海猫ほたるさんが賞をお取りになったんですよー!!
おめでとうございます!
海猫さんは、誰も読んでくれない頃からずっとわたしの作品を読んでくれている方なのです。
わたしと、読者は海猫さんだけの、二人旅だった作品が幾つあったことでしょう。
サブカルを教えてくれたりして、いつもお世話になっています。
人知れず日蔭でずっと書き続けていた方に光が当たると嬉しいですね。
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花粉が飛ぶ間はムスカになって「目が~目が~」と遊んでいますが、「憧れのハワイ 作家に経験は必要?」にコメントをありがとうございます~。
重ね重ね申し述べますが、実際に経験することの大切さを否定するものではありません。
なにごとも「わたしはこう想うけれど」という範疇のことです。
なんでしょうね、「これが常識でしょ? これが普通でしょ?」と上から圧力をかけられた時に自動的にその隙間から外にすべり出て、いろいろ考え始めるこの黒思考の正体って(笑)
あ、肯定する時もちゃんとたくさんありますよ~。
経験については、横道にそれてしまうので本文中には書かなかったのですが、人生100年として、そんなに長くないかな、75年として、25歳あたりまでに吸収した経験が結局は大きいのではないかと想っているのです。
「いやそんなことはない、その後から幾らでも新鮮な体験や経験は積めます。大事です」
それを否定はしないんですけど、25歳頃までの経験が根幹のところでは大きいかなぁと。
人格形成期の経験がやっぱり強くないですか?
大昔にあったWALKMANSONYのキャッチコピー、“10代で口ずさんだ歌を、人は一生、口ずさむ。”あれはその通りだなって。
気に入る歌も小説もどんどん増えるし、新しい経験もあるのですが、十代の頃のように、あんなにも目覚ましかったり、耽溺するのは稀なことだなって。
だからそれ以降に経験した新しいことって、小説に生かす時にも、所詮は情報処理的に取り込む感じが少しするんです。
本筋ではないし、あんまりそこにピリピリしても意味がないので、深くは考えないようにしていますけれど。
小説ってそんなに制約だらけで決まった手順で作らなければならないような不自由なものでしたっけ。
どこかの『権威あるアカデミー』が決めたのでしょうか。
小説とはこういう手順と方法で、プロットと設定を準備万端にして、1ミリのミスもなく、模範解答の文章で書かなければならないと。
『方法』が大事。
誰がどんな方法を辿って小説を書こうが、わたしはどうでもいいです。
「この方法で書かないといけない」
なんていうのは、小説とは遠いところにある概念。
びっしりと設定を立てて、年表を作って、練りに練りあげたプロットを、ちゃんと書き上げることが出来るのなら、それでいいじゃん。
べつになんの文句もないです。
ただその方法を採用していない他者の作品を、「出来てない、常識ではなんたらかんたらー」と吾こそ正義とばかりに否定してくるのは違うでしょ、と想うだけで。
現代の「小説の書き方」なんて、つい昨日いきなり誕生したようなものです。
「最初に構想をねって、プロットをつくって、レールに沿った完璧な原稿でないといけなんだぞ」?
文学館で生原稿みたことある?
プロットありきの清書なんて誰もしてなくて、ぶっつけ本番で思索するままあっちこっちに線を引いて、めちゃくちゃ汚いですよ。
どんなにプロットを練り込んで最後まで展開を決めていても、エタるものはエタります。
文章力がなかった、その物語に生命を吹き込むことが出来なかった、原因はいろいろあるでしょう。
どんなに設定を創っても、後々、「こっちをこうしないとおかしくなる」と設定を変えることだって普通にあります。
長編において、お話やキャラというのは書いていくうちに独自の命をもってコースを逸れていくもので、最初にきっちり組んでいればいるほど、後からの修正がきかなくなります。
その時に「こっちの方がいいんじゃないか? こっちの方が面白いんじゃないか?」と柔軟に変更しながら手綱を引ける力があればいいのですが、最初のプロットに引きずられて、話が弾まないまま、だらだら書いているほうが小説としてはよほど問題です。
でも、完璧なプロットと完璧な設定を作ってある人は、一生かかっても完結しなさそうなその本編は書かないのに、こちらに出張してくるんですよねわざわざ。
「これが本当の小説の書き方なんだぞ?」と。
いやいやいや。
「指導してやるからお前のような無能なバカは指示どおり書いていればいいんだ」ってなんでやねん。
「違う価値観に出会ったら否定せず、それを受け入れて成長しろ。そうでないと絶対に大成しないぞ?」
あなたが何者でも、誰さまの言葉で『眼から鱗』になるかは、わたしが決めていいですか~?
※「この話って?」と想う人。
大丈夫です。
わたしのストーカーはわたしの関係者に残らず突撃して、「こうでなくてはいけない」と云っていますから。
「新しいもの好きじゃないと駄目なんだぞ」
と威張ってきましたが、その人のその根拠がその当時ガラケーからスマートフォンに人よりも少し早く変えたという一点。
まだガラケーの人が大勢いた頃です。
そのガラケーの人たちも、機種変更する時がきたらスマートフォンになりますよね。
その型番は、「新しいもの好きじゃないと駄目なんだぞw」という人よりも最新機種になります。
そうしたら威張れないんです。
でもその人の頭の中には、「一度はアタシはこのスマートフォンで新しいものに飛びつかない愚者を殴りつけてやれた」という栄光だけが残っているから、それからず~っと『スマートフォン』に異常な固執を見せて、何かとしつこい。
権威あるアカデミーが決めた小説の書き方の手順を守ることがとにかく大切で、自分のやり方が最高峰で、それ以外はゴミ扱い。
この、もう一つ上にいかないと駄目なんだろうなと想っています。
一つ上ってべつに難しいことじゃなくて、常に自分を疑い、「あなたはそのやり方なのね」と他人を尊重して認めるというだけのことです。
それでその新しいもの好き自慢の人は、『北斗の拳』の編集者役がやりたいと云うのです。
駄目出しをして指導する役。
「あなたの為をおもって言ってやっている」
これが普通でしょ?
これが常識でしょ?
「まずはプロットを完璧に創れ! 話はそれからだ」
愚かなお前のためにわざわざ貴重な時間を使って言ってやっているのだから、感謝しろという。
指導する有能な編集者役と、クズで無能な書き手。
そして最後に感謝されて、「お前もようやく分かったようだな」「幸運のわらしべ長者は近くにいたんだぞ」と圧勝するシナリオが、その人の脳内ですでに出来てるのです。
……そんな関係に憧れるわりには、『北斗の拳』ってプロットなしで描かれていたんですけど、それはいいのね。
第三の男の原作者がプロットなしで思い付きであれこれ足していったし、鬼編集者ですら、「最初から決めたようなものでは面白くならない」と厳密なプロット立ての必要性については否定しているのですが、それはいいのね。
たとえば、原作者が気をつけて丁寧に恋愛要素を排除しながら作っていた人間ドラマを、「こっちの方が面白いでしょ!」とばかりに安っぽい恋愛要素を大量にフレーバーされる。
他人の作品に口出しをしたい時には、【それは自分のやり方であり、自分の好みにしか過ぎない】ということを肝に銘じておかないと、こういうことにもなりかねません。
「恋愛要素があった方が絶対にいいですよね?」
この価値観からみたら、こちらの方がいい作品だからです。
この改変欲求って、自分が想う改変が唯一の回答じゃないんです。
他の人に見せたら、その人はその人で、「これはここをこう変えて、ここを生かして、このキャラをもっと活躍させて」とまったく違う二次創作のアイデアがどんどんその上に出るはずなんです。それぞれ、自分の好み、自分がいいと想う作品の形態があるから。
伝説の鬼編集者と『北斗の拳』の作画の人は、昭和の熱血スポ根世代だから、鬼コーチの元で鍛え上げられて成功を掴むビクトリー・ロードというファンタジーが双方に共通してあったから、あれが成り立っていたのであって、新しいもの好きでないといけないのなら、令和の時代にあった方法を取らないと駄目でしょう。
ああだから、最新は、『権威あるアカデミーの作成指示方法に従って小説を書き、AIを通すことが最も良い小説なんだぞ!』なのかな。
小説の書き方を規則化する権威あるアカデミー。
みんなが同じ方法で同じ文体で書くアカデミー。
最初にプロットを立て、そこから決して外れてはならず、その通りにただ清書するだけの作品しか認められない小説世界。
そんなのは、窮屈で不自由なことだなって想うのですよ。