかった。

(千ぃちゃん、あなたの娘はもうこんなに上手にコーヒーを淹れることができるようになったのよ。もうしばらく独り立ちができるまでの間、どうか見守ってあげてね)

千明の曲を聴きながら、ゆっくりとコーヒーの味と香りを楽しむのだった。

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