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嫌な気分になる話


 ふと頭に浮かんできて、嫌な気分になる事柄がある。
 現実を直視させるもの、自分の弱さを告発するものが該当する。

 そういうのが昼休みなんかに浮かんでくると、せっかくの休憩時間が台無しになる。私はなるべく浮かれていたい人間なのだ。

 とはいえ、一度脳内を駆け巡ってしまったものは仕方がないのでここに書く。



 物語の中で力を得た上で(特に敵を倒して)何らかの成功をおさめた人物が、話の終わりで、穏やかに幸せな人生を送った……というのはありがちな展開だ。
 ここでの力は、手に入れる方法を問わない。努力にせよ、与えられたものにせよ、関係がないということだ。

 穏やかに幸せな人生を送るということは、まずは安定が前提にある。
 自分だけでなく周囲の人物、環境も含めてということだ。何らかの危険因子があった場合、それを回避または排除する必要がある。
 力は得たままにはならない。得たままずっと状況が動かないのなら、そもそも物語の上で敵や障害を打倒することが出来ない。
 穏やかで満たされた生活をするには、あらゆる手段を講じて、自分の既得権益を守らなければならないのである。

 そこまで考えて、ふと思ったのである。
 これって元々敵側がやってたことと同じじゃん、と。

 逆転して勝ったのなら、後々で逆転され返して負けても文句は言えないはずなのだ。物語はそれを許さない。
 勿論、物語には物語に合った読後感が必要なのだ。せっかくスカッと勝ったのに、その後のエピローグで

 主人公の王国は後々、同様の力を手に入れた他の国に蹂躙された……

 では最悪だ。
 事実は小説よりも奇かもしれないが、そもそも小説にそこまで奇をてらう必要もないかもしれない。

 案の定、この話は結論が出ない。
 明らかに考えすぎだし、ピントがズレている気もする。
 嫌な気分だ。

2件のコメント

  •  こんにちは。

     敵を倒してめでたし、めでたしの物語は基本的には勧善懲悪だと思います。殺し屋同士、ヤクザ同士の抗争を描くような作品も、主人公に何かしら善性というか、仁義や美学があるものです。
    (実は日本最大の長寿漫画である『ゴルゴ13』はこの図式に当てはまらないのですが、あれは過酷な境遇や努力に基づいて仕事を遂行する話ですし、ゴルゴは極悪人ではありますが慢心している描写はあまりありません。正義が揺らいだ戦後日本社会にあって、そういうストイックさがある種の普遍的な美徳として受け止められてきたように思います。)

     物語が(広義の)勧善懲悪なら、それは単純な「欲望vs欲望」、「パワーvsパワー」だけではなく、「善(モラル)vs悪(欲望)」の戦いであるはずです。善は平和・調和・秩序、悪は闘争・不和・混沌と結びつきやすいことを考えると、勧善懲悪とは要するに、
    「身勝手な欲望のために場を乱す存在(異常事態)を、正義の名の下に成敗(正常化)する話」
     と言えます。一件落着という表現も平穏・調和・秩序が回復されたことを祝う表現です。
     この図式で考えると、脳幹さんが提起された問題は、
    「パワーによってもたらされた平和は、平和と呼ぶに値するのか。闘争と闘争の隙間に過ぎず、一件落着とは言えないのではないか」
     といった具合になり、さらに一歩進めると、
    「パワー(物理的暴力)で敵を排除することは善なのか」
    「他者との対話を放棄した秩序に善の要素(正当性)はあるのか」
     と言い換えられると思います。

     ここから先は倫理観の話になるので、脳幹さん自身にお任せしたいと思いますが、僕としては、この疑問は至極真っ当なものだと思います。「勧善懲悪は物語の構成として単純すぎる(つまらない)」という批判は昔からありますが、「平和を乱す者を許さない、秩序をもたらした者を礼賛することの暴力性」について真摯な物語や創作者・読者はあまり多くない印象があります。最後は平和になるのでないと、物語が終わった感じがしないという。ですが、平和・調和・秩序といったものは常に、抑圧された誰かの存在を孕んでいると考えるなら、人間の生や社会が続いていく限り、問い直しが続けられねばなりません。問い直しが全くない、許されない、あるいは黙殺される平和・秩序は、ユートピアの皮を被ったディストピアだというのは、SF小説でもよく描かれることです。その意味で、我々は物語が「一件落着」する安心感に対して、多少なりとも距離を取らねばならないのだと思います。

     長文失礼しました。
     こうしてコメントを書く中で僕自身、新たな気付きがあって楽しかったです。ここに書いたことは的外れ、ないし、脳幹さんには分かり切っていることだったかもしれませんが、考えるきっかけをくださってありがとうございます。
  •  コメントありがとうございます。
    「考えすぎだよ」で終わるものだと思っていたので、ここまで深い洞察が可能な議題であったことに、驚きがありました。

     どこかのスレッドで、とある悪役について、一切救いようのない悪だから良い、または徹底的に打ちのめされるから良い……という意見が出ていて、
     エンタメというのはきっと本質的に「続き」というものを考慮しない形式なのだろうなと考えたことがありました。

     こういった話をしておいて、私はそういうエンタメが好きなのも事実なのです。
     悪を清々しくぶっ飛ばし、そして自分は気持ち良く仲間とあったかい家に帰る。そういった話を欲している。
     あじさい様の仰った内容を用いるなら、自分に有利な状態のまま固着することを望む「ディストピアの種」が内心に巣食っているとも言えるでしょう。

     なのに、私は私自身から冷水を浴びせられる。その後のことを、続きを考える。今回のような無粋な勘ぐりをする。
     明確な根拠やきっかけなどなく、おそらくはその時の気分によって。

     そういった自分の性質が嫌だったのですが、こうした話が出来るということは、悪い面ばかりではかったんですね。

     ありがとうございました。
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