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三浦平八郎の真意

当初は、なるみんの「ライバル」的な立ち位置だった、守山藩の三浦平八郎。
構想の段階で「守山藩の尊攘派が暗躍している」という設定は決めていたのですが、そのままの設定で押し通せば、なるみんも「あいつが捕まったか……」位のセリフで終わっていたと思います。

ですが、昨年末に訪れた郡山歴史資料館でコピーしてもらった「文久4年年中日記」(樫村日記)。
この資料にある、今まで扱われてこなかった「2月に守山藩士が嶽温泉に遊びに来ていた」という史実が、私の三浦平八郎に対する評価を大きく変えることになりました。


https://note.com/k_maru027/n/n9109d580ed2b?magazine_key=mdffd35568d41
https://note.com/k_maru027/n/n13cbfe73809a?magazine_key=mdffd35568d41

まあ、細かく見れば、守山藩士の水戸へ出向していた面々の行動が怪しいことには、違いないのですが……。
ただし、平八郎自身の手記による「大炊頭様をお助けするつもりで、藩士らを派遣した」という言い分は、弁明ではなく彼の真意だろうと思います。
そもそも、その大炊頭自身が水戸藩主慶篤の名代として水戸に下向したわけで、市川三左衛門らの計略に嵌まったという方が、正解でしょう。
守山藩の三浦平八郎も、本人の言い分通り、この政略に巻き込まれた……というのが真相ではないでしょうか。

ちなみに、三浦平八郎は慶応4年、揚屋から出されて再び守山藩の代表に復帰します。
この頃には、宗家である水戸藩は本圀寺党≒改革派が勢力を握っていました。そのため、元治元年の騒乱後、諸生党によって弾圧された天狗勢が逆に諸生党の面々を弾圧。水戸藩は再び泥沼化していきます。
守山藩もこの潮流に巻き込まれたのでしょう。
「直違の紋~」でもちらっと書きましたが、奥羽越列藩同盟に加盟していながらも、三春藩の背反とほぼ同時に、守山藩も結果的に同盟軍を裏切っています。

その後、明治に入ってから三浦平八郎は天狗党騒乱で殉死した藩士らの霊を弔い、墓銘の揮毫を行っています。

偉人とは言い難いかもしれませんが、彼もまた、「守山藩」の行く末を案じていた一人には、違いないのではないでしょうか。

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