こちら、紫陽_凛さんから拙作エッセイに頂いたレビューにあった一文です。
【ひとを傷つける覚悟と、ひとに傷つけられる覚悟がないと作家はやれない。】
少し前にカクヨムで、優しい言葉を使いましょう人を傷つけない言葉で書きましょうみたいなエッセイを見かけて、
「……!!」
と想ったのですが、すぐに「小説のことではないですよっ」と慌てて補足されておられたので、血を見ずにすみました。
びっくりした。
そんな人は3歳児以下向けの童話でも書いとけ、って毒吐きそうだった。
他人も自分も傷つけないように、丁寧に清く正しく美しく、どこをどう切っても誰からも何の文句も云われない模範解答文章でツルンツルンに上手に書いてある作品と、
文章は凸凹で未熟さ満載で、卑屈鬱屈、強い癖やヘンテコなこだわり、苦悩と歓喜を持っている人がいれば、
わたしなら絶対に後者を作家に推します。
「え、前者の方が素晴らしくありませんか?」
1000人が前者に投票しても、わたしなら断然、後者を推します。
前者は文章が書ける人。
後者は書きたいものを持っている人。
護りに入ってるな~って人と、ギンギンに個を立てて己の好きな世界を追求している人とがいたら、後者の方が「小説家」には向いています。
前者さんは小説家ではなく、雑誌の埋草としての原稿書きだったり、レポ記事を書く記者には最適かもしれない。
どこかで見たようなものは要りませんって某賞の選者の作家がハッキリ云っている通りです。
文章力は三割あればいい。
最低限の文章力は要りますが、プロなんて全員が「巧い」んですから文章力なんて想うほど武器にはなりませんよ? と云っておられる。
文章力なんて楽譜どおりにピアノが弾けます程度のことです。
難曲を弾ける巧いピアニストなら「うまい」と云ってもらえますが、それだけのことです。
あ、じゃあ、文章力には自信があるけれど巧いだけの文章は駄目なのかな……? これも違います。
巧いのならば、巧さを突き詰めるべきなんです。
独自の世界を築いたエッセイストの森茉莉なんて、ぽいっと送った原稿が編集者をのけぞらせて、即座に担当者が次の原稿をもらいに伝説のゴミ屋敷に走りましたが、個を極めて巧緻に達した文章というものは、他の人には書くことが出来ないんです。
断筆されちゃいましたが、加藤はいねさんとかね……。
本職の看護師がお忙しいのでしょうが、もしカクヨムにこっそり混じっていても、あの方なら見る間に2位以下を大きく引き離して、1位を独走されると想いますよ。
そういえばコロナ騒動の初期に、或る病院のナースが現場の混乱をレポートしたのですが、あまりにも文章が巧いので(多分同人作家)、
「加藤はいねさんですか?」
という声が続出したんです。
即座にそのナース、加藤はいねさんと間違えられるなんて「私ごときが。神への冒涜です。耐えられない。」と全力否定しました。
神への冒涜。
あんなに文章が巧い人でも、個性を極めた文章を書ける人の前には顔が向けられないんです。
同人ナースわかってるなーって変なところに感心しちゃいました。
【ひとを傷つける覚悟と、ひとに傷つけられる覚悟がないと作家はやれない。】と矛盾しているようですが、
「ひとを傷つけようとして、自分も傷つこうとして」書いている人は、「ない」です。
「ひとを傷つけない覚悟をもち、ひとに傷つけられる覚悟がある」のは、ジャンルによってはぎりぎりOKです。
「ひとを傷つける覚悟をもち、結果的に自分が傷つくが、傷つかない」のも「ない」です。
頭がこんがらがってきますね。
(まとめ)
・最低限の文章力を持ちきちがい要素多めだけど、ギリギリきちがいじゃない人は小説家に向いている
・きちがい要素少なめで文章が巧い人は、記者に向いている
・文章が巧く、きちがいのままの人は、希代の歌人・詩人・エッセイストに向いている。←藤原定家はここ
わたしのイメージはこんな感じです。