第2話
出逢いは千明が17歳の春にさかのぼる。
葉山にある三条家別荘に、春休みを利用して千明が遊びにやって来ていた時のことだ。
「う~ん、良い天気。ねえ、爺も外へいらっしゃい。気持ち良いわよ」
ベランダで千明は大きく伸びをした。
「滅相もないお嬢さま。春とはいえ、日差しが強うございます。それに風がまだ肌寒うございます。どうか、中にお入りください」
周囲は皇族や華族の別荘が中心で、互いに距離もあり、敷地は木々で仕切られ、直接目に触れることがない。麻布の実家と違って広々とした洋風の葉山の別荘は、千明のお気に入りである。
前方のブリム(つば)が広くて、後ろをリボンで締めたベージュ色の帽子をかぶり、ベランダの手摺に体を預けるようにして、お気に入りのフレーズをスキャットで口ずさんだ。
「ら~ら~、らぁらぁらぁら~ら~……」
(風が気持いい。今日はなにかいいことがありそう)
そんな予感がして、千明は目を閉じた。
ちょうどその頃、道路を挟んで向かいの鷹司家恒例の桜宴に招かれ、道路脇の看板の元に1100㏄の大型バイクを停めて、ヘルメットを取った男がいた。若き日の近衛である。
汗ばんだ頭髪とヘルメットの圧迫から解放され、耳がまるで喜ぶかのように、遠くの小鳥のさえずりまで聴こえてくる。。
その時、近衛はフッと顔を上げ、道路向かいの木立の奥に見え隠れする三条家の別荘の方を見やった。
(ん? 誰か歌っているのか? 澄んだ綺麗な声だな)
近衛は目を閉じてスキャットに耳を傾けた。
木々がざわめき、歌が聴こえなくなったかと思ったら、一陣の風に乗って帽子が飛んで来て、道路脇の桜の木の枝に引っかかった。
近衛は仰ぎ見ると、ヘルメットをバイクのシートに置き、帽子が引っかかっている桜の木の下まで行って木を揺すった。
帽子は桜の花びらとともに、枝からゆっくり舞い降りてきた。
(まるで天使が舞い降りて来るようだ)
近衛が帽子を掴んだ時、三条家の方から一人の少女が走って来るのが見えた。
少女は近衛の姿を目にして、一瞬足が止まったが、その手に自分の帽子を見つけ、顔を伏せたまま早足に近衞へ近づき、間を置いて歩みを停めた。
「君の帽子?」
近衛が訊くと、少女はコクリとうなずいた。
帽子を手渡そうと近衛が歩み寄ると、少女は一歩あとずさりしながら、手を伸ばして帽子を受け取ろうとした。
帽子を手渡しながら近衛は「歌っていたのは、君?」と、訊いた。
少女は耳たぶまで赤くなり、帽子を引ったくるように受け取ると、目深に被って、「あ、有り難うございます」と言うと軽く頭を下げ、帽子を押さえながら、長い髪をなびかせて脱兎のごとく走り去って行った。
(さすがは噂に聞く三条家の姫君。美声もさることながら、まさに高原の美少女、だな)
再び三条家の別荘を振り返ると、少し微笑んで近衞はバイクにまたがった。
午後3時。
鷹司家の庭園には120人ほどの人々が集まっていた。女主人の鷹司正子は50代半ばを過ぎているはずなのに、見た目は若々しく、40代前半とサバを読んでも誰も疑わないほどであった。
「新さんにいらしていただけるなんて、本当に嬉しいわ」
「こちらこそ、お招きいただき、有り難うございます」
近衛はこういったパーティーが苦手だった。ついつい、作り笑顔になってしまう。
「宗家のお兄さま、お仕事が忙しくて少し遅れていらっしゃるそうよ」
誰かを探す近衛の視線に、正子はてっきり仲の良い宗家の総領を探しているものと思っていた。
「そうですか」
それにしてはあまりにもそっけない返事に、正子はちょっと拍子抜けしてしまった。
「ごゆっくりお楽しみくださいな」
と、正子はドレスの裾を翻して別のテーブルへ足を向けた。
「有り難うございます」
近衛は聴こえるかどうかもわからないような小さな声で、とりあえずは礼を言うと、再び視線を四方に走らせた。
(三条家、招待されているはずなんだが……)
そう、近衛のお目当ては、先ほどの三条家の姫君であった。
近衛はガーデン・パーティーに集まった人々に会釈しながら、人混みを離れ、裏庭の小高い丘に上って行った。集まった人達全体が見渡せるからである。
丘の中腹まで登った時、桜の巨木に背をもたれて小声で口ずさんでいる少女を認めた。
(あの娘だ!)
近衛はそっと背部から回り込み、声をかけた。
「君の声は、本当に澄んでいて、小声でも良く通るんだね」
声に驚いて急いで木陰に隠れようとしたが、後ろを振り向いたところに近衞の顔があって、とっさに帽子を目深に被り直した。
「あなたは……。その節はお世話になりました。あの、紹介が遅れまして申し訳ございません。三条千明と申します」
両手でドレスを軽く掴むと、膝を小さく曲げて、俯き加減に会釈した。
「近衞新です。帽子、深く被り過ぎですね。それではお顔が拝見できませんよ」
千明はさらに俯いた。しかし突然ガバッと顔を上げ、まじまじと近衞を見つめた。
「えっ? 近衞さまって、もしや……」
「いや、宗家ではありません。祖母が本家の末娘の……」
近衞の言葉を遮り、頭を振りながら千明は目を輝かせた。
「MNOの新さまですよね。私、大ファンなんです」
「は、はぁ……」
「でも最近はプロデュースのお仕事ばかりで、演奏を聴くことができなくて、とても残念ですわ」
「それは、どうも……」
「レコードで聴くおやかたさまの新響の演奏も良かったけれど、MNOの雅楽とジャズの組み合わせ、とても素敵でした。特に新さまの笛が」
近衛は苦笑した。笛なら三条家のお家芸で、父親の忠義氏は若くして人間国宝なのである。
「三条家の私がお願いするのも変ですが、新さま、吹いていただけませんか」
千明は紫紺色の風呂敷を開いて桐箱から笛を取り出し、近衞に手渡した。
「これ、三条家の家宝の龍笛ではありませんか。私なんかが吹いたら……」
胸の前で手を合わせ、瞳を輝かせたままの千明に、小さくため息をついて近衛は笛を構えた。大きく息を吸って、ゆっくりと笛を吹き始める。
「あらっ? このフレーズ……」
千明は近衞を見つめて顔を赤らめた。だが笛に合わせて最初は小さい声で、次第に声量を上げて伸びやかに歌い出した。
鷹司正子は一通り挨拶をすませてテーブルに戻り、ワインを飲み干そうとしていた。
裏庭から漏れる歌声と笛の音に気づき、耳をそばだてた。居合わせた他の客も気づいて顔を見合わせながら、三々五々、裏庭へと向かう。
千明の歌声に合わせながら、近衛は時折、アドリブで対旋律を吹いた。千明は微笑みを浮かべて近衛を見つめ、ゆっくりと両手を広げてスキャットを歌い終わった。
「ブラボー」
割れる様な拍手と声に驚いて千明は振り返った。正子たちに気づいていた近衛はゆうるりとお辞儀をした。
「新さんて、音楽の方はおやかたさまやお祖母さま譲りで、楽器、なんでもお上手なのですね」
近衛は右腕を大きく胸の前に回して、腰を折って、再び恭しくお辞儀をした。
「それにしても、噂に聞く千明さんの歌声を生で聴くことができるなんて……。今宵は今までで最高のパーティーになったわ」
正子の隣で三条家の当主、忠義はハンカチを手に、汗を拭っていた。
「お恥ずかしい限りです。三条家の者が笛ならまだしも……」
正子は頭を振った。
「いいえ、あの気品ある魅惑のミルキー・ボイスは、本当に素晴らしいですわ。学校のコーラス部でしか聴けないなんて、残念に思っておりましたの」
近衛は畏まった表情で斜面を降りると、忠義の前に歩み寄った。
「ちょっと三条のおじさまにお願いがあるのですが・・・・・・。お嬢さまを私の音楽事務所から歌手としてデビューさせていただけないでしょうか」
三条家の父娘は目を丸くした。
それから半年。
デビュー曲が発売と同時にオリコン一位。
デビュー後、わずか一ヶ月でファースト・コンサートを武道館で行うという快挙を成し遂げた。
清らかでいながら甘く囁くようなその歌声で聴く者を魅了し、千年の歌姫の二つ名で歌謡界を席巻した。
出すアルバムみな100万枚を突破。中でも雅楽の三管である笙、龍笛、篳篥を伴奏に使用した雅な楽曲は、録音の良さも相まって絶賛され、2枚目のアルバムは200万枚も売り上げた。
だが、わずか5年で結婚、引退。
相手は誰もが予想していたとおり、近衛だった。
引退前のラスト・コンサートでは悪阻を押して最後まで完璧に歌い上げた。近衛と女性マネージャー以外、誰もそのことに気づくことはなかった。
出産後は家庭に入り、近衛の父が亡くなったあとの喫茶店を引き継いだ。
コーヒーの香りに包まれて毎日がゆったりと過ぎ、大切な友人たちと心ゆくまで会話し、仕事というより、千明にとってそこは心安まる場所であり、静かに幸せをかみしめることができる場所であった。
しかし運命はあまりにも残酷だった。なんと若干9歳の娘を残してこの世を去ることになってしまったのである。
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