第三話「堕ち神と魔女」
まだ梅雨の時期で、正直に言うと引越しには適してなかったんですけど、どうしても引っ越さなくてはいけなくて雨の中強行しました。
引越し先は、再開発したS県のS市のOです。その時に建てられたマンションなので築5年です。とても綺麗なんですが家賃が相場より安いんです。それが決め手で引っ越しました。
7階建ての6階に引っ越したんですけど、上の階は全て空いてて、私の階も空き部屋があるくらいには人が居なくて、でも、たまたまかなって思ったんです。というか、当時はバタバタしててそれどころじゃなくて、落ち着いてからそう思ったんですけど。
それで、落ち着いてからおかしいなって思うことが起きてきて、梅雨明けしてから視線を感じるようになって。でも、一人暮らしですしおかしいじゃないですか。ストーカー被害とかでカメラが仕掛けられてるという話を見たことがあって、ストーカーとかないとは思うんですけど、念の為探したんです。もちろん、見つかりませんでした。視線は相変わらず感じます。
あとベランダがあるんですけど、そちらの大きな窓によく鳥がぶつかって死んでるんです。ベランダから山が見えるんで、そこから飛んできてるんだと思うんですけど、だからベランダに洗濯物が干せなくて。だって晴れた日にばかり死んでるんです。種類も大きさも様々で、羽と血で汚れるし最悪です。それに嫌じゃないですか、鳥とはいえ死体を見るの。鳥よけの目玉みたいなやつぶら下げたりもしたんですけど、次の日には壊れてました。
そのうちに、蛇口を捻ったら茶色い水が流れてきて、鉄臭くて、血じゃないかと思っちゃって、慌てて管理人に電話しました。結局何もなくて、私の勘違いじゃないかって言われました。でも、その後も度々そういう事が起こるんです。
これって霊障ってやつだと思うんです。あのマンション呪われてて、だから入居者も少ないんじゃないかって、家賃が安いのもそれなんだって。
不動産屋に確認したんですけど、そんなことは無いって言われて、でも下の階に住んでる親切な人が7階では良くベランダからの飛び降りがあったって教えてもらったんです。でも遺書とかないから自殺とは言えなくてだから告知義務は無いそうで。だから、お祓いをして欲しくて、引っ越し出来たらいいんですけど、お金貯まってないし、とりあえず安心して暮らせるようにして欲しくて、お願いします。
こざっぱりしたワンピースを着た女は、一息にそこまで喋ると出されたお茶で喉を潤した。握りしめた手は微かに震えていて、緊張と恐怖が現れている。
女の正面にはおじさんと呼ばれても差し支えない年齢の冴えない男が座っていて、女の話を「へぇ」だの「はぁ」だの相槌をしながら聞いていた。
二人がいるのは掃除はされているが草臥れた居間で、ここは男の自宅兼事務所であった。
女が話し終わったのをみて、男は茶を一口飲み口を開いた。
「流石に現場を見なければ分かりませんが、できる限りの事はしましょう。お伺いしてもいい日は
それを聞いた女は、顔を上げ潤む瞳で男を見ると「有難うございます」と震える声を出し、日程を確認した。
男は、この話をそこまで深刻に考えてなかった。よくある地縛霊か何かだと思っていたし、なんなら甥っ子を連れて行こうと考えていた。
甥っ子は毎日のようにここに来ているので、たまには少し遠出した方が楽しかろうという気遣いだった。
後ほど、それを後悔する事になるとは知らず、ちょっとしたドライブだなと暢気に思っていた。
***
約束した当日、甥っ子を乗せたビートルは日光を跳ね返しながらちんたら走る。
まだ売っていたオマケ付きのグリコを甥っ子に与え、最近の流行りなど知らないので自分の青春時代の曲を適当に流していた。
もう懐メロと呼ぶのも烏滸がましい化石と称される年代特有のリズムは、いつ聴いても耳に馴染む。
聞いていた駐車場にビートルを停め、おっちら降りて見上げるマンションは、なるほど周りと比べたら真新しい。
しかし、車を走らせて思ったのは、マンションに近づくにつれ賑わいが無いことであった。
住宅が多い地域だとはいえこうも人の気配が薄くなることはあるまい。
これは嫌ぁな気がするぞと少し腕を擦る。
「おじさん」
これまで大人しかった甥っ子である直くんが口を開いた。
「ほんとにここに入るの?」
その顔はいささか青白く、怯えが見える。
「車で待ってるか?」
直くんは少し考えた後、「おじさんと一緒にいる」と俯きながら言った。
ははぁ、これは早く終わらせた方が良さそうだと、出しかけたタバコをポケットに押しとどめ、エレベーターへと向かった。
挨拶もそぞろに中に入り、問題のベランダをあるリビングに入った瞬間、それまで感じていた違和感は質量を伴った寒気となって襲ってきた。
毛穴から入り込むような底冷えする冷気と、足元から這ってくる毛虫のような嫌悪感は、敵意と言って相違ない。
咄嗟に、直くんを庇うように前に立った。
ベランダが見える広い窓一面の山。それから発せられているものだ。
「あぁ、こいつァ、不味いな。ほんとうに不味い」
口の中で転がすように呟いた言葉は、依頼人には聞こえなかったようだが、甥っ子には聞こえたようだ。
服の裾を引っ張ってきた甥っ子の不安そうな顔を見て、ベランダを見ないようにとしか言えなかった俺は、素早くカーテンを閉めた。
「ちぃーとばかし、厄介ですね。お祓いでどうにか出来るやつではありません。今すぐ引越しした方がいい」
「で、でも、引越し費用なんて」
「なら、引越し費用が出来るまでの間、何とか誤魔化せるように手段を講じましょう。少々お時間をいただきますが、なるべく早く用意します」
「……はい、よろしくお願いします」
依頼人の女性は不服そうだったが、俺の提案を受け入れた。直ぐにどうにかして欲しいのに、出来るのが引越しするまでの時間稼ぎなのだから、それも致し方ない。
しかし、ここまで厄介なものとは思わなかったし、これは俺以外の者でも同じことを言うだろう。
正直、どうにか出来るかどうかであれば、「出来る」と言えるが、それには長い年月がかかるし、その間に依頼人は亡くなるだろう。あと単純に割に合わない。仕事量と危険度に対し実入りが少なすぎる。
さっさと甥っ子を連れてビートルに乗った俺は、これからの算段を考えた。
行きは物見遊山だったんだが、帰りは怖いとはこの事だろうか。
「直くん、折り紙しようか」
帰ってくるなり、塩とハーブを混ぜた石鹸で念入りに手を洗い、全身にくまなく消臭剤を吹きかけ、2階にある自宅のソファに座るや否や、そう声をかけた。
「折り紙?」
ぱちくりとオウム返しする直くんに、近くにある引き出しから取り出した白い正方形の紙を渡す。
「ちょっと折り方が変わってるが、これはお守りだからな。覚えておいて損は無いだろ」
ゆっくりと一手順ずつ折って見せながら作っていくのは、人型の依代だ。身代わりになる。いくつか作らせ、肌身離さず持っているように伝える。寝る時も枕の下にでも入れておくようにと。
「おじさんが作ったの、ちょっと違うね。ぼくのは足があるけど、おじさんのまっすぐだ」
「俺が作ったのは、直くんのとはする事が違うからな。見てな」
自分の作った偵察用の人型にフゥと煙を吹きかけると、人型はふわりと浮いて、直くんの目の前で宙返りをしてみせた。
「え、わっ、すごい、すごいねおじさん!」
目を輝かせる直くんは可愛いが、早速人型には仕事をしてもらわなければならない。
残りの人型も同じように浮かせ、目的地まで飛んで行かせた。
「行っちゃった」
「あいつらにはお仕事してもらいに行ったんだ。今回のは、あんまり見つかるとダメなやつだから」
「ちょっと分かるかも。なんかすごくこわいのが、近くでさがしてるような。かくれんぼみたいにしずかにしてなきゃって思った」
「そうだな。アレはいつでも探してて、目的のものじゃなくても見つけたら逃がさない。そういうのになっちまってる」
「あの女の人、だいじょうぶ?」
「んー、頑張ってみるけどなァ。こればっかりは、色々協力してもらってなんとかって感じか」
「協力?」
「そうだ、今日は日が悪いから」
ちらっとカレンダーを確認し、星の並びと活発になる気の流れを思い出しながらタイミングの良い日を考える。
「明明後日がいいだろうな。直くんも来るか?」
「うん」
***
あの日から3日経ち、男は物置にしている部屋の前に立っていた。
「おじさん、出かけるならこっちじゃないよ?」
「今から行くところは、変わっててな。普通に外に出ても行けないんだ。直くん、靴は持ったな?」
「うん」
直くんと呼ばれた子供の手には青い運動靴があった。
「よし、なら少し下がってな」
そう言うと男は吸っていた煙草を扉に押し付けながら何かを描き始めた。独特の節をつけた言葉を呟きながら、大きな円と小さな3つの円、他にも幾つかの図形が組み合わさった何かを描きあげると、ふぅと煙草の煙を吹きかける。煙が晴れる頃には、何もない扉だけがあった。
「これで、繋がったな」
ドアノブを捻り開いた先は、物置ではなく、見知らぬ森が広がっていた。
「行くぞ、直くん」
「お、おじさん、待ってよぉ」
慌てて靴を履き、少年が男の後を追いかける。森からは、鳥の鳴き声や木の葉の擦れる音が聞こえ、湿った土と青臭い草の匂いが幻想ではないことを教えていた。
しばらく歩くと丸太を組み合わせたログハウスが見えてきた。煙突からは白い煙が上がっているので、人が住んでいるのだろう。
「おぉい、邪魔するぞ」
男はドアをノックすると、中からの了承を得ないまま押し開けた。
「いらっしゃい」
ゆったりとした声が返ってくる。それは揺らぎながらも柔らかく広がり、しかし溶けることはなくハッキリと聞こえる声だ。
ログハウスの中は、外見より広く、奥にも部屋があるようだった。入ってすぐの部屋には大きな木製のテーブルや、竈と大鍋、蝋燭や乾燥した草木などが乱雑に置かれ、童話の魔女の住処だと言われれば誰しも納得するだろう。
テーブルに向かい、何やら書き込んだり、葉を潰していたのは1人の女だった。
細やかに波打つ栗毛に白い肌と大きな瞳の女はビスクドールのような美しさと古めかしさを持っていた。
「おや、1人じゃないんだね」
男の後ろに隠れるようにいた子供を、長いまつ毛を瞬かせて女が言った。瞬きする度に小さな星が散る。
「良い機会だから、会わせようと思ってな。ほら直くん、挨拶だ」
男の前に押し出される形で女と対面した少年は緊張しながらも、自分の名前を告げた。
「は、はじめまして。狐塚
「ふ、ふふふふ、お姫様か。ありがとう坊や。だけど私はお姫様じゃない。お姫様の手助けをする魔女の方さ。私は九重
「日本のお名前だ」
「ふふ、可愛い坊やだ。どこから攫ってきたんだい?」
魔女が
「俺の妹の子供だ。俺の次はコイツになるからな。今のうちに顔繋ぎしておいてもいいだろ」
「なるほどね。まぁ、アンタの所も中々に複雑だからねぇ」
「そっちは弟子とったって聞いたが、今日はいるのか?」
「もうみんな出てったよ。それぞれの道で達者にしてる。たまに素材とか分けてくれて助かるよ」
「そうかい」
「それで、顔合わせが本命じゃないんだろ?悪いけど、ここには椅子が無いんだ。依頼人が居座らないようにね」
「あー、札が欲しい。
「アンタもまぁ、厄介な事に首を突っ込んでるねぇ。早死するよ」
「札を渡したら俺の仕事は終わりだ。それ以上は踏み込まねぇよ。割に合わねぇ」
「物事は等価交換。過分でも不足でもいけないからねぇ。盲の札か、ちょいと待ってな」
そう言うと魔女は、床をトンと踵で小突き「My dear」と誰かを呼ぶと、足元の影が蠢いた。それは見る見るうちに人型をとり、真っ黒に塗りつぶした魔女の姿になる。
「強い盲の札を作るよ。材料は分かるね?」
魔女の言葉に影は頷くと、家の中をパタパタと走り回り、両腕に札の材料を抱えて戻ってきた。
「ありがとう。机に並べておくれ」
影が持ってきた材料をすり潰し、燻し、焼き、水に浸し、漉し、混ぜ、そうして出来たドロリとしたなんとも言い難い色の液体に、先を削った枝を浸し、少し波打つ紙にスルスルと書いていく。
日本語では無いそれは、少年には当然読めず、しかし男にも読むことは出来ない。
書き終わった魔女は、その札に指を添え下から上へなぞるように動かすと、文字は1つずつ瞬き、赤く染まった。
「出来たよ」
「ありがとな。対価は後日で構わないよな?」
「それでいいよ。後で使いを寄越すさ」
「よし、じゃ帰るか」
男に促され、少年はぺこっと頭を下げ男の後ろをついて行く。こっそり振り返れば、魔女と影が手を振って見送ってくれていた。
入ってきたのと同じ扉を潜れば、そこは見慣れた男の家の中だ。
色々な事が一気に起こった為、少年は夢心地で今の事は本当にあったことなのだろうかと、ぼんやり思っていた。
「直くん、靴を置いてきな。おやつ食べるだろ。少し休もう」
男に声をかけられ、少年は手に持ったままの青い運動靴を思い出す。運動靴の底には踏み潰された草の汁が付いていて、本当に森に行ったのだと実感した。
***
祓い屋から貰った札を貼ってから一ヶ月。
様々な霊現象がピタリと治まった。
その代償として、ベランダは使うことが出来ないし、カーテンを開けることも出来ないが、あの時の恐怖を思えば瑣末な事だ。
札の効果は半年から一年で切れるから、その前に引越しをするように言われたが、私も色々あったここからなるべく早く引越したい。
「ネットで紹介されたけど、ちゃんと本物で良かった」
鼻歌を歌いながら洗い物をする女性の後ろで、ジリジリと札が端から焦げていた。
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