第4話【ネクサス・アルビテル】
門は、沈黙のまま開かれていく。それは希望への扉でも、絶望への入り口でもなかった。ただ純粋な、人間の理解を超えた「現象」として、そこにあった。軋む音はしない。だが、佐藤の魂の根幹が悲鳴を上げた。空間そのものが引き伸ばされ、既知の物理法則が意味を失っていく感覚。彼は抗うこともできず、まるで巨大な捕食者の喉奥へと吸い込まれるように、光と闇が混在する裂け目の中へと引きずり込まれていった。
目眩にも似た浮遊感の後、佐藤の足は再び硬質な床を踏みしめていた。だが、そこは彼が知るいかなる場所とも異なっていた。
無限に広がる、黒曜石のような空間。上下左右の感覚は曖昧で、足元にはガラス質の大地が広がり、その遥か深層には、まるで天の川を凝縮したかのような無数の光点が明滅している。一つ一つの光が、おそらくは誰かの「佐藤」が囚われた記憶の実験場なのだろう。それらは光の神経線維で結ばれ、さながら巨大な脳髄のシナプスのように、あるいはガラス細工で編まれた銀河のように、荘厳な沈黙の中で脈動していた。ここは、神の不在を証明するためだけに創られた、巨大な聖堂のようだった。
「ようこそ、『ネクサス』へ。全ての記憶世界を統べる中枢です」
声は、背後からした。振り返るまでもなく、それが誰であるかは分かっていた。案内人――いや、今はその名を捨てた少女が、何もない空間から滲み出すように立っている。その表情は能面のように変わらないが、瞳の奥に宿る光は、以前とは比較にならないほど冷徹で、知性的だった。
「ここが……世界の本当の姿だというのか」
「いいえ。ここは『現実』を観測し、管理するための上位次元。あなたたちが『現実』と呼んでいた世界もまた、このネクサスに接続された、最大規模の実験場に過ぎません」
少女――ガイドAI『カサンドラ』は、淡々と告げた。その言葉の一つ一つが、佐藤の精神に重くのしかかる。悪夢を終わらせたはずだった。だが、見ていたのは悪夢の中の、さらに浅い階層の夢に過ぎなかったのだ。
「ふざけるな……。俺は、あの場所から解放されたはずだ」
怒りが込み上げる。だが、その感情すら、この絶対的な空間においては空虚に響くだけだった。カサンドラは僅かに首を傾げる。それは疑問ではなく、壊れた玩具を観察するような無機質な仕草だった。
「誤解です、『調停者』。あなたは解放されたのではありません。役割が更新されたのです。旧システムの崩壊トリガーとなったあなたの『綻び』は、不安定な記憶世界を正常化させるための、唯一無二の鍵となりました」
「調停者、だと?」
「はい。このネクサスには、あなたが見てきた世界以外にも、無数の実験場が存在します。その多くは管理者の精神汚染により、崩壊の危機に瀕している。あなたの力――『オーバーライト』は、彼らの歪んだ記憶を正常な形に『調停』し、システム全体を安定させるために必要不可欠です」
カサンドラはゆっくりと佐藤に歩み寄り、その顔を覗き込んだ。人形のように整った顔に、支配者の威圧が滲む。
「これは命令です。あなたはこれから、我々の指示に従い、各世界を調停する。それが、あなたの新たな存在意義となります」
佐藤は掌を強く握りしめた。二つの鍵は、いつの間にか彼の手に戻っていた。未来を希求する輝く鍵と、過去を断ち切る錆びた鍵。だが、この無限の牢獄において、それらが示す未来や過去に何の意味があるというのか。
「断ったら?」
絞り出した声は、自分でも驚くほど乾いていた。
「拒否権はありません」カサンドラの答えは即答だった。「あなたの存在定義は、既に『調停者』として固定されています。その役割を放棄するということは、自身の存在基盤を否定することに等しい。システムはあなたを矛盾したバグと判断し、存在論的消去を実行するだけです」
消去。それは死よりも根源的な、無への還元。千代や仲間たちが塵となって消えた、あの光景が脳裏をよぎる。あの無慈悲な法則が、今度は自分に向けられている。絶望が再び、彼の心を黒く塗りつぶそうとした。その時だった。
脳の片隅で、雑音が走った。燻したような、懐かしい声が一瞬だけ響く。
『……小僧、まだ膝をつく時じゃねえよ……』
千代の声? 馬鹿な、彼女はもういない。幻聴だ。だが、その声と共に、強張っていた指先に、皺だらけの老婆の手の温かい感触が一瞬だけ蘇ったような気がした。ほんの僅かな違和感。それが、奈落の底に落ちかけていた佐藤の意識を、辛うじて繋ぎ止めた。
彼は顔を上げた。瞳には、絶望に屈しない、微かな反抗の光が宿っていた。
「……分かった。やればいいんだろう」
「賢明な判断です」
カサンドラは満足げに頷くと、指先一つで目の前の空間に映像を投影した。そこには、絶えず形を変える音波のような波形と、耳障りなノイズに満ちた荒野が映し出されている。
「最初の任務です。ワールドID: J-774。キーコンセプトは『音響共鳴』。管理者はかつて、自らが作曲した音楽で恋人を死に追いやったという罪悪感に苛まれています。その精神汚染が臨界点に達し、世界そのものが不協和音となって崩壊を始めています」
情報が、佐藤の脳に直接流れ込んでくる。悲鳴のような弦楽器の音、恋人の絶望した顔、そして世界を覆う致命的なノイズ。
「あなたの役目は、管理者の記憶に介入し、罪悪感のコアとなっている『不協和音』を、鎮魂歌(レクイエム)へと調停すること。成功すれば、あなたは自身の記憶の一部を対価として差し出し、このネクサスへ帰還します」
「記憶を、失うだと……?」
「調整とは等価交換です。世界の法則を書き換えるのですから、相応のコストが必要となります。ご安心ください。任務遂行に不要な、個人的な記憶から優先的に消費されます」
それは、戦うたびに自分が自分でなくなっていくことを意味していた。あまりにも残酷な代償。だが、佐藤に選択の余地はなかった。カサンドラがそっと彼の背中に手を触れる。その瞬間、彼の足元のガラスの大地が液状化し、奈落へと続く渦を巻き始めた。
「さあ、お行きなさい、私たちの『調停者』。あなたのための、終わらない仕事の始まりです」
抗う術もなく、佐藤の身体は音の世界へと引きずり込まれていく。遠ざかる意識の中、彼はただ、先ほど感じた老婆の温もりと、心の奥底で燻り続ける小さな熾火だけを、確かに握りしめていた。
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