喫茶・薫風堂
楠 薫
第1話
「立てば馬車道、座ればアンミラ。歩く姿はブロンズ・パロット」
その男は喫茶店の主である
受け取った名刺に視線を落とす間もなく、近衛は目の前の男を唖然として見つめた。
目の前の男はそれだけを口にすると、沈黙して近衛に名刺を見る時間と心理的余裕を与えた。
株式会社MS企画取締役社長松田
一歩間違えば、夭逝した人気俳優である。
「作、が無いですね」
名刺に視線を落としたまま近衛が呟いた。
「そう、策がない」
松田はひと呼吸置くと、続けた。
「これだけの立地と外観をもってしても客数は一日30未満。家族経営で従業員に支払う給与は心配ないとしても、材料費に光熱費、固定資産税をはじめとする税金を支払うと、明らかに赤字だ」
そんなこと、言われなくてもわかっている。
父の代から続くコーヒー専門の喫茶店で、ランタンが看板代わりの、古い煉瓦造りの凝ったアール・ヌーヴォー様式の外観は、東京大空襲による被害を逃れた荻窪地区ならではのたたずまいと言えよう。
荻窪には近衛家別荘の荻外荘があり、昭和35年には半数近い建物が移築されたが、その際、一部は血縁の者に分け与えられた。この喫茶店の建物もその一つである。
「食欲は性欲に通じ、逆も然り」
近衛は目の前の世界に揺らぎを感じて、両足を踏みしめた。
(ウチを風俗マッサージ店にでもする気か?)
近衛の瞳に怒りの色が帯びつつあった。
「この喫茶店が生き残るためにはメニューの充実と、制服が必要」
近衛はようやく松田が最初に口にした「立てば芍薬……」をもじったこの川柳の意味を理解した。
馬車道は埼玉県を中心に展開しているパスタ・メニューが豊富なファミリーレストランのことである。驚くべきことに霞ヶ関の合同庁舎5号館、つまり厚生労働省や防災担当内閣府のある庁舎の中にも出店していて、矢羽柄の羽織にスカート状の女袴と、足もとは編み上げのショートブーツ、いわゆる明治・大正時代の女学生スタイル「すみれ女史」が特徴である。全体を紫色で統一していて、頭のリボンがとても良いアクセントになっている。
アンミラはおそらく「アンナミラーズ」のことであろう。中華まんの「井村屋製菓株式会社」が経営する、ペンシルバニア・ダッチスタイルのアメリカン・レストランである。
バストのアンダーを絞り込み、エプロンの肩ひもで横からもバスト共々、グッと持ち上げる格好になるので、バストラインが非常に強調されることになる。さらには左襷の真ん中あたりに付けた赤いハート型の名札にファースト・ネームをローマ字で入れているのも、バストへ視線を誘う効果をもたらしている。
30年以上も前にこの制服を採用したとは、時代を先取りしたというか、恐れ入るばかりである。
だが、近衛には、最後のブロンズ・パロットには心当たりがなかった。
それは無理も無いことであった。
立川の日野橋交差点にあった、ウエイトレスが歩くと綺麗な弧を描いてたなびくスカートで有名な「不二家」系列のそのお店は、21世紀には消滅していたからである。
「制服と言っても、喫茶店ですからメイド服がせいぜいでしょう。でも、ウチには女性店員はいませんから」
「いや、確かお嬢さんがいらしたはず」
近衛は思わず身構えた。
(家族のことまで調べ上げているのか?)
「それに、カチューシャを付けたメイドばかりが喫茶店の従業員とは限らんでしょう」
松田は意味ありげに右側の口角をつり上げた。
「渋谷の西武デパート西館、ティーサロン・アールをご存じですかな?」
「いえ、残念ながら」
「そうですか。一度、ご覧になると良い。もっとも、紅茶がメインですが」
間があった。あたかも近衛をじらすように。
だが、近衛はじらされて痺れを切らす、テレビドラマに出てくるようなステレオタイプの浅はかな人間ではなかった。
紅茶、英国風、メイド服以外となれば、執事に思い至ることは造作も無いことであった。
しかし近衛は首を傾げた。
理由は二つある。
一つは自分がすでにその執事風のディナー・ジャケット、つまりタキシードを着用していたからだ。しかしこの服装で、松田の言う、「食欲は性欲に通じ、逆も然り」にはほど遠い、
「まぁ、すでにお気づきのこととは思いますが、あなたのその服装もまた、重要。それに、なにも執事やメイド服ばかりが喫茶店の定番というわけではない。カラフルにピンク、グリーン、イエロー、ブルーなどもある」
(これに、レッドを加えれば、戦隊モノができるな。それにしても喫茶店を舞台に、なにと戦おうって言うんだ)
「曜日で服装を変える、従業員にごとに服装を変える、という方法もある」
(ますます、戦隊モノになってしまうじゃないか)
しばらく間があった。
天井スピーカーから流れてくる音楽が変わった。松田の眉がピクリと動き、ゆっくりと確かめるように口を開いた。
「近衛さん、あなた、ただ者じゃないですな」
(それはこっちの台詞だ。もっとも、さらに余計なお節介は止めてくれ、と付け加えたいのだが)
ふぅ、と近衛は小さくため息をついた。
(ま、近衛の姓を名乗っているからには、ただ者じゃないのがすぐバレるのは当然として、祖母と祖父の関係にまでさかのぼって説明しなくちゃならないのは、ちょっと面倒だな)
「ビクターVDJ1536。国内CD初盤とは……。驚きですな」
松田の呟きがあまりにも意外過ぎて、目を見開き、近衛は思わず上ずった声を上げてしまった。
「松田さん、あ、あなたも、ただ者ではありませんね」
「一目瞭然、いや、一聴瞭然、ジャズ好きには」
近衛は目尻を下げて、うなずいた。
かかっていた曲は『ワルツ・フォー・デビィ』。ビル・エヴァンス・トリオの名盤である。
通常、『ワルツ・フォー・デビィ』では、ところどころに音揺れを感じることが多い。初期LPもそうだし、配信されているハイレゾ音源でも同様である。
1987年にリリースされた米アナログ・プロダクションズによるゴールドCDにはそれがないが、冒頭の一音が急速フェードインするため、最初の音が欠けているように感じる人もいる。
その点、ビクターVDJ1536には音揺れや音欠けが無い。代わりにLP時代にはベースが左側に位置していたが、このCDでは少しセンター寄りである。これをオリジナルLPと違うと嫌う人もいるが、現代ではピアノトリオなどは、ベースとドラムスのキックドラムをセンターに、シンバル、スネア、タムタムなどをマルチマイクで左右に大きく広げ、ピアノもサウンドステージの中心に位置しながら、ピアノの大きさが感じられるステレオ感のある優秀録音盤が増えてきている。
1961年に録音され、四半世紀を経て1986年にリリースされたビクターVDJ1536は、CDリマスター盤とは思えない鮮度と音の野太さがあり、今もって評価が高い。
「こんな素晴らしいソースを選んでいるのに、この音は・・・・・・」
ジャズ喫茶という、ライブではなく、ジャズのレコードを中心に音楽を聴かせる喫茶店が多数存在するという、世界に類を見ない希有な現象が起きている日本。もっとも、かつて1980年代を境に、その数も減少傾向にある。
「BOSEのスピーカーが悪いというわけではない。喫茶店のスピーカーとしては妥当な選択でしょうな。特にこのような天井埋め込み型スピーカーは。しかしこんな素晴らしい演奏、名盤をかけているのに、この音じゃ、情けない、いや、ビル・エヴァンスに対して失礼では?」
近衛は当惑した。
喫茶店にはいろんな客が来るが、かかっている音源ディスクの違いまで言及した客はいなかった。さらにその音質にまで言及してここまで酷評した客は、もちろん未だかつていなかった。もっとも、松田は単なる客ではないようだが。
「せめてジャズを鳴らすのなら、定番のJBL4312とサンスイのプリメインアンプAU607シリーズとの組み合わせで、CDプレーヤーは最低でもマランツのCD34,できればルボックスのB225で鳴らして欲しい」
近衛は再び眩暈を覚えた。
それというのも、喫茶店のレコードプレーヤーが故障した際、まだ大学生だった近衛が父親に買って欲しいとせがんだシステムだったからである。
「さすがにCD34は古いでしょう。もう、30年も前の製品ですから。それにいつもCD、いや、実際はネットワーク・オーディオですが、こんな名盤ばかり流しているわけではないんですよ」
松田はうなずいた。
「最近はJASRACがうるさいから、せっかく有線も引いているなら、有線も使わなくては。有線でBGMを鳴らすだけなら、別にBOSEでも結構」
「いや、ほとんど有線で流しているんですよ。お客さん、若い方が多いですからね。J―POPとかを中心に。今は他に客がいなくて、私と同世代の松田さんだけでしたから、ジャズを流しただだけで……」
「それじゃ、今日は他に客がいなかったこと、感謝しなくてはなりませんな」
(客がいないことを感謝されるようになったらお終いだな。飛び込みの営業マンを追い払う口実にもならない)
近衛は上目遣いに視線を松田から反らした。
「もし、J―POPが流れていたら、おそらく、こんな話はしなかったでしょうな」
(そういえば、もともと、服装とメニューの話じゃなかったっけ。いったいどこで話が逸れてしまったんだろう)
好きな音楽とオーディオの話で心が躍ってしまって、記憶の糸をたぐってみても、松田の名前に『作』の字がないことくらいしか、すぐには思い出せなかった。
松田は再びスピーカーから流れるエヴァンスの曲に耳を傾ける。
「ネットワーク・オーディオ、DSはLINNですかな?」
近衛は目を見開いた。
「音の線が細めでそれなりに透明感がある。でも、解像度はそれほどではない。AKURATE? いや、違うな。この華かさはMAJIKか……」
(この松田という人は、なんという耳の持ち主なんだ)
近衛は絶句し、しばらく沈黙が流れた。
通常、オーディオ・システムから出てくる音は、音源をはじめ、再生装置の一つ一つが複雑に絡み合って、出てくる音を形作る。
時には電源ケーブル一つ、壁コンセントがアース付きの3Pタイプか否かによっても大きく音が変わってくる。
もちろん、部屋の反響などによっても、まったく別物になってしまうこともある。
よっぽど特徴がある音なら別だが、使っている機器まで正確に当てるというのは神業に等しい。
だからオーディオ・ショップで良い音で鳴っていたからといって、自宅で同じように鳴るとは限らない。長らく自分のセンスに合うよう培ってきたシステムとの相性もあって、趣味で作ったアンプが、数十倍もするメーカー製品を凌駕する音を聴かせることだってあるのだ。
「そ、それにしてもよくおわかりですね」
「別に難しいことじゃない。スピーカーがBOSEの天井埋め込みタイプを使用し、アンプもやはりBOSEのPA用」
松田はチラッとカウンターの中の棚を見ただけで、即座にアンプのメーカー名を言い当てた。
「それぞれの音の特性を引き算して、元の音源のサウンドをイメージすれば、おおよその見当はつけられる。もっとも、それなりに訓練は必要だが」
(どういう訓練をすればそんな耳になるんだ)
喉元まで声が出かかった時、松田は頭を掻きながら、財布の中から少し縒れた名刺を差し出した。
名刺には『Viva・Audio誌編集長松田優』の文字と住所、電話番号だけが書かれていた。
(そう言えば、最近このオーディオ誌、あまり見なくなったな)
近衛は小さくうなずきながら、顔を上げて松田を見た。
「どうりで耳が良いわけですね」
「いやぁ、先にこちらを出しておけば、話が簡単でしたな。申し訳ない」
簡単ですむ話じゃないだろう、と茶々を入れたい気持ちをグッと抑えながら、ちょっと険のある視線を松田に向けた。
「ネットワーク・オーディオをやるなら、スイッチング・ハブとLANケーブルにも気を配る必要がある。海外のネットワーク専門メーカーの製品を選ぶのではなく、国産ファンレス静音タイプを選んだ方が音がクリアで色彩感が豊かだったりする。ま、あとはご自分の耳で選択すればいい。なにしろ良い耳をお持ちのようですからな」
「は、はぁ……」
(しまった。オーディオ誌の名刺を出したものだから、松田さんのスイッチが入ってしまったようだ。話題を変えなくては)
残念ながら、近衛の努力は3秒ももたず、水泡と帰した。なぜなら、近衛が口を開く前に松田がエンジン全開で喋り始めたからである。
「オーディオで一番重要なのはスピーカー。なんといってもシステムの顔、ですからな。顔立ちというのは、真っ先に好悪を決める最重要ポイント。さらには声を発する上でも、ほぼ、システムの方向性を決定づけるもの。ついでに言うなら、音源が胴体で、アンプが脚、と認識していただくと良いかと」
「は、はぁ……」
もう、近衛にはうなずくしか残された道は残っていなかった。
「これほどの造りの建物、コーヒーの味と香りも見事。モカはマタリの選別豆。焙煎は自家焙煎……」
「ええ、そう、自家焙煎です。焙煎の際にも豆を一粒一粒選別して……」
やっと本来のコーヒーの話になって、思わず身を乗り出した近衛だったが、その言葉は松田にあっさりと遮られた。
「それなのにどうしてこんな音、なんです? これで良いとでも?」
近衛はがっくりと肩を落とした。
「いったい私にどうしろと……」
松田はため息をついた。
「もう、ご自身でおわかりなのでは?」
スピーカーからは『ワルツ・フォー・デビィ』の最後の一曲、『マイルストーンズ』に変わった。
まるで一気に突っ走る松田さんのテーマ曲のようだ、と近衛は思った。
「もし、建物の雰囲気を活かすなら、スピーカーはパラゴンでしょうか」
松田は首を振った。
「アール・ヌーヴォー様式の建物にパラゴン? ご冗談を。外見的な繊細さを考えるなら木製格子のオリンパスS8R」
近衛は大きくうなずいた。
「でも、オリンパスはこの店の音じゃない。ヴィンテージ・オーディオじゃ、このお店のネットワーク・オーディオは活かせない。それにパラゴンの場合、かなりの横長スペースが要求される。残念ながらそれだけのスペースが取れるところがどこにもない」
少し心が動きかけた近衛だったが、松田は一刀両断に斬って捨てた。
「じゃぁ、43シリーズとか?」
松田は鼻で笑った。
「神田小川町のGRAUERSはとても良かったかと思いますが」
必死に食らいつく近衛に、松田はニヤリと笑った。
「あそこはネットワーク・オーディオではない。このお店にEMT927でも入れるつもりですかな」
そんなお金も棚のスペースもないのは一目瞭然だった。EMT927は1950年代にドイツで発売された放送局向けのレコードプレーヤーである。通常の30㎝盤より大きくて希少な40㎝盤が載ることもあって、程度が良いと300万円はくだらない。
「そこで、JBLのエベレストが狙い目かと」
慌てて近衛は頭を振った。
「とんでもない、いくらすると思っているんです?」
「そう、普通に買えば。中古っていう手もある」
中古と言っても、元値が1本で300万円。廉価版でも280万はする。通常のステレオ再生では2本必要であるから、倍の費用がかかる。
「DD66000からアップグレードしたDD67000に乗り換えたがっているユーザーもいるはず。そういう人と直接交渉すれば少しは安く手に入るかもしれませんな」
一つ前の世代と言っても、一本、280万円もしたスピーカーである。3分の1の価格で手に入ったとしても、ステレオ再生には2台必要だから、200万円前後の取引になるだろう。
しかしその値段もだが、近衛の頭になにか引っかかるものがあった。
「そうそう、パラゴンですら大きすぎるのに、DD66000、どこに置こうと言うのです?」
ふっ、と松田の口元が緩んだ。
「入口と反対側のコーナーに置けばいいじゃないですかな。もともとこのスピーカーはハーツフィールドを模して作ったもの。コーナータイプだから、なんの問題もない」
「DD55000ならどうです?」
松田は小さくうなずいた。
「86年に発売になったDD55000なら安く手に入るとでも? それは間違い。かえって希少価値があって、当時の価格の倍もしたりする。もっとも、数が少なすぎて入手は困難。それに当時のスピーカーでは、このお店のネットワーク・オーディオを活かすことはできませんな」
ネットワーク・オーディオを活かす、という言葉に近衛はちょっとだけ心を動かされた。
近衛の気持ちは傾きかけていたが、一方で、経営者としての人格が、待ったをかけた。
「確かにスピーカーを中古で安く手に入れたとして、アンプはなにを選べば良いのでしょう? アンプだってプリとパワー、万一セパレートタイプだったら、数百万しますよ」
「理想を言えば、スピーカーがJBLなら、マーク・レビンソンの系譜に連なるヴィオラのソロとレガシーがベスト、と言いたいが……」
「そんなことしたら、それだけで千数百万飛んでしまいますよ!」
「そう、新品なら」
「ヴィオラのアンプも中古で買い求めると?」
「それも選択肢の一つ。でも、私ならそんなことはしない。ヴィオラを選ばない、という選択肢もある」
「じゃぁ、ダン・ダゴスティーノを、とでも? それともクレルの古いアンプでも手に入れよ、とでも言うのですか?」
「いや、ファースト・ワット」
「まさか、SIT―1?」
「そう、そのSIT―1」
「でも、あれって、出力は確か、10ワットでしょう」
「そう。わずか10ワット」
近衛は頭を振った。
「無茶です。あのダブルウーファーのエベレストを駆動できるとはとても思えない。それにファースト・ワットが本領発揮するのはクラシック音楽でしょう。スピーカーもソナス・ファベールとか。でも、能率が悪いし、とても10ワットでは……」
「オリンパスS8Rなら……」
「そりゃ、古いマランツの7と9でしょう。1番はもう、どこを探しても程度の良いものはないですから」
松田の口元がほころんだ。そして、少し間を置いて笑みを浮かべながら口を開いた。
「お詳しいですな、近衛さんは。新しいものばかりでなく、古いものもよくご存じのようで……」
しまった、と近衛は小さく舌打ちした。誘導されていたことに気づかなかったのである。
「まるで、下見はすでにすませていらっしゃるようだ。クラシックを流すならソナス、ジャズならJBL。アンティーク的に行くなら、スピーカーはパラゴンとアンプはマランツ。でも、スペースがないからどうしたものかと」
(ええ、ええ、その通りですよ。クラシック音楽を流したいが、コーヒーがメインの喫茶店ならやっぱりメジャーなジャズで勝負をしたい、とね)
それにしても、と近衛は改めて思った。
(この松田という人、本当にオーディオに精通している。しかもこちらのことなどお見通し、という感じだ。10年かけてイメージを育んできて、ようやくここまでたどり着いたというのに)
「ファースト・ワットのSIT―1でソナス・ファベールのストラディヴァリ・オマージュを鳴らしている人、いますよ。確か、音楽療法をやっている内科のドクターだったかと。部屋は12畳程度で狭いが、天井が高くてエア・ボリュームがあるせいか、音に飽和感があまりなかった。このくらいの広さの店内なら、ファースト・ワットでもスピーカーがDD66000だったらそれなりのパワー感で聴くことができるのでは?」
松田は小さくうなずいた。
その時、近衛がハッと、顔を上げた。
「そうか、スピーカーの能率か。DD66000なら96dBあったはず! ストラディヴァリ・オマージュ92dBの倍以上のパワーが出せるわけですね!」
「ご明察。数字まで覚えているとは、あなたも相当オーディオに詳しいとみえる」
普通なら褒められて喜ぶべきところなのだろうが、この時の近衛は顔のデッサンが狂ったかのように引きつってしまっていた。
「A級100Wのヴィオラのレガシーのようにはいかないにしても、喫茶店で会話ができる程度の音量となれば、そんなに出力は上げずにすむから、それで十分でしょうな。プリアンプはなくとも、今のようにLINNのDS側でボリューム・コントロールする設定にすれば、メインアンプにダイレクト接続でOK」
近衛は歪んでしまった顔の筋肉を必死に戻しながら、かろうじてうなずくことに成功した。
「それにしても、近衛さんには驚かされることばかりだ」
「松田さんに較べたら、私なんか、まだまだで……」
「さすが、おやかたさまをうならせたお祖母さまの血を引く方だけのことはある」
近衛は小さくため息をついた。
「すべてご存じのようですね。10歳の時、二番目の兄がかけた蓄音機の音を、一度聴いただけでヴァイオリンでコピーしてみせた、なんていうのは、あれは尾ひれが付いて、伝説と化してしまった話です」
「それだけの耳とオーディオに関する見識をお持ちなら、ウチでライターやってもらえると助かるんだが……」
近衛は手振りも加えて、頭を振った。
「と、とんでもない。私なんか、この喫茶店で精一杯です」
「今くらいの客数なら、ライターをやる時間は十分あるはず。経営の足しにもなる。もっとも、客が増えてきたら、そうもいかんでしょうが」
経営の足しになる、という言葉に少しクラッときたが、地獄の釜の蓋を開けてのぞき込むような真似はしたくない、と、かろうじて思いとどまった。
ちょうどそこへ、娘の
「お帰り、
近衛が言い終わらないうちに小走りに店内を駆けて近衛の背中に隠れた。
奏が長い髪をなびかせ、店内に足を踏み入れた瞬間、松田の驚きの入り交じった視線が、次第に口角をつり上げ、妖しげな視線に変わったのを目の当たりにして身の危険を感じ取り、怯えているようだった。
「
父の優しい声に少し表情を和らげてスカートを指先でつまんで少し持ち上げ、顔をわずかに左に傾け、膝を軽く折って頭を下げた。
「はじめまして。近衛
松田の表情が驚嘆の色に変わった。
「素晴らしいお声だ。さすがは千年の歌姫と讃えられた三条千明さんのお嬢さんだ。容姿も仕草もかつての千明さんを彷彿とさせる。しかしこれほどまでとは・・・・・・」
松田の勢いに気圧されて再び奏は近衛の背中に隠れ、近衛はため息をついた。
「本当によく我が家のことをご存じなのですね」
「それは、もちろん。千明さんの大ファンでしたからな」
近衛は頭を抱えた。
三条の姫さま、千年の歌姫と賞された千明を結婚、引退に追いやったのは、近衛だったからである。悪阻がひどくて、とてもコンサートで歌える状況ではなくなり、一時休業、ということにしたのだが、千明はそのまま家庭に入ってしまって、その後は表舞台に出ることはなかった。
音楽事務所には近衛宛にカミソリの刃が入った封筒が届くなど、一時、週刊誌やワイドショーを賑わせ、芸能リポーターの追っかけに遭ったりもしたが、そのうちみんなの興味は、二股かけていた美人歌手が本命とされていた恋人を捨てて駆け落ち、5年後に金沢の旅館で働いていたところを激写された話に移っていった。
もともと三条家は龍笛を生業とする家柄で、音楽には造詣が深かったが、千明自身は歌手として人前で歌うなど、まったく考えていなかったのだ。
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