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優秀な三浦十右衛門

今回は割と早い段階で、「十右衛門からのお手紙パート2」を披露しました。
前回のパート1(藩公上洛で出てきたもの)もそうですが、これらの手紙は私の完全な創作です。

もっとも漢文調に訳す前の現代語版の段階では、こちらも一応それなりに頭を使っているのですよ^^;
前回分も合わせてこの手紙の情報のベースとなっているのは、「水戸市史」と「七年記」。七年記は、会津藩側による「文久期~慶応期にかけて、会津藩の京都守護職としての活動内容及びその後の戊辰戦争」の記録なのですが、新選組の動きなども記されており、割と激動の時代の詳細を追うのに便利な史料です。

そして、十右衛門が出かけていった「本圀寺」&「吉田神社」。
前者は、水戸藩の京都における公的宿舎でした。確か水戸藩が建立した寺で、水戸光圀にちなんで「圀」の康煕文字が使われています。(日本の漢字にはない字なんですよ)
当然他藩の人間が近づけるわけはないでしょうから、どんな理由をつけていったんだろう?と、フィクション側の私ですら思うのですが、近くに天智天皇陵があるので、そこに「お参りに来た」とでも言えば、尊王の気風の強い水戸藩であれば、納得してくれるかもしれません^^;

また、実はさらっと水戸藩の秘事が盛り込まれております。それが、「一橋中納言(一橋慶喜)の弟君がいるはずだが、その割に人が少ない。にも関わらず、夜でも明かりが絶えず薬師が出入りしている」という情報です。
実はこのとき、16歳になる「昭訓(あきくに)公」が藩主慶篤の代理として本圀寺に滞在していたのですが、病気に罹りこの後若くして亡くなってしまいます。
文久3年の秋から冬にかけて、京都における水戸藩尊攘派の動きが鈍いのは、この影響があったのかもしれません。

さらに、もう一つ十右衛門が訪れた「吉田神社」。
ここは京都における鎮守の一つですが、このすぐ近くに、会津藩の本拠地であった黒谷金戒光明寺があります。
また、この時期二本松藩は鞍馬口~下鴨エリアの警衛を任されていたので、公務の合間に十右衛門が足を伸ばせる場所として、「吉田神社」を選んでみました。

ちなみに、ここで十右衛門が情報を引き出した「鈴木丹下」は実在の人物で、実際にこの時期は京都で公事奉行を務めていました。要するに、会津藩の外交責任者といったところでしょうか。

後で調べて分かったことですが、会津藩の中でも割と上位の家格の人物で、あれこれと藩内の重要情報を握っていてもおかしくない人物です。そればかりでなく、過去の作品「直違の紋~」でも、最初の頃に「丹羽一学とこっそり二本松城下で対面した」ということで、名前だけ出てきた人物でもあります。
「直違の紋~」のときはわかりませんでしたが、改めて調べてみると、会津藩もそれなりの人物に二本松藩との折衝を任せていたのですね。

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それにしても、これらの情報を探り出してきたとすれば、十右衛門は相当に優秀な人物ではないでしょうか。
二本松藩関連の作品では今まで滅多に取り上げられることはなかったのですが、明治期に入ってから教導団(陸軍幼年学校の走り)の教官も務めているほどの人物。
これくらいのことはさらっとこなしていても、不思議ではないのかもしれません。


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