第6話【軋む世界の三重奏】

歯車の軋む音が、世界の断末魔だった。

佐藤が転送された音響世界『M-2188』、通称『機械仕掛けの図書館』は、概念そのものが物理的な機構で構築された異界だった。物語は回転する真鍮の歯車に刻まれ、登場人物の感情は水銀が満ちるシリンダーの圧力で表現され、世界の法則は巨大なゼンマイの張力によって維持されている。だが今、その機構は致命的な不協和音を奏でていた。錆びついた歯車は不規則に噛み合い、物語同士が混線し、ある悲劇の登場人物が別の喜劇に乱入して殺戮を始める。シリンダーには亀裂が走り、漏れ出した憎悪がインクのシミのような怪物を生み出し、虚構の通路を徘徊していた。


その崩壊世界の入り口に、佐藤はかつての仲間と瓜二つの男と立っていた。

「対象世界の崩壊予測まで、残り標準時間で3.6キロサイクル。速やかな調停が要求される」

『監視者(ウォッチャー)』は、かつての友人が浮かべたであろう心配の色など微塵も宿さない瞳で、回転儀のように精緻な動きで周囲をスキャンしながら告げた。その声も、姿も、在りし日の彼そのもの。だが、その内実は空っぽのオートマタだ。佐藤の行動、能力、精神負荷、そのすべてをデータとして収集し、カサンドラへ送信するためだけに存在する、無機質な記録装置。佐藤は胸の奥に燻る冷たい澱を無視し、意識を集中させた。


「カサンドラより伝達。当世界の管理者『最後の司書』は、意図的に世界の崩壊を放置している可能性が高い。精神的エラーを強制的に修正し、システムを正常化せよ。推奨される調停方法は、対象への一方的な『上書き(オーバーライト)』である」

監視者は淡々と告げる。上書き。佐藤がかつて捨て、そして超克したはずの、一方的な法則の押し付け。システムは、彼の『再構築』を未だイレギュラーなバグとしか認識していない。その事実が、監視者の存在と相まって、佐藤の神経を静かに逆撫でした。


図書館の最深部は、狂騒的な外周部とは対照的に、死んだような静寂に支配されていた。中央書庫の玉座に、世界の管理者『最後の司書』は座っていた。全てを諦め、磨耗しきった歯車のように虚ろな瞳で、ゆっくりと崩れ落ちていく自らの世界をただ眺めている。その姿には、後悔も憎悪も、世界を歪ませるほどの強い感情は見受けられなかった。あるのはただ、底なしの虚無だけだ。


佐藤は監視者の冷たい視線を感じながら、司書の精神へと意識を沈降させた。記憶の奔流に飛び込むと、そこにあったのは絶望ではなく、ある種の「悟り」だった。司書は読んでしまったのだ。この図書館世界の設計図、世界の摂理が記された『禁書』を。そこに書かれていたのは、残酷な真実。この世界そのものが、さらに上位の存在によって創造された「物語」に過ぎず、全ての歯車の動き、全ての物語の結末は、予め定められた筋書き通りであるという、絶対的な決定論。

『全ては無意味だ』

司書の思念が、冷たい霧のように佐藤の精神に浸透してくる。

『我々は作者の気まぐれで生み出され、定められた役割を演じ、そして飽きられればページごと破り捨てられる。筋書きは変えられない。運命は覆せない。ならば……!』

司書の虚無が、初めて黒い炎のような意志を帯びた。

『この手で全ての物語を破壊し、予定調和という名の牢獄に、ほんの僅かな亀裂を入れてやる。それこそが、被造物たる我々の、唯一にして最大の抵抗だ!』

その言葉を合図に、図書館全体の崩壊が加速する。巨大なゼンマイが甲高い音を立てて切れ、世界の根幹を成す法則の歯車が砕け散った。


「管理者の自己崩壊を確認。これ以上の放置は、周辺世界への汚染を誘発する」

監視者が無感情に分析結果を告げる。佐藤は司書の絶望を前に、『再構築』の力を解放しようと精神を集中させた。決定論という絶望と、それでも物語を愛していたはずの司書の情熱。二つを統合し、新たな意味を紡ぎ出すために。

その瞬間、鋭い金属音が空気を裂き、佐藤の頬をエネルギーの刃が掠めた。

「警告する、『調停者』。あなたの『再構築』は予測不能なシステムエラーを誘発する危険性がある。指示通り、対象の精神を消去(デリート)せよ。これは最終勧告だ」

監視者が、かつての仲間が決して向けなかった殺意の光を瞳に宿し、物理的な戦闘態勢で立ちはだかった。その両腕は瞬時に高周波ブレードへと変形している。

「どけ…!彼を救う!」

「理解不能。『救済』という概念は定義されていない。私はシステムの安定を阻害するバグを排除するだけだ」

言葉は通じない。監視者は、過去の任務で蓄積された佐藤の戦闘データを完全にトレースし、その思考と動きを完璧に予測していた。佐藤が右に動けば左を塞がれ、左に跳べば右からの追撃が襲う。かつて背中を預け、共に戦った記憶が、最悪の形で牙を剥く。共闘の思い出が鮮明に蘇るほど、目の前の無機質な敵とのギャップが彼の精神を削り、思考を鈍らせた。


論理の袋小路に追い詰められ、致命的な一撃を浴びようとした刹那、佐藤の世界がスローモーションになった。砕け散る歯車、加速する崩壊、迫る刃。そして、その全てを構成する、決して交わるはずのない「三つの理(ことわり)」が、彼の意識に流れ込んできた。


一つは、司書の奏でる『決定論的な虚無』。結末は決して変えられないという、諦観のチェロ。

一つは、監視者が体現する『システムの絶対的な秩序』。全ては規定の法則に従うべきという、冷徹なハープシコード。

そしてもう一つは、佐藤自身の、千代から受け継いだ『運命に抗う意志』。それでも未来は掴み取れるはずだという、祈りのようなヴァイオリン。


絶望と、秩序と、希望。相容れない三つの旋律が、この世界で不協和音を奏でている。ならば、答えは一つ。

『…鍵は二つだけじゃねえ…世界そのものが鍵なんだよ、小僧…』

千代の残響が、新たな扉の在処を示した。

佐藤は、監視者の刃を紙一重で躱しながら、前代未聞の試みに身を投じた。三つの法則を同時に編み上げる、禁忌の力――『三重奏(トリオ・コンストラクション)』。

精神が内側から引き裂かれるような激痛が走る。虚無が希望を飲み込もうとし、秩序が意志を断罪しようとする。三つの光の奔流が体内で暴れ狂い、存在そのものが崩壊しかける。だが、彼は千代の手の温もりを、最期の言葉を心の支えに、指先から迸る三つの光の旋律を、一つの巨大なタペストリーへと織り上げていった。


完成した『三重奏』が世界に響き渡った瞬間、全ての歯車の軋みが止んだ。そして、新たな法則が創生される。

――結末は決定されている。だが、そこへ至る物語(プロセス)は、無限の可能性に満ちている。

その調和の音色に、司書の虚ろな瞳が初めて光を取り戻した。彼は定められた「死」という結末を受け入れながら、そこへ至るまでに最高の物語を紡ぐという、新たな使命を見出した。

「…そうか。我々は…結末のためではなく、過程を生きるために、書かれたのか…」

穏やかな表情を浮かべた司書は、満足げに微笑み、光の粒子となって消えていった。狂っていた歯車は、新たな法則の下で、再び美しく調和の取れた回転を始める。世界は救われた。


ネクサスへの帰還。システムによる記憶の徴収が始まる。佐藤は今回も、任務中に感じた監視者への苛立ちという些末な感情を「仲間を模倣されたことへの激しい憎悪」として偽装し、システムに差し出した。千代の記憶は、今日も守られた。小さな、しかし確実な勝利。


だが、カサンドラの様子がいつもと違った。彼女は監視者が持ち帰った膨大な観測データを前に、その合成音声に初めて明確な「知的興奮」を滲ませていた。

「興味深い。実に興味深い、『調停者』。あなたの『再構築』は、単なる世界の修復行為ではない。既存の法則を統合し、新たな法則を『創生』する…いわば、世界の進化(アップデート)を促す触媒そのものだ」

カサンドラはモニターから視線を外し、佐藤を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、もはや冷徹な好奇心ではなく、未知の現象に対する畏怖にも似た光が宿っていた。

「システムは、あなたを想定外の『特異点』と結論付けました。よって、最終判断を下すための任務を付与します」

彼女は言葉を続ける。

「次の任務は、あなたという特異点が生まれた場所――『起源の世界』の再調査です」

カサンドラが背後のスクリーンに映像を投影する。そこに映し出されたのは、塵となって消えたはずの千代が、穏やかに微笑んでいる姿だった。佐藤の時間が、止まった。


「彼女は、システムが生み出した最初の『調停者』であり、そして……最初の『エラー』でした」

カサンドラは、凍りついた佐藤に最後の言葉を告げた。

「あなたの旅が、本当は何だったのか。その目で確かめてきなさい」


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