第9話 喫茶店へ ④

 三人並んで雑談しながら入って来た親父達に近付き、腕を掴んで強引に親父だけを角の席に連れ込む。僕がいるとは夢にも思ってもいなかった様子で親父はきょとんとした顔。


「これ、書いて欲しいのだけど」

たか、お前、風邪はいいのか」


「あんまり良くないよ。風邪よりもこっちの方が大事なんだ」


 手に取ると懐疑な眼差しで規約書の紙切れを眺め、「携帯? ふーん」と顎を手でさすりなにやら思案している。この癖をしている時は親父が良からぬ事を企んでいる時の仕草だ。咄嗟に見構える。


「いいけど、お前、料金払えるの?」

「払うさ」


「ふーん、携帯ねぇ。母さんは知ってるのか?」

「うん、親父に書いてもらえって」


「ちっ、何だ、知ってるのか。ちょっと予想が外れた。まいったなぁ」

「何が?」

「いやな。コレ、コレコレ」


 と親父が足元を指差す。そこには黒のハードケースが一つ。親父はそれを自慢気に開けると中には色褪せた黄色のスネアが丁寧に納められていた。


「新橋町の楽器屋おやじがな。良いものが入ったからって連絡よこしやがってよ。丁度さっきまで見に行っていた所だったんだよ」

「親父・・・、もしかして」


「な、頼むよ。母さんには黙っていてくれ。そうしたら携帯でも何でも許してやるから」

「いいけどさ、親父、これ一体いくらしたんだよ」


 耳元で金額を囁かれて、思わず驚きの声を上げてしまう。これはお袋にバレたら大変な事になるぞ・・・・・・。


「なっ、頼むよ」

「言われなくても黙ってるよ。そっちこそ下手打つなよ・・・・・・」

「大丈夫、大丈夫。今夜さっそく使っちまうからよ」


 親父は年代物ヴィンテージの楽器の収集癖があり、僕の部屋の隣の洋室は今までの親父のコレクションで埋め尽くされている。お袋は当然それをこころよく思ってはおらず、親父が新しい楽器を買ってくる度に、顔を真っ赤にして怒ったものだ。


 親父も止めればいいのに懲りずに集めてきてしまうものだから、半ば諦め気味にはなっているのだけれども。それでも、新車2,3台は買えそうな金額をつぎ込んでいるので、いつか全部売っちゃって新車買おうか、なんて嘘ぶいていたりする。『父さんには内緒ね』なんて言われても・・・・・・。困る。


 この様に我が家の喫茶店はその売上の大半を楽器に費やされているので、家計は思わしくない。はっきり言って貧乏だ。それで困った事はないが、多少は別の使い道を選ぶべきだろう。スネアを大事そうに触る親父を見て尚更にそう、思う。


「分かったから早く書いてよ」

「あ? なんだ、今日か。これから最後のチューニングしようと思ってたのに」


「だから開店前に来たんだよ。お店始まると親父に声掛けられないし」

「あと5分早く来れば良かったのに。そうすればさっさと書いてやれたのにな。あー残念だ」

「さっきと約束が違うじゃないか!」

「だってこれからリハが始まるからな。残念だけどまた今度」


 契約書を頭上に持ち上げて子供みたいに振舞う。駄々っ子か。こうなってしまうと頑固だ。さて、どうしようかと考えた矢先に、親父の背後からパッと紙切れを奪う人物が。祐子ゆうこさんだ。白いカッターシャツの上に軽く黒のN-2Bを羽織ったラフな格好でくわえタバコをふかしている。


「携帯? へぇーアンタ持つんだ」

「はい、でも親父が書類書いてくれなくて・・・・・・」


 リハが待ちきれなかった様子で手に持った紙をひらひらと泳がしながら、書いてやんなよと促がしてくれている。この人は親父のバンドメンバーの一人でアコースティック・ギターの担当だ。この人と親父ともう一人、ベース担当の三人トリオで店内でジャズを演奏している。


 その演奏技術は素人の僕が聞いても素晴らしいとしか言いようがなく、その演奏を聴く為にはるばる県外から足を運ぶ人もいるくらいだ。


たか坊。これどこで買うの」

「あ、あそこのワイルド9です」

「遠いねぇー、近くのそこでいいじゃん」


 祐子さん曰く、携帯なんて書類さえ整っていればどこの店で買っても同じだと言うけれど、それは出来なかった。それはあの子に対する不義理になってしまう。あの時に選んだあの携帯じゃなければ申し訳が立たない。これは只の思い込みかもしれないし、我がままなのかもしれないけど、そうしなければならないような気がしていた。


「いや、あそこの携帯じゃないとダメなんです」

「ふーん」


 くわえタバコを灰皿に押し付け、壁にもたれ掛かる。立ち姿でさえ絵になる人だ。親父が一体どこで見つけてきたのか知らないけど、その演奏技術は確かなものだし、この人がいなければバンドは成り立たないだろう。


 祐子さんから書類を受け取り、親父は愚痴りながらもサインをしてハンコを押す。それを受け取って、店を飛び出そうとした時に次のタバコを口にしながら彼女は悠然と立ち塞がった。


「考坊、何なら送っていってあげようか」


 思っても見ない申し出にどう返答すればいいのか。だってこれからリハでその上、あと15分弱で店は開店だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

真冬の紫陽花 cape @cape

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ