……って、小説で時々聞きますよね。作者が当初意図したのとは別に、物語が進む内に勝手に成長し、思いもよらぬ話の展開になることです。
私の場合、割ときっちりプロットを組んでいることもあり、あまり「キャラが動く」のを経験したことはなかったのですが、今回、初めて?体験しました。
それが、守山藩の「三浦平八郎」です。
この人、言わばなるみんの「ライバル」的な存在で、二本松藩の脱藩者の手引をしたり、助郷騒動では邪魔をしてくれたり、はたまた自藩(守山藩)の領民が越訴したり……と、結構嫌なヤツです。
で、当初はそのまま突っ走って「天狗党討伐」で討伐される側に周る予定でした。
ですが、大きく変わることになったのが、「文久4年年中日記」(通称樫村日記)です。
この日付が問題で、天狗党の「筑波義挙」が3/27日。その直前の二月に、二本松藩の嶽温泉に守山藩士らが遊びに来ていたことになります。
しかも、50日余りの「逗留延長願い」が出されているという……。
で、この「高野東八郎」を始め、どうも後で逮捕される面々が長期間二本松藩に滞在していた、というのが不自然なんですよね。
従来は、守山藩士らで逮捕された面々は、「天狗党過激派」という位置づけだったと思います。
まあ、そもそもその首領である「三浦平八郎」が薩摩の月照などの尊攘派と交流があった時点で、疑われても仕方ないのですが……。
ですが、この後「三浦の松川陣屋」への転勤が、6/12、そして「松川表の希望もあり」高野らが水戸方面に向かって出立したのが8/1と、最初から「天狗党に参加」していたにしては、動きが鈍すぎる印象があります。
ちなみに、隣藩である三春藩の河野広中は、西丸帯刀から筑波義挙の参加を誘われていたものの、「刀の研ぎが間に合わなくて遅刻しました☆」という、冗談のような話が残っています。
この事を鑑みても、最初から「激派」だったならば、やはり二月に二本松の温泉地に遊びに来ている事自体、どうにも不自然です。
そこで私が出した結論が、次話の「嶽の出湯」のエピソードになります。
多分、これが一番すっきりと説明が通る。
従来の「通説」(そもそもあったん?)を引っくり返すような説ではありますが、割と自信あり。
そのため、三浦平八郎はこれで出番が終わりですが(多分)、思いもかけないような鳴海との対話になりました。
まあそれ抜きにしても、割と私のお気に入りの場面になりそうな気がしています(*^^*)