第4話

 緊張した面持ちの近衛の姿が麻布の三条邸前にあった。インターフォンに出た執事の話では、当主の三条忠義氏は出張、麗子夫人も出かけていて、留守だと言う。

「仕方がない。また出直すか・・・・・・」

 ちょうどそこへ黒塗りのベンツSクラスが制限速度をかなりオーバーして砂埃を上げながらやって来ると、ほとんど急ブレーキ状態だったのに車体がブレることもなく、なにごともなかったように静かに止まった。

 車の性能もだが、お抱え運転手の腕前も相当なものである。近衛はどんな運転手なのだろうかと、興味が湧いた。

 長年、三条家で働いていると思われる初老の運転手が運転席から出て後ろに回り込み、後部座席のドアを恭しく開ける。前を横切らないところもさすがである。

「本当にお珍しい。新さんがいらっしゃるなんて」

 どうやら執事からすでに連絡があったようだ。

「三条の奥さま、ご無沙汰いたしております」

 近衛はヘルメットを置いて頭を下げた。近衛はバイクでやって来ていたのである。

「もう、新さん、そんな他人行儀な。あなたは娘千明の夫、義理の息子でしょう。たとえ千明が亡くなっても、私はかなでのおばあちゃん、なのですから」

「はぁ、しかし・・・・・・」

「私たち、あなたには感謝しているのよ。もし千明があなたに見いだされなかったら、あんな引っ込み思案の子がみんなの前で歌ったり、充実した日々を過ごすことができたかどうか。そして5年前に他界するまでに結婚できたかどうか。奏を遺してくれたかどうか・・・・・・。短い生涯だったけれど、千明は幸せだったと思いますよ」

「もっと早くに異常に気がついていれば、助かったかもしれないのですが・・・・・」

 三条麗子はゆっくり頭を振った。

「それは病院でも申し上げましたが、言いっこなし、ですよ。私たちだって、まさか小さい頃の病気の再発だなんて思わなかったし、そのこと、あなたにも黙っていましたもの。それに、毎年受けている人間ドックでもわからなかったんですから。ところでどうしたのです? 3年以上もいらしていなかったのに、突然・・・・・・」

 近衛はちょっと口ごもった。

「以前お勧めした大型スピーカーですが、今もお使いでしょうか? ちょっと気になったもので」

 なぜか、麗子はため息をついた。

「ああ、あれね。オーケストラは良いのだけれど、書き物をしながら聴くのにはちょっとね」

 近衛が案内されたのは、麗子の書斎だった。12畳ほどの広さなのだが、床の間や襖に障子といった、典型的な書院造りである。

 短歌や短編小説を書くのを生業としている麗子だったが、クラシック音楽にも造詣が深く、自らピアノも弾いたりする。隣の部屋との仕切りのように襖の前に据え置かれた本棚には参考資料となる本に加えて、CDやLPレコードが所狭しと詰め込まれていた。お陰で襖はその役を果たせず、雪見障子は偉容を誇るJBL・DD66000、通称エベレストに占拠されて、使い物にならない状況であった。

 それだけではない。その手前には銀色に輝くヴィオラ社のレガシーという、1台で75㎏もある米国製超弩級大型モノラル・パワーアンプが置かれていて、雪見障子はアンプの放熱拡散のために開かれるのが関の山だった。

 書斎の机の後ろには英国製、LINNのレコードプレーヤー、CDプレーヤーが置かれている。プリアンプにはパワーアンプと同じメーカーの、ソロというこれまたモノラル仕様のアンプが英国製クワドラスパイヤーのオーディオラックに納められていた。

 ざっと見積もっただけで、2000万近いシステムである。

その割に、接続しているケーブルは数百円程度の、商品にオマケで付いてくるような安っぽいケーブルであった。あるいは、本当に商品に付属のものを使っているのかも知れない。

 聴く位置も問題だった。

 麗子が机に座った状態ではスピーカーに背を向けた格好になるので、ちゃんとしたリスニング・ポイントでの音楽鑑賞というには、ほど遠い状況であった。

麗子はCDラックから1枚のディスクを取り出した。クープラン作曲王宮のコンセール。ロベール・クレールのフルート・トラヴェルソが見事なフランス・ハルモニアムンディの名盤である。

 もともと三条家は笛を家業とするだけあって、棚にはクイケン兄弟のバロックアンサンブルの作品をはじめとする、フルート関連の演奏ディスクが所狭しと連なっていた。

 CDプレーヤーのディスクトレイが引っ込み、数秒の間があって、出てきた音に近衛は愕然とした。

 クルリと踵を返して、麗子は少し悲しげな表情で微笑んだ。

「ね」

 それ以上何も言わない麗子に、近衛は胸を締め付けられる思いだった。

「それにその銀色のアンプ、冬は暖房要らずで有り難いのだけれど、夏はクーラー入れないと熱くなりすぎて、とてもこの部屋に居られないの。私はクーラーの風ってあんまり好きになれなくて、できれば使いたくないのよね」

 A級パワーアンプの宿命で、たった100Wの出力なのに、消費電力は音を出していなくても常時450W。そのエネルギーのほとんどは熱として発散されてしまうのだから、たまったものではない。しかも単体でこの消費電力。ステレオでは2台必要なのである。900Wのヒーターをガンガンたいているのに等しい状況では、確かに夏場は灼熱地獄に等しい。

 その上あまりにも巨大で、スピーカーの前に置かれている現状では、椅子を回してスピーカーと向き合うと、ほとんど足がアンプに当たってしまうほどの距離である。

 しかし、それよりもなによりも、音、である。

 フルート・トラヴェルソがまるでジャズのスイングそのままに、耳元まで迫ってくるのである。

 しかも困ったことに、接続している安物ケーブルのせいで音の切れ味が悪く分解能が劣るため、濁り気味の音が塊になって耳元に飛び込んでくるのだ。

 おまけに和室で響きが少なく、潤いのない乾いたそっけない音になってしまっているので、なおさら粗が目立った。

「書き物をしている間は音は鳴って欲しいのだけれど、もっと静かに、しっとり鳴って欲しいの」

(確かにこの音じゃ、落ち着いて仕事はできないだろうな。だが、ジャズ喫茶向きな音ではある)

 すでに近衛はこのスピーカーと、できればアンプも合法的かつ両者納得の上で譲り受ける方法はないものか、と思い巡らせていた。

 5年以上も前のこと。麗子から一本の電話があった。

「とっておきの音で音楽を聴きたいわ。ゾクゾクするような、ライブの迫力をきちんと再現できて、あれこれ言う人を黙らせるくらい音の良いステレオ。なにかない?」

 その時に挙げたのがJBLのDD66000とヴィオラのアンプだった。

 麗子は「あ、そう。JBLのDDなんとかいうスピーカーとヴィオラね」と確認しただけで、すぐ千明の容態に話が移って、近衛としてはその話は立ち消えになったとばかり思っていた。

 だが、世の中にはたったそれだけの情報で、見事に仕事をやってのける優秀な執事がいたりするのである。

 三条家の高橋執事はその最たるものだろう。

 高橋老人の仕事ぶりは、実に素晴らしかった。

 電気関係のことであるから、出入りしている電器店に依頼した。大型液晶テレビを納入した電器店にである。電器店は電器店で高橋執事の話から的確にスピーカーとアンプを選び、定評のあるレコードプレーヤーとすでに市場から姿を消していた同じメーカーのCDプレーヤーを探し出して納品した。そして麗子に言われるままの場所に設置して行った。

 別になんの問題もないじゃないか、と思われるかもしれない。確かに間違いなく商品を納入し、音も出た。だがオーディオの世界において、これではラジカセが鳴ったのとなんら変わらない。世界の銘機と言われた製品を手にして、その実力を存分に発揮させるには、皆、あまりにもオーディオというものを識らなさすぎた。

 近衛とて、書斎に設置すると聞かされていたなら、もっと別の製品を選んだに違いない。いやそれ以前に、自分が勧めたオーディオ機器が納入されたと知っていたら、駆けつけてセッティングを手伝い、ケーブルをはじめ、微調整に気を配ったに違いない。

 それにしても、旧財閥の娘の資金力は恐るべきものがある。おそらくは財閥系企業の大株主で、遺産として受け継いだ、あるいは贈与されたのだろうが、配当金だけでも十分食べていけるのだろう。ひょっとしたらこのスピーカー、アンプも税金対策の一環として購入したものかもしれない。

「そこで相談があるの」

「なんでしょう」

「私が気に入りそうなステレオをちゃんと選んでくださらない? 私がそれを気に入ったら、これをお譲りするわ」

 鳩に豆鉄砲とはこのことであろう。

 すでに頬が緩んでいることに気づいて慌てて近衛は表情を整え、軽くせき払いした。

「わかりました。予算はどのくらいのおつもりでしょう?」

「そうねぇ、いくらでも構わないわ。その音さえ気に入れば、たとえこの10倍かかっても」

 言うのは簡単だが、10倍というと、元が2000万円なら、2億円である。それだけの予算があれば、アンプ、スピーカー、それぞれの世界最高額機だって手に入れることができるだろう。それに、少々オーバーしても、笑って許してくれそうである。

 だが、近衛はあえて高価なシステムは外すことにした。そしてCDプレーヤーとLPプレーヤーは慣れもあり、変えないことにした。もっとも、英国LINNのその二つの製品は、近衛の考えるサウンド・イメージに合致していたからでもある。

「それにしてもなんだか嬉しそうだけれど、本日のご用はなんでしたの?」

 近衛はハッと我に返った。そして答えに窮した。

 当然である。もう、すでに用はすんでいたからである。

「ああ、いえ、このスピーカー、どうなったかな、と気になってまして」

「確かに良い音だとは思ったのだけれど、なんだか聴いていて落ち着かなくて。それに今の私には、音楽を聴いているとイメージがどんどん沸いて出てくるような、そんな音が必要なの」

 額から汗が一筋流れ落ちた。

(どこで使用するのかも訊かず、設置する場所の確認もせず、納入後も自分が実際に音を聴いて調整をしなかったばかりにこんな音になってしまっていたとは・・・・・・)

 それまで頬が緩んでいた近衛だったが、今度は一転、表情を強ばらせた。

「ちゃんとお伺いしておけば良かったのですが、あのあとすぐ、千明の容態が悪化してしまって・・・・・・」

「だからもうその話は止しましょう。でも、孫の奏がいるのに、3年も寄りつかないのだから、困った婿殿であることには違いないわ」

 返す言葉がなかった。

「千明が亡くなった時、喫茶店、閉めるかもしれないと言ってたでしょう。でも続けてくれて嬉しかったの。あなたのお父様から千明が引き継いで10年になるのよ。お店に行くと、亡くなる前とちっとも変わらなくて、今でもカウンターに千明が立っている気がして・・・・・・」

 麗子は少し涙ぐんで鼻声になっていた。

「スピーカーのことを思い出して寄ってくださっただけでも嬉しいわ。こんどはぜひ、奏を連れていらっしゃい」

 思わず本音が出てしまったことに一瞬、ハッとなった麗子だったが、それを隠す余裕がないほど、娘、千明のことを思い出して動揺していた。

「譲っていただけるというのは有り難いのですが、かなり高額なシステムです。タダで、というわけにはいかないでしょう」

「音響機器の減価償却は5年でしょう。5年以上経っているから大丈夫よ。もし、お気になさるのなら、送料はそちら持ち、ということでいかが? どうせこの部屋には置けなくなるでしょうから、私としても引き取っていただいた方が有り難いわ」

「広間の方に置くというのはいかがでですか?」

 提案しておきながら、もしそうなったらせっかく手に入れることができるチャンスを逃すことになるな、と表情が曇った。

「まさか」

 麗子は口元に手をあて、「ふふふ・・・・・・」と優雅に笑った。

「あそこで鳴らしたら、和室だから音が外へ抜けて屋敷中、響き渡ってしまうわ。まだここなら、離れだから他にはあまり影響しないから良いのだけれど」

 その答えをきいて、いろんな意味で安堵する近衛だった。

        *

 半月後、再び近衛の姿が三条家にあった。

 麗子の部屋に足を踏み入れて、すでにスピーカーとアンプが撤去されていることに驚いた。納入業者には梱包をほどいて取り出すところまで手伝ってもらい、あとは帰ってもらうことにした。今回の機種なら自分一人でセッティングするのも容易だったからである。

 近衛が選んだアンプは英国EARのV12という真空管のプリメインアンプだった。入力の切り替えからスピーカーへの出力まで一体化されているので、インテグレーテッドアンプとも呼ばれている。

 外見上はミッキーマウスの耳のような左右に盛り上がった部分がダストカバーになっていて、中に11本ずつ小ぶりの真空管が配されている。一般的な中~大出力管をこれ見よがしに並べ立てるものとは大きく異なっていて、EARの中でも、ちょっと特異な外観である。価格は120万。ヴィオラのプリアンプペア580万円、メインアンプペアが780万円と較べると、10分の1以下である。しかし一般的なプリメインアンプからすると、一桁上の値段である。

 スピーカーは一見、なんの変哲もない英国ハーベス社のHLCompact7ES-3。これを専用のスピーカースタンドに載せて高さを上げてちょうど耳の位置にくるようにした。 

 値段はスタンドの分を入れても35万円と、DD66000のペア約600万と較べると、これまた格安である。

 だが、スピーカーケーブルに1m3000円ほどのEXIMAの限定モデルを6m使用し、先端はフルテックのロジウムメッキYラグを取り付け加工。電源ケーブルはAETのEVOLUTIONをCD、LPプレーヤーにも使用。それらの音源とプリメインアンプ間は価格が1万円ほどであるが、やはりEVOLUTIONのインターコネクト・ケーブルを使用した。

当初は同社の最高峰、エビデンスのシリーズを使おうとしたが、確かに音は抜群に良いが、電源ケーブル1本で40万近く。ラインケーブルも同様とあっては、価格バランスが悪すぎた。

 スピーカーケーブルを、もしAETのエビデンスにすると、5m受注生産モノだと300万円を超える。

 おそらく麗子ならば、それくらいの費用は躊躇せずに小切手を切ってくれただろうが、近衛の価値観がそれを許さなかった。むしろ根本的な音質改善に向け、他に金をかけるべきだと考えた。

 そこで近衛は三条家の電源事情を改善すべく、電力会社に交渉して三条家専用に柱状トランスを独立。一系統はトランスから直接麗子の書斎に引っ張るよう、変更させた。

 さらには麗子の書斎専用50Aブレーカーからオーディオラックの裏まで最短距離で30Aエアコン用のケーブルを4本独立して引き、壁コンセントはフルテックのオーディオグレードのロジウムメッキ、3p一個口タイプを3系統、二個口タイプを一系統設置した。さらにはアース工事も行った。近衛みずから接地抵抗値が最低になるポイントを割り出し、専門業者に12mもの深さに6本もアース棒を打ち込ませて、A種アース接地抵抗値2オームという、施工業者も驚く数値を叩き出すことに成功した。

 室内エアコンは200Vということもあって、屋敷のメインのブレーカーから別系統で引っ張ってきている。さらには天井灯や掃除機など一時使用のためのコンセントも、以前からある室内配線は屋敷の方から引っ張ってきていて、完璧にオーディオ用に電源が独立した格好になった。

 キュービクルは保安点検の面も含め、費用がかかりすぎるために導入を見送ったが、賢明な判断であろう。

 DD66000導入の最初からこのくらい徹底していたら、もっとマシな音で鳴っていただろうが、今回、麗子の求める音の方向性とは明らかに違っていた。

その点については近衛には自信があった。

 そして麗子の求める音は、新たに組んだオーディオ・システムの方により近いだろうと、近衛は確信していた。

 メーカーからスピーカーとアンプ、ケーブル類は一週間で届いていたのだが、それをすぐに三条家に持ち込まず、近衛はさらに一週間、喫茶店の奥にある自宅で鳴らし込み、エージングして音が落ち着いたところで持ち込んだのである。

 CDプレーヤーとLPプレーヤーに変更はなかったので、電源工事が終わると同時に電源ケーブルをAETに変更、接続してもらい、音は鳴らさないで電源を入れっぱなしの状態にして、全部が揃うのを待ってもらった。

 その間、ヴィオラのプリアンプでV12を接続予定のコンセントの通電を行っていたのは言うまでも無い。

 梱包を解いてスピーカーを取り出した時、麗子は「あら」と小声を発した。

(スピーカーが小さすぎてガッカリしたかな?)

 近衛は少し不安になった。

「これはイギリスのスピーカーです。米国と違って、イギリスは中型から小型スピーカーが主流なんです」

 そう言ってスタンドを少し内向きに据え、再び白手袋をすると、その上に静かにスピーカーを置いた。

 スピーカーの背部に回ってケーブルを取り付け、部屋の両端の畳を上げてケーブルをくぐらせる。そして机の脇のオーディオラックの後ろから引き出した。

 近衛の自宅ではそれなりに良い音で鳴っていて、そのまま手元に置いておきたい衝動に駆られたほどだったが、麗子の書斎でどう鳴ってくれるかは、こればかりは実際に鳴らしてみないとなんとも言えないものである。

 ましてや麗子の書斎は和室で音響的にはデッドな部屋である。

 音響機器側でそれを補うべく、色香の漂う音でなければ、実に乾ききった素っ気ない音になってしまう。LINNのCD12とLP12が麗子の好みそうな方向性の音を得意としていたことも近衛の意を強くした。

「先日お聴かせいただいたクープランの王宮のコンセール、もう一度お聴かせいただけますか」

 近衛が頼むと、麗子はニッコリ微笑んだ。

 すでにそのCDを手に取っていたからである。

 音が鳴った瞬間、近衛は小さく「よしっ!」と両拳に力を込めた。

 音のたたずまい、というものがある。

 音が耳元に迫ってくるJBLのDD66000と違って、ハーベスのこのスピーカーはある程度の距離感を保ちながら、これ見よがしに主張しない。聴き手に寄り添って音楽を鳴らしてくれる。

 音の洪水の中に身を置きたい場合はJBLに軍配が上がるが、静かに耳を傾けたい場合には、ハーベスのこのスピーカーの方が絹の打ち掛けが頬を撫でていくような、時にゾクリとするような色香を感じさせるのである。

 音のリアルさを求めるならこういった色香は余計なものであろうが、音を楽しむという意味では、他に代えがたいものがあると言って良い。

「これよ、これ。素晴らしいわ。私、こういう音が好きなの」

そう言うと、麗子はさらに一枚のCDを棚から取り出した。

 そのジャケットに、近衛は見覚えがあった。

「私、千明が歌った曲の中で、この曲が一番好きなのよね」

 聴き覚えのあるスキャットが最初に流れ、転調して3オクターブもの高い声音を聴かせる。プロの声楽家でも難しい発声を千明は難なくこなしたばかりか、ピアニッシモにもかかわらず正確な音程と、耳元でささやくように、しかし無風の池の水面に石がぽとりと落とされて輪が広がっていくように、遠くまで澄み渡った声が広がっていく様は、神がかっていると評されたものである。

「この曲、あなたの作曲ですって? あなたはプロデュースの仕事が専門とばかり思っていたけれど、作詞作曲の才能もおありなのね」

「正確に言うとこの曲のフレーズは、千明が口ずさんでいたものです。それを音符にして歌詞を付けただけです。コード進行からするとケルトの民謡に近いのですが、おそらくはそれを元に気に入ったフレーズを組み合わせて独自に創り変えたものでしょう」

 驚いたことに、麗子がスピーカーから出てくる千明の歌に合わせて、小声で口ずさんでいたのである。しかも千明とピッタリ合った見事な音程で。

(ああ、さすが母娘おやこだな。本当に声質が同じだ。そして奏もこの曲が一番好きだと言って、口ずさんでいたっけ)

「音楽って不思議よね」

 麗子はCDのケースを手にとって眺めながら言った。

「もう、千明はいないのに、こうして音楽を録音したディスクをかけると、まるで今でもそこに千明がいるように歌ってくれるのだもの」

 麗子の眼に光るものを認め、近衛はかける言葉が見つからなかった。千明が亡くなって、もう、5年以上も経つのに、まだつい先日のように思い出しているのである。

「ライブの迫力は前のスピーカーに劣るかも知れないけれど、千明の声はこれが一番近いわ」

「ええ、そう思います」

「それにしても驚いたわ。あなたがこのスピーカーをご存じだったなんて。実家にもう少し横幅が広くて平べったい、同じようなイギリスのスピーカーがあるの。確か・・・・・・」

「それ、タンノイのスピーカーではありませんか?」

「そう、タンノイ! これは違うの?」

「おそらくご実家のスピーカーはタンノイのⅢLZという小型スピーカーです。同じ英国製ですが、これは英国BBCのモニター・スピーカーに起源するハーベスという新しいタイプのスピーカーです。ⅢLZではスピーカーユニットは同軸2ウエイという見かけ上一つですが、これは二つで、構成も違っています」

「でも、聴き慣れた音だわ」

「ⅢLZよりもワイドレンジで高域が少しか細いかも知れませんが、音のたたずまいは真空管アンプを選んでいるので、ご実家の古いシステムと似た鳴り方をするのかもしれません」

「そう言えば、なんだか化粧品のような名前のとても熱くなる、ガラスの管が光るアンプだった気がするわ」

「たぶん、それはラックスSQ38Fでしょう。かつてⅢLZとセットで黄金の組み合わせと言われました。室内楽を聴くならこの組み合わせは抜群で、1970年代、音楽を職業とする方々には絶大な人気でしたから」

 あっ、と近衛は小さく驚きの表情になった。

「そういえば奥さまのお父さまには新響設立の時にお世話になったと伺っています」

「ええ、母が音楽学校の出、でしたから。私には音楽の才がない、と嘆いておりましたわ。実家のスピーカーは、父がその新響の録音した曲を聴くために購入したと聞いています。映画のフィルムみたいな、もうちょっと細いかしら、テープが巻いてある大きくて丸い、目のようなものがグルグル回っていて、それを見ているとこちらまで目が回りそうだったわ」

(ああ、オープンリール・デッキのことか)

 近衛は小さくうなずいた。

「それにしても新さん、奥さまはおやめくださいな」

「す、すみません」

 頭を下げた近衛だったが、どうにも「お義母かあさま」とは呼べずに困惑した顔で小さくため息をついた。

(音楽の才がない? とんでもない。千明の3オクターブに及ぶこの歌を音程を外さず歌える人間が、どのくらいこの世にいると思ってるんだ)

 近衛は自分がそこまで歌えないせいもあるのだろう。羨ましくもあり、そして妬ましく思っている自分に気づいて、そんな自分に腹立たしくもあった。

「そうそう、あの大きなスピーカーですけど、ピアノ運送の方に頼んで、アンプも一緒に持って行ってもらうようにしてあるわよ。明日にはお店の方に届くんじゃないかしら」

 あまりもの速攻ぶりに、近衛は狼狽した。

「あ、有り難うございます。本当にお手数をおかけしました」

「ううん。今度選んでいただいたスピーカーとアンプ、凄く気に入ったわ。高かったでしょう?」

「あ、いえ・・・・・・」

 さすがに、前のシステムの10分の1の価格だったとは言えなかった。

「もしよろしければ、このシステムと交換という形でいかがでしょう?」

「あら、それじゃ、すでに減価償却が終わっているものとの交換、というわけ?」

「まぁ、そういうことです」

「それじゃ新さん、あなたが損することになるわ。ちゃんと領収書をお持ちくだされば、お代くらいは払うわ」

 金額を知ったら、麗子はどう思うだろう、と、ちらっと頭をかすめたが、なんと言っても10分の1の価格である。

「じゃ、奏ちゃんを連れてくるってことで、どう?」

 近衛はムッとした。

 奏と今回のアンプとスピーカーの件は別である。

「奏は今回の件とは関係なく、いずれ、こちらから伺うことになると思います」

 言い放って、近衛はちょっと冷たい言い方をしたな、とヒヤリとした。

「じゃあ、コンセントの件とか、いろいろ手を尽くしてくださったことへのお礼ということで・・・・・・」

「別に自分が直接工事を行ったわけではありません。それに工事にかかった費用はすでにお支払いいただいているようですから、それでは二重にお支払いになることになります」

 麗子は小さくため息をついた。

「わかりました。それじゃ、交換ということでよろしくて?」

「はい、そうしていただければ・・・・・・」

 麗子は再び大きくため息をついた。

        *

 松田が再び喫茶店に姿を現したのは、スピーカーが届いて5日目の夕方のことだった。店内に足を踏み入れるなり、アンプとスピーカーを目にして、松田の足が止まった。

「い、いったいどうやって・・・・・・」

(勧めたのはあんただろうが)

 喉元まで出かかった言葉を飲み込み、にこやかに近衛は松田に声をかけた。

「いらっしゃいませ」

 音を耳にした松田は絶句した。

 松田はスピーカーの真正面のテーブルの椅子を引いて顔を松田に向けた。

「こちらへどうぞ」

 これだけの音が出ているのに、店内には誰も居ないというのは、なんとも悲しい限りである。

「あ、ああ」

 松田はまるで引き寄せられるように、よろよろと近衛が水を満たしたコップを置いた席に向かって歩き出した。

「ケーブルはエビデンス?」

「はい」

 にこやかに近衛は微笑んだ。

 AETのエビデンス・シリーズは、電源ケーブル一本、1.2mでも30万円を超える超高額であり、それをスピーカーケーブルやラインケーブルまで揃えるとなると、あっと言う間にケーブル代だけでも200万円を超える。

 それを50万円以内に収めたところが近衛マジックと言えよう。

 種を明かせば、オークション・サイトとオーディオ仲間から格安で手に入れたのである。

「DSも換えた?」

 少し震える声の松田に、近衛は微笑みで返した。

「はい。中身は元KlimaxのRenewですけど」

 LINNの最高峰、Klimaxをバージョンアップした際に古い中身を再利用したもので、友人宅で遊んでいたものを格安で引き取ったシロモノである。

 ショップ経由ではなく、独自のルートでこういうレアなものを使用しているユーザーを知っているというのも、貴重である。

 だが、それだけではなかった。

 三条家のアース工事を請け負った会社にアースポイントの見つけ方を伝授するテスト代わりに超破格値でアース工事をさせ、柱上トランスがうなっているということで新しくて容量の大きいトランスに交換してもらい、そこから自宅とは別に喫茶店専用の回線を引いてもらっていたのである。壁コンセントはWATTGATE model 1381とフルテックの混在である。もっとも、WATTGATEは米国製で公には日本国内では使用できないこともあって、カウンター奥の目立たないところの壁コンセントにこっそり使用していたりしている。

「し、信じられない。一歩間違うとドンシャリになるDD66000が一本芯が通っていて力強く迫ってくる。それでいて位相が整って空間が見事に出ているなんて・・・・・・」

「DD66000のジャンパー線をAETのものに交換したんですよ」

 近衛はサラッと言ったが、普通、そこまでやる人間はいない。

 松田の顔が引きつって、ヘラヘラと笑い出した。

 松田の気持ちもわからないわけではない。

 よっぽどのベテラン、あるいは様々な修羅場をくぐり抜けてきた者でないと、導入したオーディオ製品を一週間以内に理想的な状態に仕上げることは不可能である。

 おそらく松田は自分の方が近衛よりオーディオにかけては少なくとも一歩上を行くと思っていたようだ。オーディオのことを教えてやろう、というくらいの意気込みがうかがえたのも事実である。

 だが、近衛は宮内庁式部職楽部で雅楽を学び、宮内庁の楽師として篳篥ひちりきを演奏することもあった上に、あの千明を見いだし、プロデュースして録音やミキシングにも携わった耳の持ち主である。

 ミキシング・スタジオのモニター・スピーカーをタンノイのスーパーレッド・モニター15、プリアンプはクレルのPAM―3、パワーアンプはKSA―100に交換させて音作りしたことは当時、評判となった。

 まだ高嶺の花だったノイマンのマイクロフォンでボーカルやサックス、雅楽の三管と言われる笙、龍笛、篳篥を収録。弦楽器とフルートはショップスのマイクロフォンで美しい残響音とともに拾い、ドラムスとピアノは測定器用のEARTHWORKSの選別マイクを充て、マイクロフォン・ケーブルにはノイマンではなく、グラドというアメリカのカートリッジメーカーのケーブルを使用した。鮮烈でありながら見事な空間の広がりと透明感のあるオーディオ的にも優れた録音を成し遂げたのは、業界内では今や伝説となっている。

 もし、千明がJ―POPではなくクラシック音楽、あるいはジャズでレコードを出していたなら、間違いなく「最優秀録音盤」として賞讃されたであろう、と当時のレコード誌では評されていた。

 近衛はこれをまだ20代前半の若さでやってのけたのだから、周囲の驚きようは、推して知るべし、である。

 そういう御仁であるから本気を出させると、自らセッティングなどを行わず、編集者に言われるまま記事を書いている生半可なオーディオ評論家なんぞ真っ青の次元である。なんと言っても、現場での経験が違う。どうすれば良い音が出てくるか、その核心部分を知り尽くしている。

 近衛が柱上トランスのこと、アースポイントのこと、壁コンセントのことなどを話すたびに松田の顔は大きく引きつり、見るも無残なありさまであった。

「ま、まぁ、この音なら、千明さんの曲、お嬢ちゃんに満足な音で聴かせてあげられますな」

「そうですね」

「それにしても、あの、クィーン・レーベルは音が良かった。もっと曲を出せば良かったのに。ジャズだったら、間違いなく日本のブルーノートになったでしょうな」

 近衛は頭を掻いた。

「あのレーベルは千明専用のようなものでしから」

「そうなんですか? 私はぜひレコーディングとミキシング・エンジニアの方に会ってみたいと思っていたんですがね。名前をクレジットしていたら、きっと引っ張りだこだったでしょうな。ああいった音作りからすると、アメリカのエンジニアでしょう。音の良い中小レコードメーカーではよくやる手法ですからな」

 どうやら松田は千明のレコーディングのことについてはほとんど知らないらしい。これ以上、松田の機嫌を損なわないよう、千明のレコーディングの話から離れなければ、と考えを巡らせていた。

「千明さんのファースト・アルバム、ありますか? 無いとは言わせませんよ」

「ええ、ちゃんとNASに入れていますよ、バッファロー製の」

「SSDですか?」

「いやいや、そこまではお金がなくて、ハードディスクタイプですよ、DELAブランドの」

 危うく、松田はコーヒーを吹き出しそうになった。

 DELA HA―N1AH20は最新の高音質ネットワークサーバーの一つである。そこからLINNのRenew DSに直結してあるのだ。

 パソコンやタブレットPC、スマートフォンでネットワークサーバーに接続、選曲して音楽を流す方法だが、通常のNASと違って音楽専用に考えられているこのシステムは、画質も向上させることから、将来的には映画などの録画にも使用されることであろう。そのためにはSSDの大容量化とコストダウンが必要である。スマホやタブレットPCで出先から自宅に繋いで、自宅の録画や高音質録音を再生して楽しむことも、今でもできないことはないが、回線スピードがまだ十分ではないのがなんとも残念である。しかし超高速モバイル・アクセスポイントが増加してきており、今後は容易になることだろう。

 松田はまじまじと近衛の顔を見つめた。

「近衛さん、あなたはいったい、何者です?」

 近衛は再び頭を掻いた。

「しがない、喫茶店のオヤジ、ですよ」

 松田はゆっくり頭を振った。

「一介の喫茶店のオヤジがこんな最新のネットワーク・オーディオの環境、構築できますかな。そしてこれだけの音、出せますかな。恐らく喫茶店でこの音に対抗できるのは、日本でも数カ所あるかどうか」

「一関と吉祥寺、ですか?」

「吉祥寺はお店の音はさほどでもない。ご自宅にはそれなりのシステムをお持ちなんですがね。しかもお店は土日はイベントをやっていて、一般客が入れないこともある。一関は閉まっていることがけっこうあって、ここみたいにいつでも気楽に入れるわけではない」

「ウチだって、いつもこのようにガンガン音を出せるわけではありません。たまたま今日は他にお客さまがいないから・・・・・・」

「今日も、ですな」

 小さくため息をつくと、再度、近衛は頭を掻いた。困ったときの近衛の癖なのかも知れない。

「そうですね。でも、あと2日くらいしたら恒例の締め切り間近の作家さんとかもいらっしゃいますよ。あの、幸福の樹ドラセナの向こうの窓際なんですけど、こちらからの視線は樹に遮られ、窓際なのにつるバラが窓を覆っていて、外はそれなりに見えるのに、外からは中が見えにくい、まるで周りから隠れるようなあの席が指定席になっています。その方がいらっしゃった時には音楽もクラシック、しかも室内楽に変えたりするんですよ」

「しかしコーヒー一杯で原稿を何ページも書くとなると、一人で数時間、あの席を占拠する、というわけですな」

「二杯、ケーキを所望することもあります」

 松田は頭を二度、三度と振った。

「利益率の問題ということ、おわかりいただけますかな?」

「ええ。回転率が悪いですから、時間に対する客単価は低いでしょうね」

「それだけわかっていながら、なぜ・・・・・・」

「外資系のコーヒー・チェーン店のように売り上げ重視でいけばそうでしょうが、イタリアン・エスプレッソに魅入られ、それを人々に広めたい一心でせっかく入社したコーヒー豆販売会社を辞めてカフェを立ち上げ、逆に元の会社を買収、現在の礎を築いたところもあります」

「スターバックス、ですな」

 近衛はうなずいた。

「スタバのような成功例はチェーン店展開ができたからで、私はもっと静かで思索する場所を提供したいと思っています」

「それでは経営的には成り立たないでしょうな」

 小さく近衛はうなずいた。

「営業成績をどんどん伸ばして他店を買収し、全国展開、なんていう考えは持っていません。おそらく日本の多くのジャズ喫茶は、同じような考えでしょう。良い音、良い音楽を聴かせたい。たぶん、コーヒーの味は二の次かもしれません」

「しかし、それはもったいない。ここで出されるモカの味は格別。ゲイシャも味わえるとなったら、それを活かさない手はないじゃないですかな」

 少し大きく近衛はうなずいた。

「そう、それが問題なのです。今までは私はコーヒーの味に拘ってきたつもりです。しかし松田さんのお陰で、再び音の世界、音楽にも目覚めてしまった。本当は、そのまま封印しておきたかったのですが」

 松田も少し大きく頭を振った。

「いやいや、封印するにはもったいない。これだけのシステムを揃え、一応、その道で食べている私を驚嘆させるほどの音を出せる才覚を持ち合わせているんですからな」

 そこまで言って、松田は怪訝な顔をした。

「そのまま封印? まさか近衛さんはどこかでオーディオ関連のお仕事をされていたのですかな?」

 近衛は一瞬、顔をしかめた。

(口は災いの元だな)

「あ、まぁ、その、千明の音楽プロデュースもやっていましたから」

 松田は身を乗り出して訊いた。

「ならば、あのクィーン・レーベルの録音やミキシングのエンジニア、ご存じということですな」

「え、ええ、まぁ」

 近衛は頭を掻いた。やはり、困ったときの近衛の癖のようである。もっとも、横溝正史の作品に出てくる金田一耕助ほどではないようだが。

「ぜひ、ぜひ、教えていただきたい。私はオーディオの音の善し悪しはわかるが、あのような音創りはできない。重ねてお願い申し上げる」

 テーブルに両手をついて、松田は深々と頭を下げた。

 松田がこれほどまでに相手に深々と頭を下げるのは非常に珍しい。他人に頭を下げるのが嫌いな性分であったから、出版会社との契約の時ですらここまでは頭は下げず、軽く会釈程度だった。

「松田さん、頭を上げてください。頭を下げるほどのことではありません」

「いや、私にとってはあの録音はバイブルの一つなのです」

「最初はスリー・ブラインド・マイスにお願いしようとしたのですが、細川綾子さんの時のようなスタッフを揃えられない、もし頼んだら予算の3倍もの費用がかかると言われ、次はRVCにお願いしてみることにしたのです。大貫妙子さんの一連の見事な録音がありましたからね。しかしここでも同様でした。やはり予算的な面と、録音スタジオを押さえられる日程が厳しかったのです。スタジオにまで足を運んで頭を下げたのですが、さすがにスタジオが空くのが2ヶ月後、というようでは、千明のデビューの予定を考えると、諦めざるをえませんでした」

 松田は身を乗り出した。

「諦めて、あの音、とは?」

 近衛は右頬を人差し指で掻きながら続けた。

「長崎の離島で牧師をやっている友人がいて、教会の修理の件で相談を受けていたんです。近衛の宗家に訊いてみたら、知り合いに腕の良い宮大工がいて、教会も手がけているとのこと。下見かたがた一緒に行ってみたところ、素晴らしい音響だったので、そこを借りて録音してみることにしたのです。機材はソニーのPCM F1、ボーカルと弦楽器、龍笛はノイマンU―87で、教会の残響は高さ3mの位置にショップスのCMC541というマイクロフォンを2本使用して拾い、ミキサーにはSAM82を使用しています。もっとも、ドラムスとピアノはあとから音を重ねていて、測定器用のEARTHWORKSの選別マイクを使用しています」

「ああ、だからあんなに空間が広がっていて、伸びやかな音だったんですな」

「録音機材は大学オーケストラの録音を担当していた生録マニアからの借り物です。そのまま使用すると、少し音が籠もりがち、暗めな音になるので、マイクロフォン・ケーブルはドイツのノイマンではなく、アメリカのグラドという、MCカートリッジを開発したところのものを使用しています。今ではヘッドフォンが一番有名でしょうか」

 松田はしばし絶句した。

「そ、それにしても、よく細かいところまでご存じですな。まるで・・・・・・」

 ハッ、となって松田は近衛を見つめた。

「ま・さ・か・・・・・・」

 今度は激しく頬を指で掻くと、あきらめ顔で答えた。

「そう、たぶん、お考えになっている通りです」

 近衛はガックリ、頭を垂れた。

 松田の驚き様はただ事ではなかった。

 一歩、二歩と下がって立ち止まり、多少、口元が震え気味に声を発した。

「そ、そんな、あなたのような方が、こんなところに埋もれていいはずがない」

「別に埋もれているつもりはありません。ちゃんと喫茶店で仕事はしていますし。それに千明亡きあと、奏の面倒をみるのは、私しかいませんしね」

「でも、それでは日本のレコード業界の大いなる損失と言わざるをえない。復帰するお考えはないのですかな? あ、いや、お嬢さんのこともあって復帰するのが難しいのなら、最低でも私の雑誌に投稿記事、お書きいただけないですかな」

 ここまで秘密を知られてしまっては、投稿記事を書くことくらいは同意しないと、松田に今日中に帰ってもらえないような気がした。それにもうすぐ午後3時。さすがに閑古鳥が啼くこの喫茶店も、昼どきと3時過ぎは一般客が来る時間帯である。松田のような先客がいて大声で喋られると、落ち着かなくて帰ってしまうかもしれない。

「わかりました。定期的に、というわけにはいかないかも知れませんが、投稿記事をお書きすること、約束いたします」

 近衛は小さくため息をついて頭を下げた。

 その近衛の手をとり、松田は言った。

「どうしてあなたが頭を下げるのです? 頭を下げなくちゃならんのは私の方でしょう。有り難う、本当に有り難う」

 松田は涙を浮かべながら頭を何度も下げた。

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