国内外で「政治の季節」を迎えた昨今、「社会参加」というキーワードが頭から離れない。
若年層の低投票率の原因が、政治的無関心であれ、政治への不信・絶望であれ、熱心に投票するのは私を含めて「ほぼ終わりかけた人たち」であるのが悲しい現実である。「今どきの若い者は・・・」などと、したり顔で嘆いてみせて、社会の将来を成り行き任せに漂流させておく(一種の自己責任論?)、というのも一つの立場ではありうるし、自由意志をもち自立した「市民」の存在を前提とする民主主義社会とは本来「その程度」のものだという考え方もありうる。
しかしながら、今世紀に入ってからのサイバー空間における「言葉の海」(あえて「言論」とは呼ばない)の変遷を振り返ってみると、若年層が「アクティブな利用者」の多数派であるように思われる「言語空間」において、「表現の自由」の名のもとに言葉の暴力が横行し、数多の犠牲者を出すようになってしまったのが現状ではなかろうか。いい大人から見たら「炎上商法」(マーケティングの観点からは、ある意味強力な手法?)にしか見えない代物を、ページビュー稼ぎのため、あるいはサボタージュにより、大資本のプラットフォーマーが意識的あるいは無意識的に放置することも珍しくないようだ。
営利企業の活動なのだから、ある程度「売り上げ」を意識せざるを得ない事情もあるのだろうが、インターネットが社会インフラの一部になった令和においては、ますます「企業の社会的責任」が問われることになりそうだ。
その一方で、「ネット文化だからやむを得ない」というような傍観者的・事なかれ主義的態度を決め込んできたようにも見える「サイレント・マジョリティ」(良識派であると信じたい)が、もう一歩踏み込んで「サイバー空間への社会参加」を意識すべき局面になってきたようにも思われる。
私自身、これからの社会は若い人たちが自由に議論して創ってくれれば良いというスタンスで、「傍観」してきたつもりである。しかし、「表現の自由」を免罪符にした言葉の暴力が横行して「道理が引っ込む」ような状況を目の当たりにすると、「アドバイス」でも「介入」でもなく、「自由には相応の責任が伴う」という「サイレント・マジョリティの常識」を可視化するような形で「サイバー空間へのシニア世代の積極的社会参加」の努力が必要になっているようにも感じる。
「機能する民主主義」を維持するのは、面倒くさく、手間ひまを要し、もしかしたら報われない作業かもしれない。だがしかし・・・。
自戒を込めて、この一両日考えたことである。
2024.9.24