ホント、つらつらとカクヨムの近況で愚痴を書いて済みません🙏
noteで俳句を投稿するのをやめよう……というか、noteの継続自体も、本当のところは迷っている状況です。
俳句のサークルを静かに退会するべきか悩んでいるのは、noteでもXにも出さないでいます。このサークルに関しては、そもそも「無理のないように」「誹謗中傷禁止」がルールとなっていましたし、それが魅力の一つでした。
ですが、私がここ3年ほどずっと悩まされている「誹謗中傷事案」。一部の人には打ち明けた(有料記事扱いにしてあります)のですが、恐らく発端となったのは、私のこのサークルへの加入がきっかけでした。
誹謗中傷犯をAとしましょう。Aという人物とは、元々はそんなに関係が悪かったわけではないと思うんです。ただ、付き合いのあった頃から、日々の言動から割と嫉妬深いところがある人……という印象はありました。
実際、私が相互フォローしているCさんという歴女仲間がいます。このCさんが私のことをフォローしているのを知ったAは、Cさんのこともフォローしたんです。それ自体は、別にいいんですよ。ただ、Cさんはフォロバしなかったんですね。後から知ったことですが、Cさんなりに、「Aとは合わない」という肌感覚から、フォローを見送ったのだそうです。(本人から直接聞きました)
ですが、Aにはそのことでも騒がれました。多分、私だけがフォローされて、Aがフォロバされなかったのが、面白くなかったのでしょう。ただ、相手をフォローするかどうかはCさんが決めるべきことですよね。
そして、私の俳句サークルへの加入。これも実は「Aの嫉妬から逃れて、純粋に文芸活動を楽しみたい」という思いもあってのことでした。まあ、俳句自体は割と好きですが、それ自体、ライター・作家としての知名度に貢献しては……いないと思います(笑)。それはいいんです、そもそも割り切っていたところですし。
ただ、私がここでの活動を楽しんでいたことも、Aは面白くなかったと思います。それを如実に表しているのが、
・今までAが興味を一切示してこなかった「俳句」「短歌」について、時折対抗するようなことを書いていた。
→ひどかった例では、Aの有料記事の中(第1回note創作大賞に関する感想文)で、「自分の作品が読まれないのは、最近は俳句や短歌など短文のものが好まれる傾向が強いから」と的外れなことが書かれていました。
・私が「新しい仲間の明るさに救われている」と書いたことを、やはり有料記事の中で「どうぞ新しい仲間をくれぐれも大切に」との皮肉を書かれていた
という件です。で、何で私がAの有料記事を見られるかと言うと、note特有の制度で「有料マガジン」という機能がありまして、Aと付き合い始めて間もない頃に、このマガジンを買っていたんです。
厄介なことに、この機能は基本的に「購読」をやめられないようになっているんです。しかも、ご丁寧なことに、マガジンに新しい投稿がされるたびに、note社から「更新のお知らせ」が来る。
見なければ良さそうなものですが、やはり気になるじゃないですか。それこそ、Aの言い分ではありませんが、「何を書かれるかわからない」。
実際、「誹謗中傷の証拠記録」としてのフォルダが作れるくらい、このAには相当好き放題書かれています。
それだけではありません。忘れもしない、今年の3月11日のことです。このところあまり俳句を詠んでいなかったのですが、こうした折々の日々というのはやはり「一句詠みたくなる」のが、俳人の性。で、詠んだわけです。
投稿自体は、現地の復興の喜びを詠んだものでした。少なくとも、Aのことについては一言も触れていないし、内容も決してネガティブなものではないと思います。
ですが、それすらAの「いちゃもん」に逢いました。A曰く、「時間が経ってもまだ取り上げるのは、所詮被災者マウントだ」という内容の、短文。
カクヨムでも書いていますが、私自身も3.11の被災者と言えば被災者です。ただし、「どの程度までの被害を受け、今尚トラウマになっているかどうか」は、被災者間ではかなり差があります。それは、約1年間ADR(原子力損害賠償支援センター)で働いたことのある私自身が、身を以て知っていました。
そして、私自身も潜在意識下ではあの震災がトラウマになっているのでしょう。
Aの投稿を目にしてしばらくしてから、吐きまくりました。多分、病名をつけるとすれば「ストレス性胃腸炎」。
今では回復していますが、ストレス性胃腸炎を発症したのは本当に久しぶりで、「俳句を詠むこと」すら、怖くなりました。多分、noteの俳句サークルの中で開かれた「句会」で、ダメ出しを食らいまくったのも、「俳句を詠むことへの恐怖」に、拍車を掛けた。
何と言うか、いつもだったら「理論」と「感情」の分離をきちんと出来ているつもりなのですが、それが今はうまく出来ない状態です。
文法的な誤りというか、客観的指摘などのテクニカルなものであればともかく。そうでないものについては、いつもだったら「まあ、感じ方は人それぞれだし」と流せるものが、うまく流せない。
そんなわけで、noteの「俳句関連」の近日の投稿に関しては、一旦下書きに戻しました。「削除」にするかも悩んだのですが、やはり「スキ」をつけてもらったり、感想を頂いたりした記事に関しては、その方々への感謝の念から、安易に「削除」したくない……という思いがあります。
ある意味救いなのが、「一旦下書き」の状態でも、また「公開」に戻すと、「スキ」も「コメント」もちゃんと復活します。
なので辛うじて、また楽しんでいただける手段は残しました。
ですが、Sさんの「Nさんに出した指示」というのは、そのような可能性すら潰していたんですよね。この件についてはSさんに何か言うつもりもないですし、そもそも、もしも退会されたNさんが見ていることがあるとしたら、絶対に心の負担になるでしょうから……。
それは避けるべきですし、私もnoteやXで流すつもりはありません。
***
それでも、どこかで思うんです。「ストレス性胃腸炎」を発症してまで、俳句やnoteをやるべきものだろうか?と。Aの誹謗中傷にはある程度諦観を持ち慣れていたつもりでしたが、この俳句の件に関しては、まさかいちゃもんがつくと思わなかった。
俳句サークルの仲間には、このAの正体は告げていないんです。それは、サークルの主催者の一人であるSさんが、別に「文芸サークルによる◯◯グランプリ」の審査員を務めていて、Sさんに変なバイアスを持たせたくない、という意図がありました。Aは、この◯◯グランプリの常連なもので……。そもそもnoteの複雑な人間関係を知らなければ、「知らなかった」で無事に泳ぎ切ることもできるでしょうし。
ですが、先日の「Nさんの退会」に関する投稿で、虚しくなったのも確かです。私がここまで気を使ってきたのは、何だったのでしょうか……。
いや、それで感謝してほしい!とかではないですし、そこまで狭量なわけではないですけれど。
何か、「noteを長くやっている弊害」が、ここに出てきて噴出してきたなあ……という感じがします。多分、当面は投稿を控えて、気持ちの回復を待つしかないのでしょうけれど。
ちなみに、このAの「一言いちゃもんをつけなければ気がすまない」の性格の犠牲になったのは、私だけではありません。
実はnoteで「朗読」を楽しんでいた?人(Kさんとします)ともトラブルを起こしていて、そのバックボーンもAから聞かされていますし、Kさんが朗読のコンテストで最終選考に残ったときも、Kさんの「自分はまだまだなのに最終選考に残って申しわけない気がする」という自虐的な投稿について、「いちゃもん」をつけていました。既に、KさんとAの関係性は絶たれているにも関わらず、です。
しつこすぎませんか?
それだけでなく、Aが書いているサイトの「仲間」に対しても、「いちゃもん」というかネタパクリ?というか……をしていたことも発覚。
これに関しては、私は基本的には外部者ですが、そのディレクターや書き手と多少縁故があり、さすがに両者に同情を禁じえません。蒸し返されたくないでしょうし、先方から何も言ってこない限りは私も静観するつもりですけれど……。
私もAにはかなりやられているので、何かあり、かつ私に余力があれば、彼らの相談には応じたいと思っています。
で、この件についても、私と書き手さんが時々交流を図っているのをしっかりAにチェックされていて、それすら面白く思わないAが、「勢い」で書いた部分もあるんじゃないのか?なんて、嫌な予感がしています。