もらい事故

小石原淳

あるいは当たり屋

 満月の夜だった。

 夜は明るかったが、布施典男ふせのりおの心は暗く、沈んでいた。歩道橋の真ん中辺りで、彼は欄干に両腕を乗せ、立ち尽くしていた。煙草を切らした今、口から出るのはため息ばかりで、愚痴すらこぼさなくなっていた。小太りだが頬はこけ、目の下に隈のある五十過ぎの男性が、陰鬱に背を丸めている姿は、街の賑わいから浮いている。身に着けた背広の上下は、夜目にもくたびれて映ることだろう。すぐ近くにある繁華街に出入りする人々は、布施を避けて歩道橋を渡っていく。

 東京で布施の営む町工場は、昨今の不況の波に飲み込まれつつあった。金策のために名古屋まで旧友を訪ねたが、誰からも色好い返事を貰えなかった。火曜までにまとまった額を用意できないと、工場を手放さねばならない。

 成算がなかった訳ではない。むしろ、自信を持って出掛けた。ある旧友に対して、切り札を持っていたからだ。できれば使いたくない切り札だったから、その旧友と会うのは最後にし、他の知り合いに当たったが、金策はどうにもならず、致し方なく切り札を切った。

 しかし、切り札は切り札ではなかった。布施が知らない内に、朽ち果てていた。時間の経過が相手の地位を押し上げるとともに、切り札のネタ――ある事件を時効と化していた。確実な物的証拠を持たない布施にとって、相手を下手に刺激する行為は、己の首を絞めかねなかった。元来、気の小さい布施にできるのは、引き下がることだけだった。

 懐には、その相手から渡された飲み代だけが残っていた。が、憂さ晴らしする気にすらなれない。明日の日曜、競馬場にでも足を運んで、大逆転を狙おうかという考えが、頭の片隅に一瞬だけ浮かんだ。だが、ギャンブルとは無縁の半生を送ってきた堅実派の彼にとって、勝ち目が薄すぎる。手を出しても勝算が全くないとあっては、その気になれない。せめて、工場を救う――いや延命できるだけの金でいい、手に入る確率が三十パーセントあれば、やってみるのだが……。

 大きなため息をまたついた布施の耳に、若そうな女性の声が右方向から不意に入ってきたのは、このときだった。

「そうなの。宝くじ、あたって」

 はっきり聞こえた。思わず、身体ごと振り返りそうになった。だが、思いとどまり、肩越しにしておく。

 九月、割と涼しげな夜だからか、コートを羽織った女性が、一人で歩いている。携帯端末で話をしているせいか、元々そうなのか、随分とゆっくりした足取りだ。人工的な光源が周囲にないため、年齢の見当はつかない。それよりも布施にとって大事なのは……他に行き交う人々はいないこと。九時過ぎの時間帯で、これは珍しいのかそうでないのか、名古屋出身でない布施には判断できない。

「うん、うん。会社の人から、お祝い――え? いくらって、賞金? 三千万円よ」

 三千万! それだけあれば当面は凌げる! いや、それどころか、新しい設備だって入れられる!

 布施は心中で叫んでいた。満月の光が、歪んだ彼の横顔を照らす。

「え? あははは、そうね。楽しみに。じゃあ、また」

 通話が終わり、電源も切られた。

 瞬間的な静寂。

 そして空には、人を狂わせるという満月。サイズ、色、引力……申し分ない。

 布施は咄嗟の思い付きを行動に移した。月に背中を押された気がした。


「満月の夜でしたよね……」

 どうせなら仕事中に来てほしかったと、呑気に構えていた長月美砂ながつきみさだったが、刑事にアリバイを尋ねられる段になって、不安に駆られた。ピアスに触れながら、刑事が口にした日付のことを思い起こそうとする。

「あの日はいつも通り定時に終えて、ここを出て……」

「お一人で、ですか」

 強面の割に、物腰は丁寧な刑事。長月の気を楽にしてやろうと、若干の無理をしているのかもしれない。効果のほどは怪しかったが。

「ええ。いえ、退社したときは、何人か一緒でしたけれども、じきに一人に。帰る方角が違うものですから、地下鉄に乗った時点で、もう、私一人でした。特別な用事がない限り、いつもこんな感じ」

「ふむ。続きをどうぞ」

「自宅マンションに最寄りの駅で降りたのが、いつものように五時四十分ぐらいで、それから……駅前にあるコンビニで、ストッキングとごまのゼリーを買って、お弁当も買いかけたんですけど、思い直して、駅から自宅に向かって歩き出して、十分ほどしたところにあるKストアって店で、野菜とか卵とかパスタとか、とにかく食料品ばかりを買って、帰りました。六時半になるかならないかの時刻だったと思います」

「重くはありませんでしたか」

「は? ああ、買い物袋。ええ、慣れてるので」

「で、そのあと、どうされてました?」

「どうって、ずっと家にいましたけど」

「翌朝まで? 一歩も外に出ず?」

「……近所付き合いは特にないし、彼氏がいませんので」

 わざと卑屈さを装って答えた長月だが、相手がどう受け止めたかは判断できなかった。表情を変えることなく、次の問い掛けを発してくる。

「じゃあ、あなたが在宅だったと証明してくれる人、誰かいますか」

「ですから、近所付き合いはないと」

「家の電話でもいいし、宅配業者でもかまわんのですよ」

「宅配は来なかったなぁ。家の電話もどうだったか……。端末の位置情報だけだと、私自身が自宅にいた証明にならないんでしょう?」

「原則として、そうなります。いやあ、弱りましたな」

 たいして弱った風に見えないまま、刑事は側頭部に片方の手のひらを当てた。

「被害者は当夜、母親と電話していたんで、午後九時十分頃までは健在だったのは明らかだし……まあ、いいか。話を換えますが、長月さんは亡くなった久我恒子くがつねこさんのことを、どうお思いでしたか」

 今度は動機調べなの、と警戒を強める。しかし、個人的に呼ばれて事情を聴かれているのだから、すでに警察は何かを掴んでいるに違いない。もしかすると、さっきのアリバイ調べも、捜査結果の確認だったのかも……。

 長月は下手に隠すのをやめ、オブラートに包んだ言い方を探した。

「そりが合わないというか、性格が正反対っていうのはありました。彼女、田舎の出でしょ。私は元々、東京の生まれだから……」

「久我さんは確か、石川の出身でしたな。しかし、田舎と断言するのはどうもね。私は東北の方なんですが、やはり田舎ですか?」

「い、いえ。悪い意味ではなく、感覚が違うことを言いたいだけ」

 言葉を選んだつもりが、これでは墓穴を掘りかねない。殺してないのだから怯える必要はないのに、疑われるのを嫌って萎縮してしまう。

「こちらの調べでは、それだけじゃないようですが」

 刑事が相変わらず馬鹿丁寧な口調で言った。表情からは、笑みの欠片すら消えている。やっぱり、と長月は気持ち、首をすくめた。

「営業の宇佐見重悟うさみじゅうごさんとお付き合いをしていましたね? 彼はあなたと別れたあと、久我さんと交際を持つようになった」

「あとのことは詳しく知りませんけど、半年ぐらい前まで宇佐見さんと付き合ってたのは認めます。でも、きちんと終わらせたことですから、久我さんや宇佐見さんを恨んではいません」

「あなたには今、恋人の類はおらず、愚痴をこぼすのを耳にした同僚の方がたくさんいます」

「ポーズよ、ポーズ」

 急に鬱陶しくなって、手で追い払う仕種を交えて応じる長月。胸の内では、誰が喋ったのよと憤慨しながら。

「仮に否定したって、強がっちゃってとか何とか、結局は未練があることにされるんです。いちいち反論するのも面倒だから、そういうことにしておいたの」

「あなたの本心は分からないから、我々としては動機があると見なさざるを得ません」

「だったら、宇佐見さんにも動機があることになるんじゃなくて? 付き合っていれば、何か問題が出て来るもんでしょうから」

「宇佐見さんは当日の昼、得意先からの個人的な貰い物の宝くじを、久我さんにあげてから、福岡へ泊まり掛けの出張に行かれてて、完全なアリバイがあるんですよ」

 そのことなら、長月も噂に聞いて知っている。敢えて口にしたのは、話の流れに過ぎない。

「長月さんは、他に動機を持つ人物の心当たり、ありませんか」

「……」

 でたらめを答えてやろうかという思いが一瞬、頭の中をよぎったが、自重する。すぐにばれる嘘をついても、マイナスになるだけ。その代わり、別の点を思い起こしたので、利用してみることにした。

「会社で噂になっているんですけど、宇佐見さんが久我さんにあげた宝くじ、なくなってたそうですね。財布のお金には手を触れた形跡がなく、くじだけがなくなっていたと」

 刑事は渋い顔を覗かせたが、じきに取り繕った。

「よくご存知で。あの部長さんに話したのが、もう広まったようですな。それとも、宇佐見さんご本人の口からかな」

「宇佐見さんには会ってません」

 これ以上、痛くもない腹を探られてはかなわない。長月は硬い調子できっぱり言った。刑事は意に介さぬ風に、平板な口ぶりで続けた。

「宝くじが動機になったと仰りたいのですか、長月さんは」

「そういうことも皆無じゃないでしょう?」

「今回の事件には当てはまらないでしょうな。宝くじ十枚分。三千円出せば買えるんですよ。そんな物を狙って人殺しなんて、馬鹿げてる」

「高額当選していたら、値打ちは全然違ってくる……」

「肝心な点をご存知ないとみえる。宇佐見さんが久我さんにプレゼントした宝くじの当選発表は、まだ先です。あと三日か四日だったか。もしもその宝くじが一等当選するにしても、予知能力の持ち主でもない限り、犯行当日の段階で、当選しているかどうかは分かりっこない」

 肩をすくめる刑事だが、強持てと猪首のおかげで全く様になってない。

「ともかく、長月さん。もう少し詳しく話を聞きたいので、ちょっとご足労願えませんかね。参考人ということで」

「……」

 長月は泥沼にはまりこんで行く錯覚にとらわれた。思わず、足下を強く踏み締めた。


 どうしてだ?

 布施の身体の至る所を、同じ疑問がさっきから駆け回っていた。

 犯行の翌日、彼は、ビジネスホテルから一番近い宝くじ売り場に、換金に行った。もちろん、高額当選金は売場ではなく、銀行に出向かねばならないことぐらい知っている。ただ、当選していることを確認しておきたかったのだ。

 ところが、売場の中年女性は、簡単なチェックのあと、布施の差し出した宝くじ十枚を突き返してきた。

「これ、発表はまだですよ」

 優しげだが小馬鹿にしたような口調で告げる。

 布施はしばらく呆然としていたが、頭を振ると、そんなはずはないと食い下がった。だが、相手から、「くじに書いてあるでしょ、抽選日」と指摘され、事実そうであることを己の目で確かめると、すごすごと退散するしかなかった。

 何でなんだ? 何故あの女は、三千万円が当たったと電話で喋っていたんだ? 他にくじを身に着けてはいなかった。これに間違いないはずだ。なのに、何故……。

 何のために罪を犯したのか、分からなくなる。無論、殺す気なんて髪の毛の先ほどもなかった。宝くじを奪うために必死になって、女の口を塞いで押さえ付けていたら、死んでしまったのだ。そうまでして奪った宝くじが、当選発表前の物だった。狐につままれた心地である。たとえ宝くじが高額当選したとしても、抽選を待つ余裕が布施にはない。ほんの数日、遅いのだ。発表される頃には、工場は人手に渡ってしまっているだろう。

 どうしてだ? どうしてこんなことをしてしまったのだ、自分は?

 疑問符の意味するところは、やがて変化を見せた。


 行方不明になっていた東京の工場主が、金策に出向いた先の中部地方N川流域で遺体となって見つかった。死後数日が経っており、遺書はなかったが、金策に失敗し、工場経営に絶望しての自殺と見られる――そんなニュースが小さく報じられたのと同じ日、宇佐見重吾は社屋の一階ロビーにて、何度目かの刑事の来訪に応対していた。

「別れた相手と言っても、悪感情はないんですよ」

 刑事からの質問が終わったところで、宇佐見は元恋人への気遣いを示した。長月美砂は連日、事情聴取を受けているという。

「だから、美砂が恒子をどうこうするなんて、とても信じられない。僕にとっては、宝くじが動機と考えた方がまだしも、ですよ」

「しかしですな、宇佐見さん。発表前の宝くじではどうにもこうにも、殺人の動機にしては薄すぎる」

「じゃあ、美砂が犯人だったとしましょう。どうして彼女は、宝くじを持ち去ったんですかね、刑事さん?」

「当人は何にも語らないので推測するほかありませんが、行きがけの駄賃とばかりに抜き取ったとかね」

「だったら、現金を持っていけばいい。財布の現金は手つかずだったんでしょう? 大した金額ではなかったとは言え」

「うむ、まあ、あるいは、あなたから久我さんへのプレゼントという意味で、許せなかったのかもしれませんな。奪い取ってやって、せいせいしたといった感覚なんじゃないかと考えても、無理はありますまい」

「そういう粘着質な女じゃないと思ってたんだが……うーん」

「やけに拘りますね。恋人の久我さんを失ったから、前の恋人とよりを戻そうという算段じゃないでしょうな?」

「そいつはいくら何でも失敬だな、刑事さん」

「冗談半分ですよ、ご勘弁を。だが、宇佐見さんがあまりにも長月美砂を庇おうとするから、つい、穿った見方をしてしまう。殊に、宝くじ動機説に固執するのは奇異に映るんですがねえ」

「実は例のくじの番号を控えてましてね。万が一、当たったときに、恒子に威張ってやろうと思って」

「ほう。初耳だ。で、当たっていたとでも?」

「ええ。一等じゃなかったものの、百万が」

 メモと新聞の切り抜きを取り出しながら、宇佐見は言った。刑事の顔色が若干、変わる。メモ用紙にある数字と切り抜き記事の番号とを突き合わせ、一致していることを認めると、刑事は唸った。

「驚いた。今の世の中、百万でできることなんてたかが知れているが、それでも、殺人の動機にはなる。……だが、事件当日に知ることはできなかった訳で、偶然としか思えん」

「抽選そのものに不正があったのかもしれない。殺人犯はそっち方面の関係者かもしれませんよ」

「宇佐見さん、あなたねえ、それは飛躍が過ぎる」

「美砂が犯人とは思えませんのでね」

「……そのメモ、本当になくなったくじの番号なんですか?」

 宇佐見の手に戻ったメモを指差す刑事。

「どういう意味です、そりゃあ?」

「新聞に当選番号が載ったあと、あなたが急いで書いたとも考えられなくはない。長月美砂を助けるために」

「そんな馬鹿な真似、してませんよ。まるで、私と美砂が共謀して、恒子を亡き者にしたみたいに聞こえる」

「事件発覚の日に、そのメモを見せてくれりゃ、余計な疑いを招かずに済んだんですがね」

 憤懣やるかたないと言わんばかりの宇佐見に対し、刑事は嫌味を交えつつも冷静に返す。

「とにもかくにも、宝くじが当たることを殺人犯が知っていたと証明できない限り、宇佐見さんの説は認められない」

「しかし、最後の電話で、恒子が実家のお母さんと話をしたとき、宝くじの話題も出たそうじゃないですか。ひょっとして、その通話を漏れ聞いた何者かが、よからぬ考えを起こして……あ! 犯人が、当たっていると勘違いした場合はどうなります?」

 突然の閃き。宇佐見はゆっくりと喋った。自らの考えを確かめるかのように、ゆっくりと。もしもこれが的を射ているのなら、宇佐見自身にも事件の責任の欠片があると言えるのかもしれない……。

 刑事は怪訝そうに片方の眉を上げた。

「ん?」

「恒子の持っていた宝くじを、犯人は高額当選した物だと思い込んだとしたら、私の説も無視できなくなるでしょう?」

 身を乗り出す宇佐見に、刑事は首を傾げた。

「まあ、そうなりますが、そんな思い込みが生じる余地がありますかな」

「あると思いますね。恒子は石川の出身なんです」

「知っています。それが何か」

「石川の辺りでは、『もらう』ことを『あたる』と表現するらしいんですよ」

「もらうことをあたる……何ですと?」

 困惑が見る見るうちに広がった刑事の表情を目の当たりにし、宇佐見は満足の苦笑を浮かべた。

「やはり、そういう反応を示しますねえ。私が恒子から初めて聞いたときも、同じでした。彼女から小学校時代の思い出を聞かされた際、たまに、『お小遣いがあたった』とか『通知表、あたるときの気分が嫌だった』なんて妙な言い回しが出て来る。気になって尋ねたんです。そうしたら彼女、恥ずかしそうに、自分が生まれたところではもらうことをあたると言うのよ、って」

 不意に目の奥が熱くなって、苦笑がかき消える。

 もし、恒子が殺されたきっかけがこれだとしたら。

「俺のせいじゃないか……」

 つぶやいた。


――終

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もらい事故 小石原淳 @koIshiara-Jun

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