いよいよ、下書きではラスボスとの対峙の場面に突入しました。そうそう、一昨日「飛んだ」と嘆いていたラブシーンも、ちゃんと書き直しています(^_^;)
よっぽど下書きの段階で読んでいたのか、思いの外細かいシチュエーションを思い出せ、再びニヤついております(笑)。
ところで、表題についてです。
やはり水戸藩の「その後」が気になり、もう描く予定がないにも関わらず、天狗党討伐以後の水戸市史(中巻5)の残りについて、DLしてみました。
すると、意外な事実が。
たまに出てきている、水戸藩側の軍監である内藤弥太夫。実は水戸藩内ではかなりの実力者だったらしく、天狗党討伐の後、弘道館の教授になっていました。
元々が学者肌なのは、第三章のリサーチ中に知っていたのですけれど🙄
で、意外だったのが……。
実は諸生党側にはいましたが、厳密に言うと、内藤弥太夫は中立派とも言うべき存在。そのためか、後で市川らの強硬な方針に反対し、水戸藩内の中でも市川派と内藤派に分かれていったようです。
つまり、市川と袂を分けたんですね。分裂したのは、天狗党だけではありません。実は諸生党もでした。
そのためでしょうか。「諸生党」でありながら、慶応4年の大政奉還のときなども、内藤は処罰されていません。ついでながら、名前だけ出てきていた「菊地善左衛門」もそうで、彼も処刑を免れました。
菊地善左衛門はともかく(この人は資料が少なすぎて名前だけしか登場させられなかった)、内藤弥太夫は割と市川に批判的な描き方をしましたが、後から史実に近かったことが分かり、歴史の偶然に唸らせられるばかりです。
そして思ったのが……。
やはり、「◯◯党」というだけで、物事の是非を論じるのは愚かしいという、ごく一般的は感想でしょうか(^_^;)
割と私は「勧善懲悪型」の展開にしないことが多いのですが、この諸生党についても、「二本松藩と共に行動していたから、正義の味方」なんていう書き方をしなくて良かった……と、つくづく感じた次第です。