本棚を整理していたら読みたい本が身長くらいに積み上がりました。現在ただ今、読みふけっております。
もう一度読みたいと置いてあったものなど、死ぬまでに全部読めるんだろうか。
その流れでゆるく読み専になっています。
『芸術には、母が必要
母でなければ、恋人、あるいは見守ってくれる人……』
拙作エッセイ「読専の神さま」に頂いた天川さんからのこちらのコメント。本当にその通りです。そういった存在が、書き手にどれほどのエネルギーを与えてくれることでしょう。
ランカーさんなんて更新するたびにどさどさと、当たり前のように星は届くし、常時ずっとベルに赤い丸印がついている状態でしょうから、ありがたみが薄れるとはいわなくても、一人ひとりの顔は薄そう。
大きな神社はお参りするだけでも御利益がありそうではありますが。
それに比べて田舎の小さな神社は、「あ、誰か来てくれた」です。
社にいるのは神ではなく書き手。
過疎ってるところほど、「今日は珍しく赤い丸がある!(お供え物)」「神様(読者)が来てくれた!」と小躍りする。
来てくれる人の一人ひとりが重く、ありがたいですよね。
それで本日のタイトルです。
流行ものを書かないと読者がつかないので病む。この流れね。流行ものを書いているのに読者がつかないパターンもありますが。
居たたまれないなぁと想いながら数日過ごしていたのです。
創作者なんて元から病んでますから病んでて上等くらいにケーケー笑ってるくらいでいいんじゃないかと想ってますが、お酒でも、甘口から辛口まで、その中で一つ選べと云われたら、各々「自分はこの酒が美味しくいただける」があります。
酒でも煙草でも。
焼き鳥なら塩派とタレ派、餡ならこし餡派とつぶ餡派。
人それぞれ「これが好き」というものがある。
一つ選べといわれたら、わたしは無難に端麗辛口を選びますけど、わたしが無難だと思ってるだけで、甘口こそが日本酒であり無難と思っている人もいるでしょう。
さらに淡麗辛口にも、産地や銘柄によって味の特徴がありますよね。
甘口のぬる燗しか呑めない人に、辛口は選ばれないの。
でも冷やした辛口こいこいの人だったら、流行や王道に関係なく、ずばりあなたの作品が好まれるかもしれない。
「流行もの」「王道」あと何だっけ、「読みやすい」「読後感がいいもの」?
ここでいう読後感とは、性善説に基づくハッピーエンドのことでしょうか。
最後はみんな笑顔で良かったね。
執筆する方の動機も、「辛いこの世の中、自分の作品で少しでも読者をほっとさせたい、勇気づけたい、明るくしたい」、ご本人も外向きにそのことをアピールしていて、「これはそんな作品です」と胸をはっておられる。
当然ながらそんな方々はど真ん中です。創作世界でもど真ん中です。
こういう方々が真ん中にいるからこそ社会秩序が保たれているのです。
くっきりした善悪、は絵本ですが、さすがにそれはなく、苦難を掠めつつ、人として正しくあろう優しくあろう隣人と助け合おう。
何とかしてこの世界と折り合いをつけて、愛を大切にして生きていこう。
そんな成長物語。
中央に位置している方々の『無難』がそれなんです。
だからその中央に位置している人たちが選ぶなら、心温まる「涙が止まりません」を選ぶんです。
ただそれだけ。
でも創作の素晴らしさはそればかりではないですよね。
人間の脳の神秘すら感じさせる想像力の極みを発揮したヒエロニムス・ボスの絵画なんか、今みても「この人頭おかしいな」って思うんですけど、異才が際立っていて強烈ですよね。
大量生産されたきれいな、誰にも文句のつけようもない売れ線の「愛と祈りの宗教画」とは違い、彼にしか描けない、悪魔が乗り移っているかのようなあの作品群にも、世紀を超えて熱烈なファンがついていますよね。
酒は甘口派。
これが中央にどんと座っていても、その外側にはカクテル派や、ウォッカが好きですという人が大勢います。
ビール一つとっても、キリンがいいサントリーがいい、はたまたサッポロ、銀河高原ビールじゃないと嫌だと云う人もいるんです。
ウイスキー品評会にジュースを持ち込んでどうするw
とか、
だったら最初から甘口ぬる燗しか評価しませんと明記しておけw
こんなのは双方に問題があるんですけど、
基本、甘口派の人が辛口のお酒を選ぶことはありません。辛口が甘口を選ぶこともありません。
呑めないんだから。
味が分からないんだから。
これのどこがいいの、と。
ボスの絵画なんて「気持ち悪い、怖ろしい」だけで終了です。
誰が見てもほっとする、きれいな色彩の、居間に飾れる明るい絵のほうがいいじゃないと。
にこにこ絵本コンテストに人間の醜悪さを描いたホラーを持ち込んでも、読まれないに決まってます。
それだけのことです。
誰が読んでも喜怒哀楽が誤解なく通じて、すら~んと理解できる作品(王道)
これと、
難解であることが魅力で「???」となりながらも一部に熱狂的なファンを獲得するクセの強い作品(作者の趣味全開のやつ、ありますよね)
普遍的な人間のさまを描く現代ドラマ(「朝ドラ」)
単館上映の作家性の強い映画(純文学)
お互い、
「こっちがいいよね」と想ってる。
逆によ、もしあなたが選ぶ側だったら。
流行の、王道の、長文タイトルの、セリフだらけの、細切れターンで引きのばしている、誰が書いても似たり寄ったり(に見える)、そんな作品を受賞させますか?
いえ、さらにもっと手前。
たとえ流行ものであろうと、裾野が広いだけに、優れた作品はあります。
でも中身を読みもせずに、「はいはい長文タイトルね~」だけで落としますよねきっと。
それは向こうから見ても全く同じなのです。
流行に逆行した、地味で暗くて、人が死んで後味悪くて、地の文だらけで、「え、結局どういう話だったの?」必死で読んでも「ちゃんと説明がないから理解できな~い」そんな作品は選ばれない。
前に映画「プライベート・ライアン」を例にしたんですけど、
『アパムがなぜドイツ兵を撃ったのか?』
これを何十枚でも、たちどころに原稿用紙を埋めてそのまま賞が取れるほどの説明ができる人もいれば、
何が起こったの?
ポカンとしたまま映画を観終わって、感想といえば、「戦争映画だった。最後の意味が分からない」ここで躓いたままの人もいますよね。
その人だって、ちゃんと「説明があれば」間違いなく理解できたのです。
だからこちらの人は、ちゃんと逐一に説明がされている、感想文を書かせたら全員が同じ感想文を書くような作品を、「分かりやすくて感動的ないい作品だ」と高い評価をつけるのです。朝ドラはそうやって作られてます。
そこを説明したら全てが台無しじゃん……なんて通じない。
物語に対する感覚的なもの、感性で読み取るもの等も、まったく不明。
あちらからしたら、せっかくの感動作を最後に不可解な要素を入れることで台無しにした、もったいないことをした作品という解釈だから。
「たけのこの里」と「きのこの山」論争みたいなものなのです。
どちらの派も相手のことを、「頭沸いてんの?」と見做しているのです。
※そこまで殺伐とした論争ではありません。
理想は、甘口も辛口も、どちらの良さも分かっていることでしょうか。たけのこの里もきのこの山も嗜めますという口を持っていること。
『いい作品』が分かるということ。
わたしはたまに「一人称と三人称を混ぜて書く」という不思議さんです。
あるんですよ、そういう作風も。
添削の目で読む方には毎回きっちりチェックされますし(正解です。ありがとうございます)、まさに作文教室で初日に習うことで、これが絶対的なルールだ! って思ってる人多そうだけど、別に絶対的なルールじゃないですよ。
たまたまわたしが強く影響を受けた作家がそういう書き方を得意としていたので、染みついちゃってるんですけど、修正しろといわれたらささっと直せる程度のことです。
「です。ます」か「だ。である」に統一。
これも小学校で習うことですが、それが効果的に混ざってる作品だって世の中にはあります。
でも小説道場出身の人は「これは駄目!」って一瞬でバツをつけます。
それは校正校閲さんがやることで、読者はどんな作品でもそのまま味わったらいいのですよ。
いちいち正解の文法に照らし合わせて~なんて、小説は文法の教科書じゃないんだからさ。
※よっぽど変なら、書き手がそれを効果的に使えてないので直しましょう。
文体は性格みたいなものです。
作文教室でいくら「正解」を教わったとしても、機械のようにみんな同じ文体になるなんてことはないです。
設定資料集派が得意とするキャラ設定なんかも、カズオ・イシグロなんて【頼りにならない主人公】と異名をとってるくらい、何をやりたい人なのかさっぱり?? のまま突き進みますからね。
主人公のくせに客観的すぎる、一人称三人称視点みたいな?
霧の中で手探りしているようなままなんです。
でも読めないということはないですよね。
読めないどころか、あの文章世界は熱烈なファンを獲得していますよね。
気が付いたら、みちのあかりさんのエッセイ、じゃなくて創作論『売れる小説を書くのか、書きたい小説を書くのか問題』
https://kakuyomu.jp/works/16818093076411575783に寄せた「好きに書けると思うな!」レビューが拍手30を超えていました。
それでその時に思ったんですけど、
サポーター役(商業なら担当さん)は、その人とだいたいは同じ方向を見ている人がなるほうがいいのでしょうね。
さもなくば全てが徒労・疲労・不毛に終わります。
『アパムが撃った』
こんなのも担当によったら「説明は? 説明は?」「設定は? 設定は?」と作家をノイローゼにするくらいガミガミと追い込みますよ悪意なく。
説明がないと分からない!
読者が置きざりにされる!
ここがその人の最も重視するポイントなのだから。
分かるように書け! と。
問題なのは相手がどんな人で、どんなものを書きたいのか、どんな作風なのか。
世の中にはいろんな小説や表現があることをまったく考慮することなく、
「これでないといけないんだぞ!」
と「その人の正解」「その人の好きなもの」を書かせようとする人で、こんなの書き手からしたら、わざわざ労力をかけて他人の好きなものを書くという苦役に代ります。
分かりやすい例なら、恋愛要素を排除している作品に、「いちゃいちゃを書かないと読者はついてこないぞ!」と強制される。
その人の「好きなもの」はその人が好きなものであって、書き手と目指す方向が違っていると、せっかくの種を腐らせるだけで、何ひとつ芽吹くことはありません。
『芸術には、母が必要
母でなければ、恋人、あるいは見守ってくれる人……』
心からそう想える、そんな存在がいる創作者は、それだけで倖せですよね。