――これは生存報告というよりかは、臨死報告である。
脳幹まこととして、いや、それ以前の活動を含めてみても、実際に執筆に費やした時間というのはさほど多くはない。
特に「頑張ったなあ!!」と感慨に浸るといったこともなく、アイデアが出たタイミングで、小粒の作品を出し続けてきた。
頑張った時を強いて挙げるとするならば(未完には終わってしまったが)少し長めの作品を作ろうとした時に、一日中カフェでプロット作りに熱を出していた時くらいか。
あの時ですら「やっと解放される」くらいの気持ちしか出ず、自分でもなぜこんなに冷淡なのだろうと不思議に思ったくらいだった。
なぜだったのだろう。
書くことが嫌いなわけではないし、読まれたいという欲望がないわけでもない。
――ようやくわかった気がする。
未来が予想出来てしまうのだ。書く前の時点で、数時間後に自分がどんな顔をして書き終え、投稿を行い、結果としてどんな評価となってくるのかも、全て。
予知した未来では、ひどく退屈した顔をした私と、ひどく失望した顔をした私、ひどく落胆した顔をした私が順繰りに映し出されている。
百ある未来の一つか二つくらいは浮かれ顔になる私もいる。しかしそれは一時だけの話。どんなものであっても、結末は無表情の私だった。
予想を超えたかった。読者の皆様方ではない、私自身の予想を。
そんなやきもきした状況と併行して、私生活では色々なことが起こっていた。
数多の人生初が土砂降りの如く押し寄せ、混乱とともに、大きく人生の方針を変えなければならなくなった。
その中で「欠片」のようなものが見えた気がした。
今までの退屈な日々すらもひっくるめた、物書き人生としてこれを書いたら終わらせてもいいと思えるような、そんな題材の「欠片」が。
今の時点ではとても表現できない。実力も知識も不足し過ぎている。
時間が必要だ。この題材を成熟させ、改良し、適切な形で出す。
だから、この文章は生存というより、死に臨む為の報告ということになる。