昨日は十右衛門からなるみんへのお手紙の下書きを書いていましたが、本日はリサーチの延長で、第3章に出てくる「常陸太田宿」の宿割図を作ってみました。
若干ネタバレ?のような気もしますが、元治元年に起きた「天狗党騒乱」で、二本松藩にも出兵命令が下されます。
そこで二本松藩が引き受けたのは、「常陸太田市」界隈の天狗党討伐及び太田宿(現常陸太田市)の警衛。
大体2ヶ月あまり同地に滞在しており、ここから周辺に出没した天狗党の勢力と戦っていたわけです。
で、その細かい宿割の情報などは二本松の資料では見つからず、常陸太田市史などから作成してみました。
一応各人の宿舎名などが常陸太田市資料編纂に載っていて、地図に落とし込むとこんな感じになるんじゃないかなあ……と思い、自分用に作ってみたものです。
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私も常陸太田市には行ったことがないのですが、ここには水戸徳川家代々の墓廟があります。
また、室町~戦国時代にかけての大名、佐竹氏の居住地でもありました。
そのため、水戸からは若干距離があるものの、水戸に次ぐ経済・軍事拠点として重視されていたそうです。
実際、二本松藩が警衛に当たる前は、天狗党・諸生党及び大発勢(天狗党の中でも穏健派の勢力)がここを狙っており、二本松藩が去った後、結構血みどろの争いもあったのだとか。
そんなわけで、常陸太田は(まだまだ先ですが)第三章の「天狗党の討伐」の舞台になる場所と言えるでしょう。
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それにしても、なぜ二本松藩側に天狗党討伐の細かい資料がないのか^^;
恐らく戊辰戦争の際にほぼ滅失・紛失してしまったのだろうとは思うのですが、こちらも、もう少し語り残されていても良い気がします……。
→常陸太田市では、「二本松藩が我々の街を守ってくれた」と、今でも戦死者のお墓を守ってくださっているそうですよ。