第四話「狗と犬」

犬も歩けば棒に当たるとは申しますが、犬と棒が出会うのは果たして運命なのか。いささか疑問な気も致します。

 かくいう私は人派…え?猫でも犬でもないじゃないかって?そんなことはございません!ただ、犬猫よりも人様のことが大ぁ好きなだけでございます。

 本日はそんな犬にまつわるお話を一つさせていただきます。


***


 出番が終わり、楽屋へ引っ込んできた駆け出しの落語家、犬飼邦治郎いぬかいほうじろうは先輩方に挨拶をして早々に引き上げる。

 いつもなら世間話の一つや二つや三つ、それはもうマシンガンのようにくっちゃべり、諸先輩方から若干ウザがられるほどの人懐こさを発揮するのがこの犬飼という男だ。

 しかし。ここ数日は自分の出番が終わるとそそくさと帰ってしまう。先輩方がやれ恋人ができたのかや病気なのかと探りを入れてみたが、どうやらそう言うわけではなさそうで。

 本人はしきりに周りを気にしながら


「近くに『真っ赤な犬』がいなかったか」

 

と聞くことが多くなった。

 本人は理由を話す気がないのか、真相はついぞわからない。

 しかし、この町は何かと奇怪な噂が絶えない土地だ。

 先輩方は、かわいい後輩の犬飼が厄介ごとに巻き込まれていないことを願うしかできないのである。


***


「それで?どうしようもなくなって俺に相談しに来たのか」


 犬飼の前で、古ぼけたソファに深く腰掛け煙草をくゆらせながらけだるそうに聞く中年男性は、口で転がした煙をため息とともに吐き出す。


「そうなんすよ…ここ最近ずっと誰かの視線を感じてて。おっさんなら何か分かるんじゃねーかなって思ってさ!」


 犬飼は煙草の煙を眉をしかめて手で払いながら向かい側のソファに座っている。

 おっさんと呼ばれた男…狸森健吾むじなもりけんごはめんどくさそうに煙草を灰皿に置いた。


「で、今はどうなんだ?視線を感じるのか」


 狸森に聞かれてハッとした犬飼はきょろきょろと周りを見渡す。そして大きく目を開いて目の前の人物を見た。


「えっなんで、唸り声も聞こえないし…おっさん何したの?」


 興奮気味に前のめりになって近づく犬飼を手で押し戻しながら、狸森はため息を吐く。


「ったく、いちいち近いんだよ。そこのタバコだ」

「…これだけ?でも、楽屋でもタバコ吸ってる人いましたけど、効果なかったっすよ」


 不思議そうに灰皿を覗き込む犬飼の前で、半分ほど短くなった手巻きの煙草を取ってまた吸った。


「これは普通の煙草じゃない。獣除けの薬草が混ざってるんだが、これで効果があるってことは…何らかの獣に憑かれてるってことだな」


 煙越しに鋭い視線を向ける狸森を、きょとんとしたまま首をかしげる犬飼は心当たりがないようだ。


「心当たりないのか?」

「っすね…」

「いやいや何かあるだろ。動物の死骸を憐れんだとかいじめたとか」


 思いつくことを並べる狸森を、犬飼はぎょっとして反論する。


「ちょっと!憐れんだならまだしも、いじめるわけないじゃないですか!そんなことしたら破門ですよ破門!」


 まくしたてるように声を荒げる犬飼に、狸森は煙草を吸って煙を吐きかける。大量の煙に噎せ込んでいる犬飼を横目に立ち上がり、応接室のすぐ傍にあるたんすの引き出しを漁る。


「うるせぇなぁ少しは落ち着いたらどうだ。俺の見立てだがお前は獣憑きになってる」

「獣憑きにも種類はあってな。狐憑き、狗神いぬがみ憑き、タヌキやイタチに猫…例をあげたらキリがない。対処法を間違えれば余計にややこしくなるもんだから迂闊に手が出せない」


 狸森は説明をしながらいくつかの箱や巻物を取り出して机の上に置く。巻物を広げれば、中には歴史を感じる挿絵と犬飼は読めないミミズのような字がびっしりと書かれていた。

 狸森はその文字を指でなぞりながらブツブツとつぶやく


「お前の話によると、獣の唸り声に四六時中感じる視線、そして真っ赤な犬。―――恐らく狗神の一種だと思う」

「ついでだから狗神の呪いについても説明してやる」

「うっす」


 犬飼は素直に頷いて姿勢を正す。その様子に満足そうにうなずいて狸森は説明を続ける。


「狗神って言うのは名前に神と付いているが神様ってわけじゃない。どちらかというと荒魂を沈める意味合いとして名付けられている」

「この呪いをつくるには、飢えた犬を首から上だけを出した状態で土に埋める。んで、届かないギリギリの位置に餌を置く。犬が餌欲しさに首を必死に伸ばしてちぎれそうなときに、刀で区部を斬りおとす。そうすれば呪いの完成だ」


 あまりにも凄惨な方法に犬飼は顔を顰める。しかし、狸森はあえて無視して細く切られた半紙を取り出して、さらさらと何かを書き連ねる。


「ちなみにこの呪いは対象を殺すまで終わらない。それにこの国は呪いを裁く法律はないからな。完全犯罪の完成…まぁ、それなりの才能と知識と実力が必要だが」


 そう言うと何かを描き終わった紙をさらに細く折りたたむと、先程持ってきた箱を開く。そこには干し肉のような肉片が鎮座していた。狸森は紙をそれに巻き付けて机の上に置く。

 と、犬飼がソワソワと何かを言いたそうにしている。狸森は大きなため息をついて話を促した。


「あのあの!そのジャーキーみたいなのって何?それとさっき紙になんて書いたの?あと、おっさんってやっぱりさっき言ってた実力とか才能とかあるの?」


 矢継ぎ早に聞く様子に、頭をかいて面倒そうに口を開いた。


「これはお前の身代わりの肉片、この紙にはお前に関する情報が書かれている。紙は特別な和紙になっていて、神事に使われた紙やそのほか縁起物を溶かして作って紙にしたものだ。全部を詳しく説明はできない。世の中は知らないほうがいいこともあるからな、詮索するなよ」

「うっす…」

「さて、これで身代わりは完成した。あとはお前自身を隠す方法なんだが」


 そう言うと自身の手に何かを描きつけ、べちんと犬飼の額に押し付ける。


「ふぎゃ!」

「いいか、今からおでこ擦るなよ。今お前の額にまじないを掛けた。これで狗神からお前を見つけにくくなってるはずだ」

「え、まじ?おっさんスゲー!」


 羨望のまなざしを払うように手をパタパタと動かして言葉を続ける。


「すごくない。これはあくまで我流だし、ある事情で陰陽師や正規の術者がする方法より危険な方法になる」

「俺だって本当は正しい手順で退けるのが一番なんだが、そうはいかない事情があるからな」

「そっかぁ…。おっさんも色々あるんだね」


 その言葉には肩をすくめるだけにとどめた狸森は、続けて犬飼にこの後の手順を説明する。犬飼は最初こそあっけにとられていたが、次第に表情が引き締まっていく。


「―――以上だ。分からない所はあるか?」

「ううん。俺は大丈夫だけど…おっさんの負担がヤバくない?」


 その言葉にはなんだそんなことかと首を傾げる。


「この方法が俺ができる最良の方法ってだけだ。なぁに、依頼料は代わりにたんまりもらうからな」

「げ…。おっさん~!駆け出し落語家の足元みるなよぉ」


 よよよ、とわざとらしくしょぼくれる犬飼に、狸森は乾いた笑いをして口角を上げる。


「下手な眉唾霊媒師に金積むよりは安くしておいてやるよ。それに命あってのなんたらともいうだろ?これから出世して頑張ればいいじゃねぇか」


 そう言いながら犬飼の頭をわしゃわしゃと撫でる。犬飼は撫でられながら判読不能な文句を言っていたが、されるがままになっている。


「それじゃぁ、一回帰って必要なもの持って今夜はうちに泊まれ。部屋は開けておくから、飯は自分で準備しろよ」


「はー?一人暮らしなめんなし、おっさんの分も作っててやるよ!」

「…終わったら食ってやる」

「約束だかんな!」


 元気の有り余る様子にポリポリと頬を描いた狸森は「さっさと行け」と犬飼を追い払うように急かし、胸ポケットからいつも吸っている紙煙草に火をつけた。


「さて、こっちも準備するか」


 紫煙を吐き、立ち上がると納戸の方に歩いて行った。


***


 赤い獣は闇を駆ける。

 癒えない飢餓感と憎しみで埋め尽くされた思考は、ただ一人を殺すことでしかこの苦しみから解放されないと訴えている。

 においで気配で魂で、その人間を追う。あと少し、もう少しで喰い殺せる。

 その首に牙を突き立てなければ。


***


 狸森は深夜の公園に立っていた。郊外の公園は彼以外の人影はなく、夜特有の冷たい風が吹いている。

 ふと、鉄のにおいが混ざった風が彼の鼻をかすめた。


「来たか」


 狸森は神経を研ぎ澄ませ、手に持った和紙に包まれた肉片を構える。

 瞬間、闇の中から赤黒い獣が顎を開いて狸森の背後から襲い掛かる。

 その牙が狸森の首に突き立てられようとしたとき、獣は何かにはじかれるように吹き飛ばされた。

 狸森は首をさすりながら振り向き、震えた息を吐く。


「あ…っぶねぇ。今ばかりはこの体質に感謝しないとな…」


 獣はうなりを上げながら起き上がる。虚のように真っ黒な瞳孔には怒りや憎しみが渦巻き、とめどなく赤い血を流している。

 狸森は眉尻を下げて獣を見つめる。


「そうだよな…苦しいよな。今解放してやるから」


 獣は断末魔のような叫び声をあげて、狸森にとびかかる。間一髪のところで致命傷を避けながら、何度かの攻防の末に狸森の腕ごと獣の口に肉片をねじ込むことができた。

 獣は狸森の腕を噛みながら涎のように血を流している。


「いい子だ…。良い子だからそのまま飲み込んでくれよ…」


 狸森は祈るように呟き、さらに腕を入れこむ。獣の喉が動き、肉片を飲み込んだ。すると獣の唸り声がやむ。噛む力が弱まった所を見計らって彼は腕を引き抜いた。

 赤黒い獣がぼんやりと光りはじめる。体を覆っていた赤黒い血が消え去り、クリーム色の滑らかな体毛が風になびく。虚空だった眼光にはくりっとした黒い瞳が現れ、嬉しそうにふわふわの巻き尾をプロペラのように振り回している。

 その様子を見て狸森は笑みを深める。ずたずたになっている腕を持ってきていたタオルとビニールひもでグルグル巻きにして、ぼんやりと光っている犬を撫でた。


「なんだ、俺に尻尾を振ってくれるのか?ほんとにいい子だな。次はいい飼い主の所に行くんだぞ」


 柴犬は、ワンと返事をすると狸森の手を舐めて光の粒子となって消えて行った。


 再び公園に暗い静寂が訪れる。狸森は風呂敷を広げて、足元に落ちていた小さな頭蓋骨を拾い上げると丁寧に包んだ。


「帰るか…」


白み始めた空を背に、公園を後にした。


***


 通行人にバレないように人の少ない道を選びながら帰っていたら、いつの間にか空に太陽は登って小鳥が朝の歌を奏でていた。

 まだ眠っているのかもしれないと静かに古民家の扉を開ける。

 しかし、扉の開く音を聞きつけたのか応接室兼今の方からドタドタと騒がしい足音が狸森を迎えた。


「おっさん!大丈…どわーっ!きゅ、救急車!」


 ラフなスウェット姿の犬飼が狐森の腕を見て悲鳴を上げる。狸森は小上がりに座りながら靴を脱ぐ。


「うるせーなぁ。早起きすぎるだろ」

「何言ってんの?ねてねーし!おっさんが命かけてるのに寝れるわけなくない?あ、それとさ」


 と、何かを思い出したかのように踵を返してバタバタと応接室へ戻り、タオルに包まれた何かを大事そうに抱えて持ってくる。

 ようやく片手で靴を脱いだ狸森は怪訝そうな顔をして首をかしげる。


「なんだ、それ」


 犬飼はにんまり笑うとタオルをめくる。そこにはちんまりとした仔犬が収まっていた。仔犬は狸森をじっと見つめると、小さな巻き尾をぷりぷりと振りながら「きゃん!」と鳴いた。

 狸森は、見覚えがある姿に目を見開き数秒固まってから、無事な方の手で仔犬を撫でた。


「お前、良い飼い主っていっただろ。コイツの所いっても貧乏するだけだぞ」


 撫でまわされている仔犬はフスフスと鼻息を荒くしながら狸森の手にぐいぐいと頭を押し付けている。

 その様子を見ていた犬飼は心外と唇を尖らせて文句を連ねる。


「ンだよ失礼な!…つってもまぁ確かに俺の住んでるアパートはペット禁止だから無理だけど」

「ってか、この家に来てたんだからおっさん家の子になりたいんじゃない?おっさんが帰ってくるちょっと前に、玄関の方で鳴き声がするから見てみたらコイツがいてさ。さっきまで玄関の前から動かなかったから『おっさん帰ってくるの時間かかりそうだから、中で待ってようぜ』って声掛けたら大人しく入ってきたんだ!。お前あたまいいよなぁちびすけ」

「きゃふ!」


 声をかけられた仔犬は空中をかいて狸森にだっこをせがんでいる。


「なっ…、よりにもよって俺だって?うそだろ…」


 そう言っている間も仔犬はくぅんと鳴きながらしゃかしゃかと前足をかく。


「せっかくだしだっこしてみなよ。俺救急箱とってくるから」


そう言いながらタオルを押し付ける。慌てて無事な腕で抱き上げた狸森の手を仔犬はぺろぺろと舐め始めた。


「あっおい、汚いからやめろって…。い、犬飼…!早く戻ってきてくれ!」


 狸森が泣き言を言っていると、救急箱を抱えた犬飼が戻ってくる。


「ほら、めっちゃおっさんに懐いてるじゃん!それにココ持ち家なんだろ?飼っちゃダメなのか?」


 首を傾げながら雑な応急処置をしている腕に顔を顰めて慎重に手当てを始める。


「いや、なんで俺が飼わないといけないんだ。別に俺は飼うつもりなんてないぞ」


 その言葉に、仔犬と犬飼がシンクロするように揃って狸森を上目遣いで見つめる。


「えっおっさんはこんなか弱いちびすけを路頭に迷わせるのか?」

「きゅぅん…」

「ほら、ちびすけもお願いって顔してるぜ」

「きゃん!」


 ピーピーと鼻を鳴らしながら擦り寄る仔犬と、似たような顔をしている気がする犬飼の圧に、渋い表情をしていた狸森は今日一番の大きなため息を吐いた。


「あぁもう、わかったよ!ただし、里親が見つかるまで預かるだけだからな!これならいいだろ!」


 やけくそに言い放つと、犬飼はガッツポーズをして、仔犬はちぎれんばかりに尾を振った。


「よかったなちびすけ!」

「きゃん!」


 盛り上がる二人を見ながら狸森は大きなため息をついた。



 それから、病院が開く時間になってから怪我の治療に行き、三日ほど発熱した後に、甥っ子である狐塚がすっかりくつろいでいる仔犬と出会うことになるのだが、それはまた別のお話。


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