いつも『いつもの、ふたり』を楽しんでいただき、ありがとうございます。
さて、「好き」では美紅が母親と交わした話も、物語を進めるきっかけになってました。実際どんな話があったのか、お届けしたいと思います。
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玄関のドアを閉めた瞬間、胸の奥が熱くて、
靴を脱ぐ前に言ってしまった。
「……あたし結婚する!」
台所から母が顔を出す。
包丁を持ったまま、ぽかんとしている。
「……は? 誰と?」
「今日の人。陽介さん」
「今日の……競馬場行ってたって言ってたあの人?」
「そう、その人」
母は包丁を置いて、手を拭きながらゆっくり近づいてくる。
わたしは靴も揃えずに、その場にぺたんと座り込んだ。
「……あんた、何があったの?」
「うーん……」
言葉にしようとすると、なんか違う気がして黙る。
でも母は、急かさずに待ってる。
「……当たったの。単勝。」
「……それで結婚?」
「違うよ。そこじゃないよ」
自分でも笑ってしまう。
「わたしが当たった時ね、陽介さん、あたしより喜んでたの。
なんか……自分のことみたいに」
母は目を細めて、廊下にしゃがみ込む。
「へえ。いいじゃない」
「うん。なんかね……あ、この人でいいなって思ったの」
「“いいな”って思っただけで結婚って言う?」
「思ったんだもん。しょうがないじゃん」
「勢いで言ってるだけじゃないの?」
「勢いじゃないよ。……たぶん」
母は立ち上がり、冷蔵庫から麦茶を出してコップに注ぐ。
わたしの前に置いて、ひと息つく。
「美紅。
あんたが“素直にそう思った”っていうなら、私は反対しないよ」
「ほんと?」
「ただし。今日の気持ちが明日も同じならね」
「明日も同じだよ。たぶん」
「“たぶん”じゃないの」
「……うん。明日も同じ」
母はふっと笑う。
わたしもつられて笑う。
「で、その陽介さんってどんな人なの?」
「えっと……優しいよ。あと、なんか……落ち着く」
「落ち着く?」
「うん。なんかね、隣にいても疲れないの」
「それは大事だねえ」
母はコップを持ったまま、廊下に座り込む。
ふたりで床に座って話すなんて、いつぶりだろう。
「でもさ、美紅」
「なに?」
「結婚って、勢いも必要だけど……生活だからね?」
「わかってるよ。わかってるけど……」
言葉が出てこなくて、膝を抱える。
「今日ね、陽介さん、あたしが当たった時、
なんか……すごく嬉しそうでさ。
あたしのこと、大事にしてくれそうって思ったの」
母は少しだけ目を伏せて、
それからゆっくり頷いた。
「……そういうの、嘘つけない顔する人って、いいよ」
「でしょ?」
「うん。で、あんたはその顔にやられたわけだ」
「……まあ、そう」
母は笑いながら、わたしの頭を軽くつつく。
「で、向こうは? 美紅のこと、どう思ってるの?」
「知らないよ。聞けるわけないじゃん」
「聞きなさいよ、そこは」
「無理だよぉ……」
「でも、今日のあんた見てたら、向こうも悪くない顔してると思うけどね」
「そうかな……」
「そうよ。あんた、わかりやすいんだから」
「わかりやすいってなに」
「嬉しい時、耳が赤くなる」
「えっ、うそ」
「今日ずっと赤かったよ」
「やだ……」
母は声を立てずに笑う。
「じゃあさ、美紅」
「なに?」
「その人、今度うちに連れてきなさい。
“結婚する”って言うなら、顔くらい見せてもらわないと」
「……うん。連れてくる」
言った瞬間、胸がきゅっとなる。
でも、後悔はしなかった。
母は立ち上がり、台所に戻りかけて、
ふと振り返る。
「美紅」
「ん?」
「……いい顔してるよ。今日のあんた」
その一言で、胸の奥がじんわり熱くなる。
「……うん」
母は何も言わずに台所へ戻っていった。
わたしは玄関に座ったまま、
さっきの陽介さんの笑顔を思い出していた。
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物語はこれからも続いていきます。引き続きお付き合いのほど、よろしくお願いします。