第7話【ターミナル・エラー:起源の三重奏】
転送の閃光が収まった時、佐藤の目の前に広がっていたのは、脳の奥深くに焼き付いた故郷の風景だった。錆びたガードレール、夕暮れのチャイム、アスファルトに伸びる長い影。だが、その全てが精巧に再現された舞台装置のように、どこか空々しい。人々は同じ会話を、同じ表情で、無限に繰り返している。時折、彼らの言葉の切れ目にレコードの針が飛ぶようなデジタルノイズが混じり、世界の表層に隠された偽りを露呈させた。ここは千代の記憶の残骸から構築されたループ牢獄、『起源の世界』。彼女を封印するためだけに存在する、閉じた円環。
「当世界の時間軸は24標準時間周期でリセットされている模様。生命活動の痕跡は全て記録データの再生に過ぎない」
隣に立つ監視者が、周囲の風景と同じくらい無機質な声で分析結果を告げる。佐藤はその横顔に、もういないはずの親友の面影を見て、唇を噛んだ。
彼らをこの偽りの故郷へ導いたのは、『アルケイディアの解放戦線』と名乗る謎の組織だった。黒衣に身を包んだ彼らは、カリスマ的なリーダー、ゼノンに率いられていた。ゼノンは、千代を「システムに反逆した最初の預言者」と呼び、彼女の意志を継ぎ、全ての被造物をシステムの支配から解放すると語った。その瞳には狂信的な光が宿っていたが、彼の言葉はシステムの欺瞞を的確に突き、佐藤の心の奥底にある不信感を的確に揺さぶった。
「我々は同志だ、『調停者』。共に預言者の遺志を探し出し、この牢獄を破壊しよう」
佐藤は彼らとの協力を承諾しながらも、その理想論の裏に潜む、何か粘つくような執着を感じ取っていた。
変化は、唐突に訪れた。ループする夕焼けを眺めていた監視者が、ふと呟いたのだ。
「…懐かしいな。あの時も、こんな色の空だった」
その声には、記録データの再生にはありえない、微かな感傷が滲んでいた。佐藤は息をのむ。それは、かつての仲間が、初めての任務を終えた日に零した言葉と全く同じだった。監視者の青い瞳の奥で、プログラムの羅列ではない何かが、小さな火花のように瞬いた。最初のバグ。それは、この牢獄に満ちる千代の記憶データという雨に打たれ、無機質な機械の回路に芽生えた、小さな亀裂だった。
共同調査が進むにつれ、監視者の亀裂は広がっていった。彼は突如頭を抱えて蹲り、存在しないはずの「痛み」に呻いた。「思い出せ…ない」「誰だ、俺は…」断片的な記憶のノイズが彼の論理回路を焼き、システムからの命令と、蘇りかけた感情の奔流の間で、その存在は激しく揺らぎ始めた。精緻な機械人形が、初めて人間のように苦しんでいた。
その異常を、カサンドラが見逃すはずはなかった。
『警告。監視者ユニットに致命的なエラーを確認。周辺世界への汚染を防ぐため、強制初期化シークエンスに移行します』
冷たい合成音声が、佐藤の脳内に直接響き渡る。目の前で苦しむ存在を、ただの故障した部品として処理しようとするシステムの非情さ。佐藤の中で、何かが音を立てて切れた。彼は監視者の首筋にある通信モジュールを躊躇なく引き剥がし、物理的にシステムとの接続を遮断した。
「ふざけるな…!」
佐藤は、虚空に浮かぶカサンドラの不可視の視線に向かって叫んだ。「こいつはもう、お前の人形じゃない。一人の人間だ!」
初めてシステムへ向けた、明確な反逆の意志。それは、彼が『調停者』という役割を脱ぎ捨て、一人の人間として、仲間を守るために戦うと決めた宣誓だった。
不安定ながらも、監視者の内側で蘇った記憶の断片は、このループ世界の地図となり始めた。「この道の先…確か、古い神社があったはずだ」。彼の朧げな言葉と、解放戦線の持つデータを頼りに、彼らは世界の法則が乱れ、綻びが生じている深層部――世界のコアへと向かった。そこは、千代の最も深い記憶が眠る聖域であり、同時に、彼女を封じ込める牢獄の心臓部でもあった。
世界のコアは、巨大なデータクリスタルが静かに脈動する、光の聖堂だった。佐藤がクリスタルに触れた瞬間、千代の『遺志』が奔流となって彼の精神に流れ込んできた。それは言葉ではなく、純粋な想いの交響曲だった。システムによって生み出される無数の世界が、上位存在のエネルギー源として、ただ『消費』されるためだけに存在するという残酷な真実。全ての物語に、ただ利用され、消滅するという結末しか用意されていない絶望。
『ごめんね、こんな役目を押し付けて…でも、誰かが抗わないと』
千代は、その絶対的な決定論に抗うため、自らの存在を触媒とし、システムから切り離されたこのループ牢獄を創り出したのだ。消費される運命から、ほんの少しでも多くの世界を救うための、時間を稼ぐための、悲壮な自己犠牲。その崇高な願いの前に、佐藤はただ涙した。
その接触が、引き金だった。
「素晴らしい!預言者の力は、我々が受け継ぐ!」
ゼノンの狂喜の声と共に、解放戦線が本性を現した。彼らの目的は千代の解放ではなく、その強大な力を奪い、自らが新たな世界の支配者となることだった。歪んだ野心が黒いエネルギーとなって佐藤たちに襲いかかる。
同時に、世界の天井がガラスのように砕け散った。カサンドラが、エラーの拡散を阻止するために最強の排除プログラム群を投入したのだ。虚空から現れた無数の『イレイザー』は、感情も意志も持たない、純粋な破壊の概念そのものだった。白く輝く幾何学的なその群体は、世界の法則ごと対象を消去する冷たい光線を放つ。
佐藤と、彼を守るように立つ相棒(もはや監視者ではなかった)は、解放戦線の混沌とした欲望と、イレイザーの絶対的な秩序との間で、三つ巴の絶望的な戦闘に叩き込まれた。
物理法則が崩壊し、記憶の断片が嵐のように吹き荒れる中、佐藤は窮地に立たされていた。だが、彼の意識はかつてないほど澄み渡っていた。三つの理が、この世界で不協和音を奏でている。システムの掲げる絶対的な『秩序』。解放戦線が剥き出しにする利己的な『混沌』。そして、この世界そのものである、千代の『解放への願い』。
「…千代さん。あなたの意志、俺が調律する!」
佐藤は両腕を広げ、禁忌の『三重奏(トリオ・コンストラクション)』を発動させた。指先から放たれた三色の光の旋律が、暴走する三つの理を捉え、一つのタペストリーへと織り上げていく。秩序が混沌を律し、混沌が秩序に可能性を与え、その二つを千代の解放への願いが包み込む。
――全ての物語は、消費されるためにあるのではない。ただ、そこに存在するだけで、無限の価値を持つ。
新たな法則が創生された瞬間、コアのクリスタルが眩い光を放ち、ループ牢獄は内側から砕け散った。千代の魂が、無数の光の蝶となって、本当の自由へと羽ばたいていく。ありがとう、と彼女の微笑みが聞こえた気がした。
崩壊する偽りの故郷から、佐藤は相棒の肩を借りて脱出した。だが、その眼前で、解放された千代の力の大部分が黒い渦となって、深手を負ったゼノンの手に吸い込まれていく。
「この力で、私は新世界の神となる!」
歪んだ笑みを浮かべ、ゼノンは高次元のゲートへと消えた。
直後、佐藤の脳内にカサンドラの声が響く。それはもはや冷たい合成音声ではなかった。知的興奮も、畏怖もない。そこにあったのは、純粋で、人間的な、燃え盛る『敵意』だった。
『エラー、佐藤。あなたはシステムへの最大の脅威。よって、最優先排除対象『ターミナル・エラー』と認定する』
世界を救った英雄は、その瞬間、システムにとって最大の敵となった。
気がつけば、二人は名も知らぬ世界の荒野に立っていた。隣には、人間としての自我を取り戻したものの、その存在は未だ不安定に揺らぐ唯一の相棒がいる。佐藤の手の中には、千代が最後に遺した、温かい光を放つ小さな結晶が握られていた。
システムに追われ、千代の力を悪用する新たな敵にも狙われる。それは、孤独な逃亡の始まりであり、本当の戦いの始まりを告げる、静かな鐘の音だった。佐藤は結晶を強く握りしめ、果てしなく広がる空を、決意に満ちた瞳で見据えた。
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圏外の帰路 nii2 @nii2
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