書かなければ、死

クソプライベート

デッドライン

白いページが、青井樹を嘲笑っていた。一行も、一文字も、浮かばない。スランプだった。

『先生、例の件、明日の正午が最終デッドラインです。お待ちしてますからね』

 編集者・赤坂の、温度のない声が耳に残る。電話を切った瞬間、部屋の空気が変わった。書斎の隅、影が人の形に凝縮し、黒いトレンチコートの男が音もなく立っていた。

「……誰だ」

.男はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、感情というものが一切存在しなかった。

「お前の命(タマ)、もらいにきた」

 男の手には、古びた砂時計。彼はそれを逆さまにすると、静かに言った。

「俺の名は、“締め切り”。この砂が落ちきる前に、物語を完結させろ。できなければ、お前は“未完”として、この世から消える」

 逃げた。アパートを飛び出し、雑踏に紛れ込む。だが、無意味だった。カフェでコーヒーを飲めば、隣の席で新聞を読んでおり、タクシーに乗れば、バックミラーにその姿が映っている。

「なぜ追ってくる!」

「追ってはいない。俺は常に、お前と共にある」

 締め切りは淡々と答えた。「お前を殺すのは、俺じゃない。お前自身の“空白”だ」

 追い詰められた青井は、自室に戻り、PCの前に座った。逃げられないなら、戦うしかない。彼は、書きかけのミステリー小説を開いた。主人公の探偵が追う、謎の連続殺人鬼。その殺人鬼に、名前を与えた。

 ――“締め切り”。

 カタカタと、キーボードを叩く。小説の中で、探偵が殺人鬼を追い詰める。すると、現実の締め切りが、わずかに眉をひそめた。小説の中で、探偵が罠にはまる。すると、現実の締め切りが、一歩、青井に近づいた。

 現実と物語が、シンクロを始める。これは、俺自身の物語だ。俺が終わらせるしかない。

 窓の外が白み始める。砂時計の砂は、残りわずか。

 小説は、クライマックスを迎えていた。廃工場、探偵と殺人鬼の一騎打ち。青井の指は、猛烈な速度でキーを叩き続ける。トリック、動機、犯人の最後の告白。全ての伏線が、一本の線に収束していく。

 締め切りは、音もなく青井の背後に立っていた。冷たい銃口のような気配が、首筋を撫でる。

 だが、青井はもう恐れていなかった。

 彼は、最後の行を打ち込む。

『――こうして、事件は幕を閉じた。』

 そして、エンターキーを、強く、叩きつけた。

 画面の右下に、白い明朝体で「完」の文字が浮かび上がる。

 ふっと、背後の気配が消えた。振り返ると、そこには誰もいない。ただ、机の上に置かれた砂時計の砂が、最後の一粒を静かに落としただけだった。

 朝日が、完成した原稿を照らしていた。

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