第五話「三毛猫と金魚」
住宅街が茜色に染まる。烏が巣へ帰っていく中、小学生が一人わき目も振らず走っていた。その後ろには黒く蠢く大きな影が幾重にも重なり、小学生の男の子を捕まえようとその影を伸ばしながら追いかけている。
小学生の名前は
彼がなぜ追いかけられているかというと、ただ塀と電信柱の間を通っただけである。ただそのだけが、この世ならざらぬ世界に入るトリガーになっていたらしい。
直人もすぐに気が付いた。不自然に周囲の音が消え、空は変に赤く、ぞわぞわと背後から嫌な気配がしたからだ。そこから終わりの見えない追いかけっこが始まった。いくら走っても距離が離れることはなく、まして人には体力の限界がある。息も絶え絶えになり足がもつれそうになったころ、それが目に入った。
少し開けた広場。そこにあるのは、昔ながらの移動式屋台である。暖簾には飴屋と書かれているが、直人はそれがなんなのか分からないまま駆け寄った。
「らっしゃい坊っちゃん。美味しい飴はご入用かぃ?」
屋台にいたのは猫であった。恰幅のいい三毛猫が二足歩行で人語を話している。声からして雄であろう。
「ぜぇっ……はぁっ、あの、ぼ、ぼくっ、ぁ……」
直人は膝に手を付き、一生懸命に息を整えようとしていたが、飲み込み切れなかった唾液がこぼれ落ちる。しばらく話すことは出来ないだろう。
「あれまぁ、随分と大所帯で来られたもんでさぁ」
背後からバチィ‼という大きな音が聞こえた。ちらりと後ろを見ると追いかけていた影が見えない壁にぶつかったように潰れていた。
「ふん、そいつに阻まれたんならおめぇさんは客じゃねぇな。さっさと帰ぇんな」
三毛猫はふとましい腕を組み吐き捨てるとのそりと影の正面に出てきた。そのまま二つに分かれた太い尾を影に向けて振り下ろした。すると影は、まるで初めから何もなかったかのように霧散した。
「そんで坊っちゃんは…ん、この匂い。この狗いぬ臭ぇ匂いはっ!」
三毛猫は直人に向き直ると何かに気づき、ふんふんと顔を近づけ匂いを嗅ぐと目を見開き、口をカパッと開ける。それはフレーメン反応であったが、直人には伝わらなかった。
「ぼ、坊っちゃんも人が悪いですぜ。
モフモフのクリームパンみたいな手を揉み手しながら、媚びるように話しかける猫は少し焦っているようにも見える。
狸の旦那と言われ、直人は誰の事かと考え、もしかしてと浮かんだ一人のことかと聞いてみる。
「おじさんを知ってるの?」
「知ってるも何も、狸の旦那はここら辺の元締めですぜぇ?ああ、そういや人間の子供がどうのって前に言ってたような?坊っちゃんの事だったんですねぇ」
「あ、あの、僕ここにまちがえて入っちゃって」
「おや、そうなんですかぃ。まぁ、坊っちゃんがふらりとここに来ちまったら、あっという間に食われちまいやすからねぇ」
ふぅむと考える仕草をした後、ぽふんと豊かな胸毛を手で叩くと直人に得意げに笑いかけた。
「あっしに任せてくだせぇ。無事に坊っちゃんを狸の旦那の元へ届けますぜぇ」
そういうと屋台に戻り、透明な飴を棒の先に取り付け捏ねたり、鋏を入れたりしながら形を作ってい行く。不思議なことに毛は一切付かないようで、猫の手でありながら随分と器用に形を作っていく。
直人が感嘆の声を上げながら見ていれば、それは見る見るうちに金魚の姿となり、形が出来上がると今度は絵筆を取り出して色を付けていく。
「絵具?」
「絵具なんて使ったら食えねぇでしょお。そんなもったいねぇことできやせんぜぇ。こいつぁ食紅っつう食べれるやつでさぁ」
「ネコさん上手だね」
「こいつでおまんま食ってるんでねぇ。おっといけねぇ、あっしは三毛猫の
「僕は狐塚直人」
「
にゃはにゃはと笑いながら手は休むことなく色鮮やかな金魚が出来上がった。
朱色の体に白が入り、尾びれが四つあるためリボンの様に見える。泳いでるようにくねらせたヒレが今にも動き出しそうな見事な出来だ。
それを金魚すくいの時に入れるビニールの巾着に入れると、紐で吊っているわけでもないのに空中で停止していた。
「はいよ、坊っちゃん。この金魚が向く方へ歩きゃ旦那の所へたどり着けますよ」
「あ、ありがと。でも、ぼくお金持ってない」
「にゃははははは!坊っちゃんからお代を頂こうなんて思ってませんぜぇ。」
文三は、笑いが後を引かないようでひぃひぃ言いながら涙まで浮かべていた。一頻り笑ったあと、直人に内緒話をするように耳打ちをする。
「お礼なら、狸の旦那にあっしの事をちゃ~んと伝えてくだせぇ。三毛猫の文三が手助けしたってさぁ」
「うん、分かった!ありがとう、文三さん!」
「坊っちゃんは良い子ですねぇ。このまま大きくなってくだせぇよ」
直人は文三に見送られながら、広場から出る。直人が見えなくなるまで手を振ってくれた文三はもう見えない。これから先は、貰った金魚の飴が頼りだ。
飴を前方に掲げながらテクテクと歩いて行くと、金魚が右に向いた。
「こっちに行けばいいのかな」
どの道も同じに見える直人は、文三を信じ金魚の向く方へ進む。いくつの角を曲がったか分からない。歩き通しで疲れが見え始めたころ、急に目的地だった伯父の家が現われた。疲れていたとて、ほぼ毎日のように通ってきていたのだ。当然道は覚えているし、今まで通ってきた道は全く見覚えがなかったと記憶している。忽然と姿を現した伯父の家に、疑念が宿る。もしかしたら、騙されているのではと。そう疑いを持ちそうになるほど、直人は不可思議な現象に遭遇してきていたのだ。
しかし、疑念はすぐに立ち消えることになる。なぜなら、玄関のドアから件の伯父が出てきたからだ。
「おじさん!!!」
たまらず駆け出し、足元に抱きついた直人を伯父である
「直くん、今日はずいぶん遅かったじゃねぇか」
そう言いながら、頭をぽんと優しく撫でられ、緩んでいた涙腺が決壊した。
「う、うわぁああああああん」
「え、ちょ、直人?!と、とりあえず家入るぞ」
健五は、直人を抱き上げると慌てて家に入る。
来客用のソファーに直人を抱いたまま座り、必死に宥める。
「よーしよしよしよし、どうした~、何があったかおじさんに言えるか~?」
「ひっ、ひっ、あの、ね」
「うんうん、ゆっくりでいいからな~」
背中を撫でながらゆっくりでいいと促せば、しゃくり上げながらポツポツと
零していく。聞きづらい言葉をかき集めて頭の中で纏めた健五は、ははぁと顎を撫でる。
「そいつは大変だったな。そうか迷い込んじまったか」
「おじさん、あれはなんだったの?」
「あれか、あれはなぁ。この世の隣にあるお化けたちの世界ってやつだな。直くんを追いかけてくるような奴もいつもはそこにいるんだ」
「そうなんだ……」
「でも隣にあるからあいつらは気軽にこっちに来れるし、こっちも行けたりする。境界をくぐっちまえばな。今回の直くんは、くぐっちまったって訳だ」
「きょうかいって?」
「直くんが通ったような、普通は通らない場所とかだな」
「今度からちゃんと道を通って帰る」
「よしよし、そうしような。さて、おやつ食べるか?持ってきてやろうな」
そう言って立ち上がり、お菓子を取りに二階へ上がる。
「文三のお礼どうするかなぁ。猫缶じゃダメかぁ?」
頭を掻きながら独り言ちた。
狐狗狸怪異奇譚 みどりのねこ文庫 @midorinoneko_bunko
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