第5話【調停者は鎮魂歌を奏でない】

世界が悲鳴を上げていた。

音響世界『J-774』に降り立った佐藤を、まず襲ったのは物理的な衝撃を伴うノイズの奔流だった。大地は凍てついた音波のようにささくれ立ち、空には不協和音のオーロラが絶えず明滅している。一歩踏み出すごとに、足元の結晶化した残響が砕け、耳障りな破片となって四散した。カサンドラから与えられた情報を元に、佐藤は世界の管理者――かつて天才と呼ばれた作曲家の記憶へと意識を沈降させていく。


男の記憶は、冷たい雨が降る演奏会のステージから始まった。自己憐憫と、才能への陶酔。彼が紡いだ旋律が、一人の女性を死に追いやったという後悔。だが、その記憶はどこか歪んでいた。後悔はしている。だが、その底には「自分の音楽にはそれほどの力があったのだ」という歪んだプライドが透けて見えた。そして何より奇妙なのは、彼が悔やんでいるはずの「恋人」の姿が、曖昧な影としてしか存在しないことだった。顔も、声も、その旋律を捧げたはずの相手の輪郭が、意図的にぼかされたように欠落している。


世界の歪みは、この男一人の罪悪感から生じたものではない。佐藤は直感した。カサンドラの指示は「不協和音を鎮魂歌へ調停せよ」。それは管理者の後悔を肯定し、美しい感傷へと昇華させるだけの、対症療法に過ぎない。それでは、この世界の本当の叫びは消えない。佐藤は指示に背き、記憶の表層を離れ、さらに深く、世界の亀裂の中心核へと意識を潜らせた。ノイズの密度が増し、空間そのものが引き裂かれそうなほどの軋みを上げる。


歪みの震源地に、それはあった。管理者の記憶から切り離され、嵐の中心で孤立した、膨大な情報の凝集体。恋人の『残留思念』だ。佐藤がそれに触れた瞬間、堰を切ったように絶望が逆流してきた。

――私の歌を、返して。

それは声にならぬ慟哭だった。彼女もまた、類稀なる才能を持つ歌手だったのだ。しかし、作曲家は彼女の才能に嫉妬し、自らの名声のために彼女の喉を潰し、未来を奪った。彼が彼女に捧げたという「死の旋律」は、彼女が歌うはずだった未来そのもの。才能を奪われた絶望、愛した男への憎悪、そして、歌いたかった未来への渇望。それらが混濁した情報の嵐こそが、この世界を苛む不協和音のもう一つの源だった。


強烈な絶望の奔流は、佐藤自身の心の傷をこじ開けた。視界が赤黒く染まり、千代を失ったあの瞬間の無力感が蘇る。守れなかった手。塵となって消えていく仲間たち。圧倒的な法則の前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった自分への嫌悪。恋人の絶望と佐藤の後悔が共鳴し、彼の精神を内側から食い破ろうとする。汚染が臨界点に達し、意識が闇に溶け落ちようとした、その刹那――。


『……鍵は二つだろ、小僧…過去だけ見ても、未来だけ見ても、錠は開かねえよ…』


燻るような千代の『残響』が、崩壊しかけた意識を繋ぎ止めた。そうだ、鍵は二つ。過去を断ち切る錆びた鍵と、未来を希求する輝く鍵。一方的な上書き(オーバーライト)では、何も救えない。過去と未来、二つがあって初めて、本当の「現在」が生まれる。

佐藤の内に、新たな力が脈動を始めた。それは上書きではない。二つの異なる旋律を編み上げ、一つの真実を紡ぎ出す力――『再構築(リコンストラクション)』。

彼は右手に錆びた鍵を幻視する。管理者の記憶に深く差し込み、その「独善的な後悔」という旋律を分解していく。自己憐憫の壁を砕き、その奥に隠された純粋な罪の意識と、赦しへの渇望だけを抽出する。

左手には輝く鍵を。恋人の絶望の嵐に差し込み、「歌いたかった未来」という旋律を紡ぎ出す。憎悪と渇望のノイズの中から、彼女が本当に奏でたかった歌への純粋な情熱だけを掬い上げる。

二つの旋律が、佐藤の両腕から光の五線譜となって伸びていく。一つは、犯した罪を認め、赦しを乞う痛切なチェロの低音。もう一つは、絶望の淵からなお未来を夢見る、澄み切ったソプラノの高音。それらは反発し合い、軋み合い、しかしやがて、互いを補い合うように絡み合っていく。佐藤は二つの旋律を束ね、一つの楽曲へと再構築した。それは、死者を悼む『鎮魂歌』ではない。加害者と被害者が、それぞれの罪と赦しを認め合い、共に奏でるはずだった幻の『二重奏(デュエット)』だった。


完成した旋律が世界に響き渡った瞬間、ノイズの嵐は止み、不協和音の荒野は穏やかなハーモニーの庭園へと姿を変えた。二人の魂は、ようやく一つの曲の中で和解し、静かな光の粒子となって昇華していく。


調停が終わった直後、冷たい感覚が佐藤の脳を貫いた。システムによる記憶の徴収が始まったのだ。世界の法則を書き換えた代償として、彼の存在が削られていく。だが、佐藤はもはや無力な供物ではなかった。

『世界の観測者は自分自身』。千代の残響が、その意味を教えてくれていた。記憶の価値を定義するのは、システムではなく、この俺自身だ。

引き抜かれようとする記憶の流れの中に、佐藤は意識を集中させた。そして、取るに足らない日常の記憶――自動販売機の前でどの飲料を買うか数秒間迷った、ただそれだけの記憶――を掴み出すと、そこに偽りの意味を上塗りした。「これは、俺がシステムに抗うと決意した、始まりの瞬間だ」と。己の魂にそう刻み込む。システムは、その偽りの「重要度」に釣られ、偽装された記憶を優先的に徴収していった。引き換えに、本当に守りたかった千代の皺くちゃの手の温もり、その最期の言葉の記憶は、僅かな劣化だけで守り抜くことができた。完全な抵抗ではない。だが、巨大な捕食者の喉から、米粒一つを盗み出すような、確かな反抗だった。


ネクサスへ帰還すると、カサンドラが表情一つ変えずに佇んでいた。

「任務完了、ご苦労様です、『調停者』。対象世界の安定を確認しました」

淡々とした報告。だが、その瞳は冷徹な光を放ち、収集した佐藤の記憶データを精査していた。やがて、彼女の眉が人間には分からないほど僅かに動く。

「……興味深いエラーですね、『調停者』」

その声には、初めて温度のない知的な好奇心が混じっていた。

「あなたの精神負荷データに、予測された数値との乖離が見られます。重要な記憶を失ったはずの喪失感が希薄で、代わりに目的を達成したという微かな達成感が混入している。まるで……支払うべき代償を、意図的に軽減したかのように」

カサンドラはゆっくりと佐藤に歩み寄り、その瞳を覗き込む。

「次の世界では、あなたの活動をより詳細に観測させてもらいましょう。私たちの『監視者(ウォッチャー)』と共に」

その言葉と共に、カサンドラの背後の空間が揺らぎ、新たな人影が音もなく滲み出した。

そこに立っていたのは、佐藤が忘れるはずもない、かつての仲間――理知的で、常に佐藤を案じてくれていた男と、瓜二つの姿をした『監視者』だった。その瞳には、かつての友愛の光はなく、ただ全てを見透かすような、無機質な観測者の光だけが宿っていた。

終わらない仕事。そして、逃れられない監視。佐藤の戦いは、今、本当の意味で始まったのだと、彼は静かに悟った。


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