壺中天

久保田弥代

――壷中天――

 奇妙なつぼを拾った。

 真白まつしろい、瀬戸せとの壷である。

 高さは七寸 ほどあり、幅は五寸程。寸胴で、がらも模様も何も無い、ただ真白な壷である。中国茶碗のれにく似たふたかぶさっていて、れも真白い瀬戸である。表面はつるつるしているが、泥をり付けた上に其れを乱雑に拭き取った様な、妙な赤茶色の汚れが全面に付いている。横手に、人の耳に似た形の把手はしゅが一つだけ付いている。振ってみるが音はしない。空の様だ。

 形だけなら、骨壺こつつぼの様である。

 蓋が在るところなど、正しく骨壺だ。

 だが骨壺に把手が付いているはずは無いから、やはり違うのだろう。しかし手触りは骨壺の様にも思える。何となく、気になったので、河原の背の高い草に半分沈むようにうずくまっていた此の壷を、私は家に持ち帰る事にした。手巾はんかちぬぐってやると、泥水の様な汚れが多少落ちて、まあ奇麗になった。壷を小脇に抱え土手を越えて砂利道に出ると、自転車が一台、ちりん、ちりん、とベルを鳴らしながら私を追い越して走って行った。壷を抱えながら私は、何となく幸せな気分を感じた。

 家に帰ると、さいが玄関の前に立ってた。

 玄関のじようは私が出掛けにろしたのだ。

「お出掛けなさるおつもりでしたら、予め言っていて下さいましね。近頃はの辺りも物騒になりましたから、一人でうしているのは心細うございます」と妻は素振そぶりには見せずに私を責めたてた。私は「済まないね。すぐに帰るつもりだったし、まだ帰っては来ないかと思ってね」と全く子供じみた申し開きをした。妻は台所で夕食の支度を始めた。私は書斎に行く事にした。書斎と言っても、変哲へんてつもない六畳間に書き物机と本棚を詰め込んだだけである。作家である私にとって其処そこは仕事場でもある。私の足音を聞いて妻が「お好きな菓子を買って参りましたから、お仕事の合間にでも頂いて下さいな」と声を掛けてきた。返事はしなかった。

 書斎は、蒸し暑かった。

 どく瓦斯ガスにも似た熱気が私を襲った。

 窓を開け放して出れば良かったかとも一瞬考えたが、窓を開け放して外出は出来ぬ。近頃、ちまたは物騒になったと言われるが、れが心配な訳ではない。三文文士さんもんぶんしの私の家に盗みに入るおろかな泥棒もるまいし、在ったとしても彼は草臥くたびもうけという物を実体験するだけであろう。私がおそれるのは、家の何処どこかがいていると、家のなかそととがう事である。家と云うものはざされててこそ安息の場所 りえるのだ。私が家の中に居て目を行き届かせている時ならばまだ許せるが、私が居ない時にんな事は出来ぬ。人のらぬ家の何処かがいて居るなどと云う事は、素裸すつぱだかで外出するも同然である。其れがどれ程愚かしく無様ぶざまな出来事であるのかは、外国の童話の例を引くまでも無いであろう。

 とまれ、部屋の暑さには閉口した。

 窓と戸を開け放した。

 しばらく待つ事にする。私がうして此処ここに居るのなら、窓をけ放しても平気なのである。現金げんきんな物であると我ながら思うが、れも性分しょうぶんと云う物なのであろう。窓のそとからせみや他の虫の鳴き声が、風に乗って流れて来る。中の熱気が多少なりともやわらいでから、書斎に入り、書き物机の上に壷を置いた。の横に眼鏡も置く。外出中だけ掛けるのである。近目ちかめなのでれが無いと外出先で不便をする。又、手巾はんかちを出して今度は念入りに汚れをぬぐってやると、壷はなめらかな表面を見せる様になった。天女てんによはだを思わせる様な、白くつややかな壷になった。満足だったが、手巾が汚れでねっとりしてしまったのが少々不快であった。二行ばかり書き掛けの原稿用紙の上に鎮座ちんざした壷は、私よりも此の書斎のあるじ相応ふさわしいと思えた。私は風呂場にまで行き、洗い物のかごの中に手巾を放り込んでまた書斎に戻った。

 奇妙な壷だ。

 何の壷だろうか。

 書き掛けの原稿も気になるが、の壷の方がもっと気になる。気になるのだが、原稿の〆切は明後日あさつてに迫っている。とまれ、書かねばならぬ。壷をかたわらの畳の上に移し、万年筆を手に原稿用紙と向かい合った。吽々うんうんうなりながらどうにか小説らしい物を書きつらねていると、何とか〆切には間に合わせられそうな気がしてきた。其処そこへ妻が現れ、夕食の準備がととのったむね伝えてきた。もそもそと夕食をませた私はすぐに書斎に取って返し、又原稿と向かい合った。適当に切りがよいと思えるところまで筆を走らせ続け、今日はあたりでしておくかと思った途端とたん柱時計はしらどけいのチツクタツクという音が耳をした。

 十時になっていた。

 正時しようじかねさえ気付かなかったようだ。

 もつとも、此処ここところは鐘が鳴らない時もままある。ひらきっぱなしの窓の外に目をると、くらだった。当然とうぜんだ。窓の向こうは雑木林になっている。あかりの在ろうはずもない。川にほど近い我が家の周りには、他に家はない。虫が居るばかりである。こころほそいと妻はなげくが、私はむしろ気楽でい。深夜どころか明け方近くまで、あるいは徹夜で原稿と格闘かくとうする事もあるのだから、ご近所に迷惑を掛けずに済む。 たちうるさい事だけが少々気にならないでもないのだが。ゴォルデンバットを一服いつぷくって、手洗いに立った。妻はまだ起きていて、居間で書物しよもつを読んでいた。何かとたずねると漱石そうせきだと答える。門前もんぜん小僧こぞうである。手洗いを済ませてからまだ居間に居た妻に、今日はそろそろねむる事にすると伝えた。妻は寝床ねどこの準備に立った。書斎に戻ると、もう目処めどが付いた原稿に取りかかる気も起きず、あの壷を手に取ってみた。

 何に使う事にするか。

 れともただ飾って置いてくか。

 把手はしゆの反対側にそそぎ口でも付いていれば、肉厚だから冷たい麦茶むぎちやでも入れて此処ここいてくのに丁度良かったろう。麦茶が、中々なかなかぬるくなりそうにない。だがれは無いのである。のままでは何にもならぬ。小物を入れるにしては底が深い。考えると、の一つだけ付いている耳に似た把手が何とも半端はんぱに思えてならぬ。容器にするならこんな把手など必要 るまい。しかもひとりである。大振おおぶりな壷に小さな把手一つ付けて、持ち運びに便べんくとは思えぬ。何故付いているのか。そもそもの様な壷、頻繁ひんぱんに手に取り動かすような物でも無かろう。把手は必要ひつようい。

 しかしどうしてか把手は付いている。

 不思議な壷だ。

 不思議な壷と言えば、確か独逸ドイツの人だったろうか、Felixフヱリツクス Kleinクライン という数学者すうがくしやの事を思い出した。函数かんすうろん業績ぎようせき目覚めざましい人物だったと記憶きおくするが、あたりの事は門外漢もんがいかんの私にはさっぱりである。私が知っているのは、のKlein氏が考え出した、なかそととの境界きょうかい存在そんざいしない不可思議な壷である。たしか氏の名前を取って「Kleinの壷」やら云う名であった。其の壷の中身は、壷の外である。其の壷の外側は、壷の中身である。其うう不思議な壷であった。そのKleinの壷は、見た目には此の骨壺めいた壷とは似ても似つかぬが、不思議でたまらぬと云う点では同じだ。してみれば此の壷も、実はう見えてただの壷ではなく、不可思議な何処どこか、桃源郷とうげんきようにでもつながっているのかも知れぬ。此のふたを開けると其処そこは、地獄じごく煉獄れんごく将又はたまた彼岸ひがん浄土じようどのぞけるやも知れぬ。耳をそばだてれば血の池でおぼれる亡者もうじや苦悶くもんが聞こえるかも知れず、三途さんず河原かわら獄卒ごくそつまれた石をくずす音が聞こえるかも知れぬ。

 わらった。

 私はくすくすと嗤った。

 中々なかなかに面白い空想くうそうだ。私は自分の空想が気に入ってしまった。の壷のふたを開けると、其処そこには奇妙な空間くうかんが広がっている。の人間がいまかつて目にした事のない場所なのだ。全く楽しい空想だ。此れだけで短編たんぺん小説しようせつが一本書けてしまいそうである。ひょっとすると壷の中は、遠い何処どこかではなく、そう、例えばMaxwellマツクスウヱル悪魔あくまのような意地いじの悪い魔物まものが住み着いているのかも知れぬ。彼はうっかり蓋を開けた馬鹿な人間を取り込んでってろうと手ぐすね引いているのであろう。私は此の空想も気に入った。くすくすと嗤った。空っぽの壷一つで、随分ずいぶんと楽しい気分になれた物だ。安っぽい、怪奇かいき趣味しゆみ猟奇りようき趣味丸まるしの幻想げんそう小説しか書けぬ私には相応ふさわしい玩具がんぐだった様だ。まさしくひろい物とやつか。

 ふと思い立ち、壷を高くかかげてみた。


                                   ……。


 虫が、うるさい。



         *     *     *     *



 朝飯あさめしを終えた頃、まねいたわけではないがあにが来た。かわこうで不動産ふどうさんぎよういとなむ彼は私より二歳 年長ねんちようでしかないが、すでにして三人さんにんの子持ちである。すえの女の子をれていた。小学校にがったばかりだそうである。日曜日だが夫婦 そろって出掛けねばならぬ用事がり、末っ子の面倒だけ見てはれぬかと云う申し出をされた。私としてははなは気乗きのりのせぬ事であったが、妻が気前きまえく引き受けてしまった。妻にいいでしょう、とたずねられていやいやだとわれを通せば、兄に私の器量きりよううたがわれよう。内心では渋々しぶしぶながら、私もうなずいた。兄がってから、私は小さなめいを妻にまかせ、書斎に引きもった。またぞろ違う〆切がやって来ているのである。れが売れっ子としての忙しさならなぐさめになるのだが、生計たつきため売文ばいぶんでしかないのだから、我ながら情けの無い事である。

 壷は、まだ書斎にる。

 結局のところ、置物になっている。

 置物の鏡の様な存在である。何しろあの日以来、一度も手を触れてさえいないのである。ながめて、あの空想にふける事はあるのだが。今の仕事が終われば、次には久方ひさかたりに、まともな文芸ぶんけいに作品を発表はつぴよう出来る約束である。其処そこには、の壷を題材だいざいにした幻想げんそう小説しようせつでも書いてろうかと思っている。壷をひろった日に空想くうそうした様な、不思議な、奇妙な壷の小説を書こうと目論もくろんでいるのである。ふたければ、何処どこ未知みちなる土地につながる壷、あるいは面妖めんようなる悪鬼あつき魔障ましよううごめ魔界まかいに繋がる壷。そんな話である。その作品の構想こうそうる事はこころたのしい事であるが、たって、目の前の〆切をやっつけねばならぬ。いましばらくは、売文の為の原稿に没入ぼつにゆうせねばならぬのである。書斎の窓ははなしてある。今日は風が少しんで来るので、先日の猛暑もうしよの日よりは多少ましである。ごしやすうちに、少しでも原稿を進められればいのだが。私は書き物机に向かい、煎餅せんべいのように平たくなった座布団ざぶとんに腰をえ万年筆を手に取った。

 そしてどれ程の時がったろう。

 時計を見た。

 すでに三時である。昼飯ひるめしも食わずに随分ずいぶん書いていた。私にはくある事である。ひどい時には、一日いちじつ何も食わずに書き続け、つい精根せいこんててねむむと云う日もある。一度気がめると中々なかなか書く事以外に意識いしきが向かないと云うのは、ある意味で作家としてがた資質ししつであろう。能力のうりよくは私のひそかな、そしてささやかな自尊心じそんしんを満足させてれる。しかしながら、どう考えてもしよく生活せいかつみだれが健康けんこうむすびつくとは思えぬので、の自尊は大いなる落胆らくたんにたちまち取って代わられるのである。畢竟ひっきょう作家なる者がそもそも、普通の人間とは何処どこものなのであろう。もう一度時計を見てから自分のはら時計の具合ぐあいたしかめてみる。こちらの方は当分とうぶん動き出しそうにない。つまり空腹くうふくを感じないのである。茶の間にはおそらく妻が簡単な昼食ちゆうしよくを残していてれているだろうが、食べる気が起きない。一度いちど現実げんじつに立ち返ってしまったので、ぐにまた筆を取る事も出来そうにない。ゴォルデンバットを吹かしてぼんやりする。風が窓の向こうから吹いて来る。原稿に熱中ねつちゆうしているうちに浮かんでいた汗がひんやりと冷えて行く。川が近い環境かんきようでは、夏でも団扇うちわらずである。

 廊下がみしりと鳴った。

 誰であろう?

 妻ではない。一緒になってすでに長い。妻の足音は他人と区別くべつが付く。はて誰か来客か、と思ったところで、見当けんとうが付いた。めいであろう。たしかに聞こえて来た音は何やらたよりない重さの無い音で、大人の体重たいじゆうが廊下を鳴らしたのではなかった様である。「ふみさんかい」と私は声を掛けてみた。文さんと云うのは姪の名である。文子ふみこと云う。「はい」とかほそ返事へんじがした。「叔父おじさん、お邪魔じやましてもいですか」と姪は続けた。礼儀れいぎきびしい兄の家で育っただけの事はあって、歳に似合わぬ落ち着いた物言ものいいである。何処どこかたどたどしく、必死ひつし大人おとなに似た言い回しをしようと頑張がんばっているのが知れるしやべかたであった。私はじつところ子供こどもは嫌いなのだが、のいじらしさに少々心がなごんだ。私は「いよ、おはいり」とまた声を掛けた。すうっと静かに戸がひらいて、小さな姪は書斎に足を踏み入れた。私と妻と、原稿 催促さいそくに来る編集者へんしゆうしや以外の人間が此処ここに入るのは、めずらしい事である。

「叔父さん、ご本を書いてらっしゃるの?」

「うん、まあ、そうだよ」

 本ではなく本にる原稿だ、などと説明してもらちくまい。あながち間違いだと云う事もないのだし、えて姪の言葉を訂正ていせいはしなかった。姪はちょこちょこと私の近くまで寄り、「お部屋を見せてもらっていですか」とたずねて来た。部屋に入れてきながら中を見てはいかんとも言えぬ。ゆるした。すると姪は、本棚にずらりと並ぶ本を感心した様にながめ始めた。「むずかしそうなご本がいっぱい」と、子供めいた正直しようじきな感想をつぶやきもした。「読んでみるかね」と言ってみた。すると姪はこまった様な顔をした。ことわってしまってもいいのだろうかと必死になって考えている様だった。なかの子供がみなほど素直すなおであったなら、私は子供嫌いにらずにんでいたであろう。「まあ、文さんには読めない本ばかりかも知れないね。しといた方がいね」そう私が言うと、姪はしょんぼり足元に視線あしもとを落とした。

 からかわれたと思ったのかも知れぬ。

 突然とつぜんめいきらいになった。

 姪から目をらし、私は身体からだを書き物机に向けた。嫌だと思ってもれを口には出せぬ。うする事で、姪が私が仕事しごとちゆうである事をさつし、自発じはつてきに出ていってれる様、期待しているのである。我ながら卑怯ひきよう手口てぐちだとは思うが、そう云う性分しようぶんなのである。どうにもならぬ。だが小学校に上がったばかりの子供に過大かだいな期待をいだいてしまった様であった。姪は私の視線がはずれたと知ると、本棚以外に何か面白おもしろい物はないかと、畳の上を静かに歩き回り始めた。気配が私の目の届かぬ背後はいごでこそこそとうごめいている。やはり子供である。私の嫌いな、子供であった。うしてじた私の世界をみだされる事を、私は一番いちばん嫌っていたはずであった。しかし、悪魔あくましようれてしまったのは私なのだ。妻は一体いつたいどうしたのか。何かようしにでも出て行ったのだろうか。早く此の子供を連れ出して欲しいものである。

「叔父さん、れは何ですか」

「……何だね」

 無愛想ぶあいそぎない様にこころくだいて返事へんじをせねばならなかった。姪が蝶々ちようちようの様な白い手でしめしているのは、書き物机の片隅かたすみに置いてあるあの白い壷であった。「うん」と私は言った。何の事はない、どう説明すればいのか分からず、たもたせるためつぶやいただけである。実際じつさいの壷は何の役にも立っていない。ふたけてさえいない。ただ置いてあるだけである。そう言ってしまっても善いが、そうすると、其れなら何故其んな物が置いてあるのかとかれそうである。幾度いくど返答へんとうを考えるのは億劫おつくうだ。何か一言でませられないものだろうか。私はそんな事を考えていた。すると、妙案みようあんをはたと考えついた。善い案と云う意ではなく、文字通りの妙な考えである。

れは魔法まほうの壷さ」

「ええ?」

 姪は目を大きく見開みひらいて口をぱっくりとけ、此れ以上いじよう無いほどに分かりやすおどろきの感情かんじよう表現ひようげんした。私は何か意趣いしゆがえしめいた感覚を覚えている。思いつきにしては中々面白いとも思っている。彼是あれこれと壷にかんする空想くうそうめぐらせていたせいであろうか。私はさらに「此の壷はね、ふたけた人がその しいと思っている物がはいっているんだ。だから魔法の壷なのさ」と言った。すでに私は、姪に対する叔父ではなく、悪戯いたずら好きのただ小僧こぞうになっていた。もはや此の姪が私をどう思おうと、後で兄に何か言いつけようとかまわぬ。思いついた悪戯を遂行すいこうしてろうとだけ考えていた。姪は驚きの表情のままで「本当に?」といてきた。私は無言むごんうなずいた。すると姪は、腰をってす様に、壷をしげしげとながめ出した。口をひらいたままである。時折ときおりかすかにまゆひそめる。可成かなりのあこがれと羨望せんぼう、そしてわずかな疑念ぎねんうかかんだ表情であった。

 姪はおそおそる、がちに私を見た。

けてみてもいですか」

 姪はそう言った。どうこたえたものかと考えたが、れはほんの刹那せつなの事だった。現実的には躊躇ためらいのけずに、私は「開けてごらん」と微笑びしようを作りながら答えていた。相手あいて大人おとなであれば、私が浮かべた微笑にふくまれたひそかなたくらみを見抜みぬく事が出来たろう。だがおさない姪にはれは無理むりである。姪は、火傷やけどでもせぬものかとおそれてでもいる様に、見ているこちらがもどかしい速度そくどでゆっくり手をばしていった。細くたよりない指が、壷にかぶさっているふたに掛かる。其の指がうごけば壷のなかそとつながるのだろう。からっぽの空虚くうきよ其処そこから飛び出して来るであろうか。私は、奇妙にも興奮こうふんおぼえていた。の壷が真実まこと、Kleinの壷であるかの様な錯覚さつかくいだいているのである。姪よりも、私の方がむねをときめかせているのである。興奮をかくして私は、「文さんは何がしいんだい」とたずねた。姪は「おつの時間じかんなので、御菓子が欲しいです」と答えた。ふふ、と私は小さく鼻先でわらった。そんな物、壷の中にはずが無いのである。嗤うしかないではないか。あの姪の表情。可成かなりの期待きたいと、いくばくかの不安ふあんぜになったあの表情! たまらないではないか。そしてめいゆびうえうごき、



「あっ、御菓子!」



 うれしそうにわらって、手を壷の中に入れる。取り出したてのひらの上に、干菓子ひがしいくつか乗っている。また壷に手を入れる。又取り出す。掌の干菓子が増えている。とりどりに色づいた菓子である。満面まんめん喜色きしよくたたえた少女しようじよ宝物たからものを手にした様に、菓子を大事だいじそうに二つの掌でおおう。かくす様に。壷の中の何者なにものかにうばわれはしないかとおそれている。何者なにもの何者なにものだ? 壷の中に潜み、の少女に菓子を手渡したのは何者なにものなのだ。Kleinクライン亡霊ぼうれいか、Maxwellマツクスウヱル悪魔あくまか。れとも私のいまだ知らぬものなのか。「叔父さん、魔法まほうの壷が、願いを聞いてれたのね。とってもうれしい。叔父さんも、魔法の壷も、がとう、がとうう」そう言って小さな少女は戸をさっとけてってった。とたとたと足音がってく。ってく。って、って、やがて聞こえなくなった。


 私は何処どこに居る?


 喪失感そうしつかんなんだ?


 壷はからだったはずだ。たしかに一度たりともけた事は無いが、物を知らぬ愚者ぐしやでは無い。手にしてみれば、なかに何か入っているのかどうかくらい見当けんとうが付く。壷は空だった。れこそ確かである。其れなのに。なのに、どうして菓子が、少女しようじよの手に乗ったのだ。何者なにもの。壷の中に。ふたふたたざされている。骨壺こつつぼめいた、白い瀬戸の壷。壷。私が河原かわらからひろって来て、所有しよゆうしている壷の筈ではなかったか。何時いつにか此の壷は、持ち主である私の知らぬ人外じんがい産物さんぶつってわっていたのであろうか。


 空想くうそう


 私は壷をひろった日に空想した様な、不思議な、奇妙な壷の小説を書こうと目論もくろんでいるのである。ふたければ、何処どこ未知みちなる土地につながる壷、あるいは面妖めんようなる悪鬼あつき魔障ましよううごめ魔界まかいに繋がる壷。そんな話である。話である。絵空事えそらごとである。だがの壷はなんだ。なんなのだ。何時いつにか私はあせで顔中をらしていた。じっとりとはだに服がへばりついている。あせが。まくの様な。

 風が、

    何時いつにか風が、

 んでいる。

 せみ

   ――声がしない。

           虫が鳴かない。

 窓の外の光景は止まっている。風が無い。木々のこずえはそよがない。雲が無い。無い物が動く訳も無い。流れが無い。動きを止めた水は何時しかよどくさにごって行く。ならば風景も何時しか、淀み、腐り、濁り果てるのだろうか。時は、時はどうなった。時計は――


 止まっている。


 喪失感――此の喪失感。そうなのか。

 私は、世界をうしなってしまっていたのか。

 夢想が、空想が、目の前に在る。

 在るのだ。

 だから現実は此処には無い。

 無い。

 世界は壷に封じられた。

 壷の中の魔物に。

 魔界に閉じ込められたのだ。

 否、其れは世界か?

 私の方が魔界にとされたのか?

 では此処に居る私は何者だ。

 私、


 私こそ、一体何者なのだ。


 私こそが異物か。

 狩られるべき異端か。

 あるいは壷が。

 壷。

 壷は壷ではなかった。

 はこだ。

 Zeusゼウスが泥から作らせた女が、愚かしさから開け放ってしまった呪わしき、開けてはならぬ筈の――


 Pandoraパンドラの匣


 白い、

    蓋が、

       ぬめるように、

              輝いて、



 あの蓋を開ければ、



           ――取り戻さねば



         *     *     *     *



「あなた、干菓子の代わりをお持ちしましたよ。あなた、……開けますわよ」

                                   ……。

「あら、散歩にでもお出掛けかしら。……まあ其れなら善いわ。又あの壷に入れて於けば、文さんに呉れた位なのだから、菓子が在る事位、直ぐに気付くでしょう。……本当、此れは入れた物が温まらなくて、菓子入れに丁度良い事。茶の間に置かせて呉れない物かしら……」

                                   ……。

「……嫌だ、柱時計が止まっているわ。又、おかしくなったのね。此の前修繕に出した時にも、そろそろ寿命だと言われたんだったわ、すっかり忘れてた……あの人に、言って於いたかしら……?」

                                   ……。

「でも……」

                                   ……。

「どうしたのかしら……」

                                  ……い。

「珍しいわ、窓を開け放して……あら煙草も吸いかけ。……眼鏡まで置き放して、一体何処へ行かれたのかしら……」


                                ……おぉい。



                                  《 了 》

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

壺中天 久保田弥代 @plummet_846

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ