もらい事故
小石原淳
あるいは当たり屋
満月の夜だった。
夜は明るかったが、
東京で布施の営む町工場は、昨今の不況の波に飲み込まれつつあった。金策のために名古屋まで旧友を訪ねたが、誰からも色好い返事を貰えなかった。火曜までにまとまった額を用意できないと、工場を手放さねばならない。
成算がなかった訳ではない。むしろ、自信を持って出掛けた。ある旧友に対して、切り札を持っていたからだ。できれば使いたくない切り札だったから、その旧友と会うのは最後にし、他の知り合いに当たったが、金策はどうにもならず、致し方なく切り札を切った。
しかし、切り札は切り札ではなかった。布施が知らない内に、朽ち果てていた。時間の経過が相手の地位を押し上げるとともに、切り札のネタ――ある事件を時効と化していた。確実な物的証拠を持たない布施にとって、相手を下手に刺激する行為は、己の首を絞めかねなかった。元来、気の小さい布施にできるのは、引き下がることだけだった。
懐には、その相手から渡された飲み代だけが残っていた。が、憂さ晴らしする気にすらなれない。明日の日曜、競馬場にでも足を運んで、大逆転を狙おうかという考えが、頭の片隅に一瞬だけ浮かんだ。だが、ギャンブルとは無縁の半生を送ってきた堅実派の彼にとって、勝ち目が薄すぎる。手を出しても勝算が全くないとあっては、その気になれない。せめて、工場を救う――いや延命できるだけの金でいい、手に入る確率が三十パーセントあれば、やってみるのだが……。
大きなため息をまたついた布施の耳に、若そうな女性の声が右方向から不意に入ってきたのは、このときだった。
「そうなの。宝くじ、あたって」
はっきり聞こえた。思わず、身体ごと振り返りそうになった。だが、思いとどまり、肩越しにしておく。
九月、割と涼しげな夜だからか、コートを羽織った女性が、一人で歩いている。携帯端末で話をしているせいか、元々そうなのか、随分とゆっくりした足取りだ。人工的な光源が周囲にないため、年齢の見当はつかない。それよりも布施にとって大事なのは……他に行き交う人々はいないこと。九時過ぎの時間帯で、これは珍しいのかそうでないのか、名古屋出身でない布施には判断できない。
「うん、うん。会社の人から、お祝い――え? いくらって、賞金? 三千万円よ」
三千万! それだけあれば当面は凌げる! いや、それどころか、新しい設備だって入れられる!
布施は心中で叫んでいた。満月の光が、歪んだ彼の横顔を照らす。
「え? あははは、そうね。楽しみに。じゃあ、また」
通話が終わり、電源も切られた。
瞬間的な静寂。
そして空には、人を狂わせるという満月。サイズ、色、引力……申し分ない。
布施は咄嗟の思い付きを行動に移した。月に背中を押された気がした。
「満月の夜でしたよね……」
どうせなら仕事中に来てほしかったと、呑気に構えていた
「あの日はいつも通り定時に終えて、ここを出て……」
「お一人で、ですか」
強面の割に、物腰は丁寧な刑事。長月の気を楽にしてやろうと、若干の無理をしているのかもしれない。効果のほどは怪しかったが。
「ええ。いえ、退社したときは、何人か一緒でしたけれども、じきに一人に。帰る方角が違うものですから、地下鉄に乗った時点で、もう、私一人でした。特別な用事がない限り、いつもこんな感じ」
「ふむ。続きをどうぞ」
「自宅マンションに最寄りの駅で降りたのが、いつものように五時四十分ぐらいで、それから……駅前にあるコンビニで、ストッキングとごまのゼリーを買って、お弁当も買いかけたんですけど、思い直して、駅から自宅に向かって歩き出して、十分ほどしたところにあるKストアって店で、野菜とか卵とかパスタとか、とにかく食料品ばかりを買って、帰りました。六時半になるかならないかの時刻だったと思います」
「重くはありませんでしたか」
「は? ああ、買い物袋。ええ、慣れてるので」
「で、そのあと、どうされてました?」
「どうって、ずっと家にいましたけど」
「翌朝まで? 一歩も外に出ず?」
「……近所付き合いは特にないし、彼氏がいませんので」
わざと卑屈さを装って答えた長月だが、相手がどう受け止めたかは判断できなかった。表情を変えることなく、次の問い掛けを発してくる。
「じゃあ、あなたが在宅だったと証明してくれる人、誰かいますか」
「ですから、近所付き合いはないと」
「家の電話でもいいし、宅配業者でもかまわんのですよ」
「宅配は来なかったなぁ。家の電話もどうだったか……。端末の位置情報だけだと、私自身が自宅にいた証明にならないんでしょう?」
「原則として、そうなります。いやあ、弱りましたな」
たいして弱った風に見えないまま、刑事は側頭部に片方の手のひらを当てた。
「被害者は当夜、母親と電話していたんで、午後九時十分頃までは健在だったのは明らかだし……まあ、いいか。話を換えますが、長月さんは亡くなった
今度は動機調べなの、と警戒を強める。しかし、個人的に呼ばれて事情を聴かれているのだから、すでに警察は何かを掴んでいるに違いない。もしかすると、さっきのアリバイ調べも、捜査結果の確認だったのかも……。
長月は下手に隠すのをやめ、オブラートに包んだ言い方を探した。
「そりが合わないというか、性格が正反対っていうのはありました。彼女、田舎の出でしょ。私は元々、東京の生まれだから……」
「久我さんは確か、石川の出身でしたな。しかし、田舎と断言するのはどうもね。私は東北の方なんですが、やはり田舎ですか?」
「い、いえ。悪い意味ではなく、感覚が違うことを言いたいだけ」
言葉を選んだつもりが、これでは墓穴を掘りかねない。殺してないのだから怯える必要はないのに、疑われるのを嫌って萎縮してしまう。
「こちらの調べでは、それだけじゃないようですが」
刑事が相変わらず馬鹿丁寧な口調で言った。表情からは、笑みの欠片すら消えている。やっぱり、と長月は気持ち、首をすくめた。
「営業の
「あとのことは詳しく知りませんけど、半年ぐらい前まで宇佐見さんと付き合ってたのは認めます。でも、きちんと終わらせたことですから、久我さんや宇佐見さんを恨んではいません」
「あなたには今、恋人の類はおらず、愚痴をこぼすのを耳にした同僚の方がたくさんいます」
「ポーズよ、ポーズ」
急に鬱陶しくなって、手で追い払う仕種を交えて応じる長月。胸の内では、誰が喋ったのよと憤慨しながら。
「仮に否定したって、強がっちゃってとか何とか、結局は未練があることにされるんです。いちいち反論するのも面倒だから、そういうことにしておいたの」
「あなたの本心は分からないから、我々としては動機があると見なさざるを得ません」
「だったら、宇佐見さんにも動機があることになるんじゃなくて? 付き合っていれば、何か問題が出て来るもんでしょうから」
「宇佐見さんは当日の昼、得意先からの個人的な貰い物の宝くじを、久我さんにあげてから、福岡へ泊まり掛けの出張に行かれてて、完全なアリバイがあるんですよ」
そのことなら、長月も噂に聞いて知っている。敢えて口にしたのは、話の流れに過ぎない。
「長月さんは、他に動機を持つ人物の心当たり、ありませんか」
「……」
でたらめを答えてやろうかという思いが一瞬、頭の中をよぎったが、自重する。すぐにばれる嘘をついても、マイナスになるだけ。その代わり、別の点を思い起こしたので、利用してみることにした。
「会社で噂になっているんですけど、宇佐見さんが久我さんにあげた宝くじ、なくなってたそうですね。財布のお金には手を触れた形跡がなく、くじだけがなくなっていたと」
刑事は渋い顔を覗かせたが、じきに取り繕った。
「よくご存知で。あの部長さんに話したのが、もう広まったようですな。それとも、宇佐見さんご本人の口からかな」
「宇佐見さんには会ってません」
これ以上、痛くもない腹を探られてはかなわない。長月は硬い調子できっぱり言った。刑事は意に介さぬ風に、平板な口ぶりで続けた。
「宝くじが動機になったと仰りたいのですか、長月さんは」
「そういうことも皆無じゃないでしょう?」
「今回の事件には当てはまらないでしょうな。宝くじ十枚分。三千円出せば買えるんですよ。そんな物を狙って人殺しなんて、馬鹿げてる」
「高額当選していたら、値打ちは全然違ってくる……」
「肝心な点をご存知ないとみえる。宇佐見さんが久我さんにプレゼントした宝くじの当選発表は、まだ先です。あと三日か四日だったか。もしもその宝くじが一等当選するにしても、予知能力の持ち主でもない限り、犯行当日の段階で、当選しているかどうかは分かりっこない」
肩をすくめる刑事だが、強持てと猪首のおかげで全く様になってない。
「ともかく、長月さん。もう少し詳しく話を聞きたいので、ちょっとご足労願えませんかね。参考人ということで」
「……」
長月は泥沼にはまりこんで行く錯覚にとらわれた。思わず、足下を強く踏み締めた。
どうしてだ?
布施の身体の至る所を、同じ疑問がさっきから駆け回っていた。
犯行の翌日、彼は、ビジネスホテルから一番近い宝くじ売り場に、換金に行った。もちろん、高額当選金は売場ではなく、銀行に出向かねばならないことぐらい知っている。ただ、当選していることを確認しておきたかったのだ。
ところが、売場の中年女性は、簡単なチェックのあと、布施の差し出した宝くじ十枚を突き返してきた。
「これ、発表はまだですよ」
優しげだが小馬鹿にしたような口調で告げる。
布施はしばらく呆然としていたが、頭を振ると、そんなはずはないと食い下がった。だが、相手から、「くじに書いてあるでしょ、抽選日」と指摘され、事実そうであることを己の目で確かめると、すごすごと退散するしかなかった。
何でなんだ? 何故あの女は、三千万円が当たったと電話で喋っていたんだ? 他にくじを身に着けてはいなかった。これに間違いないはずだ。なのに、何故……。
何のために罪を犯したのか、分からなくなる。無論、殺す気なんて髪の毛の先ほどもなかった。宝くじを奪うために必死になって、女の口を塞いで押さえ付けていたら、死んでしまったのだ。そうまでして奪った宝くじが、当選発表前の物だった。狐につままれた心地である。たとえ宝くじが高額当選したとしても、抽選を待つ余裕が布施にはない。ほんの数日、遅いのだ。発表される頃には、工場は人手に渡ってしまっているだろう。
どうしてだ? どうしてこんなことをしてしまったのだ、自分は?
疑問符の意味するところは、やがて変化を見せた。
行方不明になっていた東京の工場主が、金策に出向いた先の中部地方N川流域で遺体となって見つかった。死後数日が経っており、遺書はなかったが、金策に失敗し、工場経営に絶望しての自殺と見られる――そんなニュースが小さく報じられたのと同じ日、宇佐見重吾は社屋の一階ロビーにて、何度目かの刑事の来訪に応対していた。
「別れた相手と言っても、悪感情はないんですよ」
刑事からの質問が終わったところで、宇佐見は元恋人への気遣いを示した。長月美砂は連日、事情聴取を受けているという。
「だから、美砂が恒子をどうこうするなんて、とても信じられない。僕にとっては、宝くじが動機と考えた方がまだしも、ですよ」
「しかしですな、宇佐見さん。発表前の宝くじではどうにもこうにも、殺人の動機にしては薄すぎる」
「じゃあ、美砂が犯人だったとしましょう。どうして彼女は、宝くじを持ち去ったんですかね、刑事さん?」
「当人は何にも語らないので推測するほかありませんが、行きがけの駄賃とばかりに抜き取ったとかね」
「だったら、現金を持っていけばいい。財布の現金は手つかずだったんでしょう? 大した金額ではなかったとは言え」
「うむ、まあ、あるいは、あなたから久我さんへのプレゼントという意味で、許せなかったのかもしれませんな。奪い取ってやって、せいせいしたといった感覚なんじゃないかと考えても、無理はありますまい」
「そういう粘着質な女じゃないと思ってたんだが……うーん」
「やけに拘りますね。恋人の久我さんを失ったから、前の恋人とよりを戻そうという算段じゃないでしょうな?」
「そいつはいくら何でも失敬だな、刑事さん」
「冗談半分ですよ、ご勘弁を。だが、宇佐見さんがあまりにも長月美砂を庇おうとするから、つい、穿った見方をしてしまう。殊に、宝くじ動機説に固執するのは奇異に映るんですがねえ」
「実は例のくじの番号を控えてましてね。万が一、当たったときに、恒子に威張ってやろうと思って」
「ほう。初耳だ。で、当たっていたとでも?」
「ええ。一等じゃなかったものの、百万が」
メモと新聞の切り抜きを取り出しながら、宇佐見は言った。刑事の顔色が若干、変わる。メモ用紙にある数字と切り抜き記事の番号とを突き合わせ、一致していることを認めると、刑事は唸った。
「驚いた。今の世の中、百万でできることなんてたかが知れているが、それでも、殺人の動機にはなる。……だが、事件当日に知ることはできなかった訳で、偶然としか思えん」
「抽選そのものに不正があったのかもしれない。殺人犯はそっち方面の関係者かもしれませんよ」
「宇佐見さん、あなたねえ、それは飛躍が過ぎる」
「美砂が犯人とは思えませんのでね」
「……そのメモ、本当になくなったくじの番号なんですか?」
宇佐見の手に戻ったメモを指差す刑事。
「どういう意味です、そりゃあ?」
「新聞に当選番号が載ったあと、あなたが急いで書いたとも考えられなくはない。長月美砂を助けるために」
「そんな馬鹿な真似、してませんよ。まるで、私と美砂が共謀して、恒子を亡き者にしたみたいに聞こえる」
「事件発覚の日に、そのメモを見せてくれりゃ、余計な疑いを招かずに済んだんですがね」
憤懣やるかたないと言わんばかりの宇佐見に対し、刑事は嫌味を交えつつも冷静に返す。
「とにもかくにも、宝くじが当たることを殺人犯が知っていたと証明できない限り、宇佐見さんの説は認められない」
「しかし、最後の電話で、恒子が実家のお母さんと話をしたとき、宝くじの話題も出たそうじゃないですか。ひょっとして、その通話を漏れ聞いた何者かが、よからぬ考えを起こして……あ! 犯人が、当たっていると勘違いした場合はどうなります?」
突然の閃き。宇佐見はゆっくりと喋った。自らの考えを確かめるかのように、ゆっくりと。もしもこれが的を射ているのなら、宇佐見自身にも事件の責任の欠片があると言えるのかもしれない……。
刑事は怪訝そうに片方の眉を上げた。
「ん?」
「恒子の持っていた宝くじを、犯人は高額当選した物だと思い込んだとしたら、私の説も無視できなくなるでしょう?」
身を乗り出す宇佐見に、刑事は首を傾げた。
「まあ、そうなりますが、そんな思い込みが生じる余地がありますかな」
「あると思いますね。恒子は石川の出身なんです」
「知っています。それが何か」
「石川の辺りでは、『もらう』ことを『あたる』と表現するらしいんですよ」
「もらうことをあたる……何ですと?」
困惑が見る見るうちに広がった刑事の表情を目の当たりにし、宇佐見は満足の苦笑を浮かべた。
「やはり、そういう反応を示しますねえ。私が恒子から初めて聞いたときも、同じでした。彼女から小学校時代の思い出を聞かされた際、たまに、『お小遣いがあたった』とか『通知表、あたるときの気分が嫌だった』なんて妙な言い回しが出て来る。気になって尋ねたんです。そうしたら彼女、恥ずかしそうに、自分が生まれたところではもらうことをあたると言うのよ、って」
不意に目の奥が熱くなって、苦笑がかき消える。
もし、恒子が殺されたきっかけがこれだとしたら。
「俺のせいじゃないか……」
つぶやいた。
――終
もらい事故 小石原淳 @koIshiara-Jun
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