第7話 小さな魔女のものがたり
メルフェン村に冬がやってきた。
別に珍しいことではない。春が来て、夏が訪れ、秋を跨ぎ、冬に還ってくる。毎年変わりなく繰り返されていく季節の営み。平凡な時の流れ。森の空気がしゅっと研ぎ住まれて、気温が下がっていく。
そうして雪が舞い散る。これも珍しいことではなかった。メルフェン村では毎年雪が降る。
まだ本降りではない。少しずつ、雪化粧に染められる世界。ヨロジーは、その経過を眺めるのが好きだった。だから、雪が降ると家の外のバルコニーに出て、肘掛け椅子に腰掛け、のんびり時間を過ごすのが常だった。
生身の体では、寒さに参ってしまうこともあるかもしれない。けれど、この鎧の体ならば寒さを感じないから問題ない。呪いを受けて、良かったと思える数少ない事柄の一つだった。
昼を過ぎると、雪は、歩けば地面に足跡がつくぐらいの厚さにまで積もっていた。村の入り口から、大きなねこと女性が歩いてくるのが見えたのは、そんな時だった。
うつらうつらとしていたヨロジーだったが、女性の姿を認めると、はっとして椅子から跳び上がった。そして目を疑った。どうしてその美しい婦人が、こんな辺境の村をわざわざ訪れたのか、彼にはさっぱりわからなかった。
人間であれば、彼は感激に涙を流したかもしれなかった。爵位を剥奪され、呪いを受けて、いなかのメルフェン村に流刑された身であるヨロジーとしは、まさかかの高貴なる婦人に、生きて再びお目にかかれるとはつゆほども思っていなかったからだ。
「エルザさま……」
震える声で名を呼ぶ老人に、婦人が優しく微笑みかけた。
「お久しぶりですね、ヨロジー。お元気そうで何よりです」
彼女は、両手にまだ目も開かぬ赤子を抱いていた。
屋内に入り、暖炉に火をつける。寒さに震えていた赤ん坊は、火のそばに置かれたベッドに寝かされた。むにゃむにゃ言っているその子の様子は、巨大ねこが見ていた。
かたわらでヨロジーがお茶を入れる。エルザはカップを手に、憂鬱そうに切り出した。
「先日、ハウル議長が亡くなりました」
「なんと……」
ヨロジーは素直に驚いた。とかく拡大主義的なカルヴァリス帝国で、穏健派の評議会議長として、他国との外交の要を担ってきた人物だ。彼の死は、そのまま国内のタカ派の台頭に直結するだろう。
──いや、待て。とヨロジーは考える。
「あなたが考えている通りです」
エルザが、ヨロジーの考えをくんで言った。
「誰も表だって口にすることはありませんが、おそらく彼の死は暗殺。それも竜皇帝の差し向けたものでしょう」
「これで、皇帝の東方征服に歯止めをかけるものがいなくなった」
「その通りです」
エルザは頷く。
ことは深刻なようだった。しかし、エルザはなぜそれを自分になど告げにきたのだろう。今やヨロジーは、カルヴァリスにおける、皇帝に次ぐ権力を有する筆頭公爵の身ではない。政争に敗れ、国を追放された無力な老人にすぎないのに。
「皇帝は、すでに秘密裏に、遠征に向けての準備を整えています。彼の最初の標的は、魔道王国です」
「なんと。皇帝は血迷いなさったか。魔道王国は古代からその掟を守り続けてきた永世中立国。侵攻などを行えば全世界を敵に回すことになる。いや、そもそも賢者会議を有するかの国に攻め入るなど正気の沙汰ではありませぬぞ。彼らはその気になれば、天を裂き、海を割り、山を砕く世界最高の魔術師たち。どんな屈強な軍隊もかないませぬ」
「ええ……だからこそ、皇帝は六星術士に招集をかけている」
「なんと……」
ヨロジーはへなへなと脱力して、思わず椅子から転げ落ちそうになった。恐ろしいことが、起きようとしている。
「なるほど、それでエルザさまは逃げてこられたわけなのですな」
いいえ、と彼女は首を横に振った。そして、信じられないことを言った。
「わたしは逃げません。けれども、皇帝の言いなりになるつもりもありません。わたしはこの足で魔道王国に出頭するつもりです。わたしは、賢者たちにこの身を実験対象として差し出すことを引き替えに、皇帝から保護してもらいます」
「おやめください、エルザさま!」
思わず悲痛な声が漏れた。そんなことをすればエルザがどんな目に合うかわかったものではなかった。賢者とは、政治的しがらみと人間的感情を放棄することで、ひたすら魔術の研究、向上に努める学問の徒。彼らにとって、六星術士当人が、どれほどの研究価値を持つかは言うまでもない。
彼らは六星術士の神秘を探求するためならば、どんな非人道的な行いも平然と行うだろう。
「それしか戦を止める手立てはないのです。六星術士がすべて揃わなければ、いかにカルヴァリス軍といえども、賢者たちにはかなわない。ならばわたしはこの身をもって盾となります。それが、女神様より世界の一欠片(エレメント)を賜りし、〝風〟の六星術士であるわたしの役目。皇帝の東方征服は世界の調律そのものを破壊しかねない」
「ならば……何もエルザさまがその重荷を背負わなくとも……」
ヨロジーは今ほどこの鎧の体が憎らしいと思ったことはなかった。表情もなく、涙も流せぬこの身では、目の前の婦人に、自らの思いを伝える術がまるで足りない。
彼女はまた微笑んだ。
そして席を立つ。ゆっくりと窓辺に向かうと、すっかり雪に埋もれたメルフェン村を見つめた。
「この村は、いい村ね。ヨロジー」
口調を崩して、彼女は言った。
「本当は……世界などどうでもいいの。自分が想像できないような、遠い遠い過去の伝説や、未来の物語にも興味がない。世界の果てのことなどわからない。だけどね、ヨロジー。わたしは、わたしが見える世界と、想像できる未来は守りたいの。戦などない、誰もが、この村の優しい人々のように平和に暮らせる世界。何より……」
エルザは振り返って、暖炉のそばのベッドに歩み寄った。
「この子が生きる世界を、血で染めあげたくはない」
「……エルザさま。その子のお父上は」
ヨロジーは訊いた。
「秘密よ、ヨロジー。でも素敵な人」
彼女は愛しげに、我が子の頭をなでた。
その時、ふとヨロジーは不思議な気分になる。幼子の頃から知っている、この目の前の高貴な女性が、今や母になったのだ。時の流れを否応なく感じた。
「……わたしはもう行くわ。この子をお願いしますね、ヨロジー」
「な、なんですと。エルザさま。お待ちください!」
「いーえ、待ちません。わたしはこのために、こんな田舎くんだりまではるばるやってきたんですよ。誰よりも信頼できるおじさまに、大切な娘を託すために」
「エルザさま……」
笑顔で、つとめて明るくふるまう彼女に、ヨロジーはそれ以上かける言葉が見つからなかった。
「魔道王国まで、まだ道のりは長い。ニャロ、あなたにも迷惑かけますが、もうしばらく付き合ってください」
「おまかせするにゃ。追っ手のカルヴァンスの兵隊にゃんていちころだにゃ。あと、エルザを王国まで連れて行ったら、おいらもこの村に住むつもりだから安心してほしいにゃ。娘ちゃんのことは、何があってもおいらが必ずお守りするにゃ」
「ありがとう、ニャロ……」
エルザは少しだけ顔を伏せた。もしかしたら、泣いているのかもしれなかった。
最後に、彼女は再びベッドの横に立ち、愛娘に額がくっつくほどに顔を寄せた。
そして、少しだけ震えて、涙ぐんだ声でこう告げた。
「さようなら、わたしのかわいいかわいいティミー・メル。わたしは、もしかしたらもう二度とあなたに会えないかもしれないけれど、あなたはきっと、わたしが与える以上の愛情を受けてすこやかに育つことになる。どうか、女神の祝福を……」
それが、だいたい十年ぐらい昔の話。
メルフェン村は暖かい春のまっただ中。思わずヨロジーはバルコニーの肘掛け椅子でうとうと。
そうしたら、こつんと鎧を叩かれた。
目が覚めて、顔を上げると、メヌエットが丸めた紙の束を持って立っていた。
「ヨロジーさん、新聞ですよ。あとじーさん寝すぎ。朝私がここ通った時も寝てましたよ」
「おお、すまんのーメヌエット。ちと古い夢を見ていての」
ぱたぱたとハーピィが去っていってから、ヨロジーは新聞の見出しに目を落とした。いろんなことが書いてあるが、どれもこれも、メルフェン村には関係ない遠い国の出来事。だけどもしかしたら、どこかで、細い糸でつながっているかもしれない物語。
「ただいまー、ヨロジー。お腹すいたー」
「すいたぜー」
けれど玄関から届くとっても元気な声が、老人の感傷を忘れさせた。
大切な人から託された、それはもう大事な大事な宝物。
「おお、ティミーおかえり。ルゥもよくきたね。腹へったか。それじゃヨロジー特製のきのこスープをつくろうかのー」
「わーい」
「うぇー、きのこー?」
ヨロジーは新聞を置いて家の中に入る。春風にぱたぱたと新聞がめくられた。
開いたページの見出しには、大きな文字でこう書かれていた。
『魔道王国首都陥落。賢者会議崩壊』
まだはじまってもいない小さな魔女のものがたりを巻き込んで、世界は大きなうねりを見せていく。
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