第10話

「言い訳にはならないかもしれませんが、具体的にどうすると、決めていたわけではないんです」

 硬い声で、サイトーは言った。

「ただ漠然と、あの《図書館》にいる人たちを、なにかの形で利用できるんじゃないかと、考えていただけで」

 ああいう場所に来る人たちは、きっと裕福で、余裕のある暮らしをしているだろうと思ったから――サイトーはそう言って、恥じるようにうつむいた。

「親しくなっておけば、いまの仕事を続けられなくなったときに、新しい仕事に紹介してもらえるかもしれないとか……そういう穏当なことから――たとえばうまく言いくるめて、お金をだまし取るようなことも」

 サイトーはそこでようやく顔を上げて、わたしの目を見た。「最初からそういう目で、近づく相手を物色していました」

 つまりはそれが、彼の懺悔ざんげというわけだった。

「だけど話してみれば、あなたはとても安易に騙されそうな人とは思えなかったし」

 サイトーはそこで、ようやく小さな苦笑を見せた。それで、わたしもどうにか、笑いを返すだけの余裕を取り戻した。「どうかしら」

 実際には、どうだっただろう。たしかにわたしははじめてサイトーから話しかけられたとき、詐欺のたぐいを警戒してもいたし、今日の約束を取り付けたときにも、そうした可能性をまったく考えに入れていなかったわけではない。しかし、そんなことではないかと、本心から思っていたといえば嘘になる。

 それでも、案外と自分が傷ついていないことに、わたしはふいに気がついた。

 それは少しばかり、寂しいことでもあった。

「それに、通っているうちに、つい、最初の目的を忘れてしまいそうになって」

 その言葉で、いつか、サイトーと交わした会話を思い出した。何のために本を読むのかということ――そう、ああいうささいな世間話ひとつにしても、彼の考えていたことと、わたしの思い浮かべていたことは、まるきり違っていたというわけだ。

「最初のうち、ほんとうはもっと、自分の役に立ちそうな本だけを読むつもりだったんです。《チップ》黎明期れいめいきのころの本だとか。だけど、古典を読みかかったら……、《チップ》がまだない頃の人たちの話を読んでいたら、つい、没頭してしまって。単なる現実逃避だとは、自分でもわかっているんですけど」

「その口ぶりだと《図書館》に、もう来ないつもり?」

 思わず口を挟むと、サイトーは困惑したように、二度、瞬きをした。

「ぼくは……」

 何か言いかけた彼を制して、わたしは首を振った。「よけいな差し出口かもしれませんけどね、サイトー。あなたには、友人が必要だと思いますよ。あなたの事情を隠さなくてもいい話し相手が」

 困った顔をするサイトーに、駄目押しをするつもりで、言葉を重ねた。「それとも自分がそうなれると思うのは、少しばかり図々しいかしら?」

「だけど……」途方に暮れたような声で、サイトーは言った。「ぼくは、あなたを騙して利用することを考えていた男ですよ」

 思わず微笑んでしまったのは、若者に特有の潔癖さを、その口調の中に感じたからだった。

「あなたがまだ本当にそうするつもりがあるのなら、わざわざその相手に話したりはしませんよ」

「わかりませんよ。それだって、油断させようという手口かも」

「こういう言い方をしたほうが、あなたが安心できるのなら、あえて言わせてもらいますけどね――あいにくと、だまし取られて困るほどの持ち合わせもありませんよ」

 この家だって借家だしねと、住み慣れた家を手のひらで示してみせる。

 庭はマルグリットの好意で好きにさせてもらっているけれど、もともとは彼女の家族が離れとして使っていた建物と、それを取り囲む庭の一角とを、生け垣で区切っただけなのだ。「先ほど会ったでしょう? 彼女の友情に甘えて、安く貸してもらっているの。父が遺した資産はすべて、弟夫婦に譲ってしまったし」

 母が死んだとき、わたしはアルフレドと離婚した直後だった。わたしにはささやかながらも手に職があり、弟には妻とふたりの子どもがいて、彼らを養うのに安心できるほどの収入がなかった。「どちらがよりこの家屋敷を必要としているか、わかるだろう?」――弟はそんな言い方をした。

 人間相手のトラブルに心の底からうんざりしていたわたしは、家屋敷だけでなく、自分が相続するはずだった金品のほとんどを、弟とその家族に押しつけるように置いてきた。そうして単身、この町へと越してきたのだ。

「恥ずかしながら――というべきか、期待はずれで申し訳ないというべきか、財産というほどのものは、何も持っていないのよ」

 わたし自身は、在宅で仮想空間の設計に関わる仕事をしているが、かつての父のように大口の顧客を抱えることもなく、ほとんど自分が食べてゆくだけしか稼いでいない。《図書館》に入り浸る余暇がありさえすれば、それが何よりの贅沢だと思ってきたからだ。

「そう聞いたら安心できて?」

 サイトーは、言葉に詰まったように黙り込んで、それから初めて聞くような、ぶっきらぼうな声を出した。「この世の犯罪は、何も詐欺ばかりではありませんよ」

 その声が、あまりに子どもっぽかったので、わたしは思わず吹き出した。

「無理に悪ぶってみせるのはおよしなさいな」

 その口調が、それこそ子どもでもあやすような口ぶりになってしまっていたのだろう、サイトーは急になさけない表情になった。

 風が吹いて、テーブルクロスのすそがはためいた。生け垣で葉が擦れあい、どこかの家の門扉が軋んでいる。

 長い沈黙のあとに、サイトーが、ぽつりと呟いた。

「あなたに、同情されたかったわけではないんです……」

 ただ、誰かに話を聞いてもらいたくなったのだと、弁解の口調でそう続けて、サイトーは顔を伏せた。

「ええ、そうね」

「あなたになら……きちんと話を聞いてもらえそうな気がして」

 わたしはうなずいて手を伸ばし、祈るように組まれたままのサイトーの指に、そっと自分の手を重ねた。年相応の、皺と血管の目立つ自分の手の甲が視界に入っても、このときだけは、恥ずかしくはなかった。

 これまで、この子はどれだけの努力を払ってきたのだろうと、そのことを思った。

 当たり前のように《チップ》とともに生きてきた人々に囲まれて、ほとんど字も読めなかった子ども時代から、《図書館》であんなにたくさんの本を読みきれるだけの教養と集中力を身につけるまで、どれほどの苦労があっただろう。

「あなたの……」残酷かもしれない言葉を、わたしは風に乗せた。「あなたが抱えている問題を、ほんとうの意味で理解できる人は、あなたのほかにはいないかもしれない」

 サイトーは顔を上げた。

 彼は、傷ついた目をしていた。その鳶色の瞳をまっすぐに見つめ返して、ことさらにゆっくりと、わたしは続けた。

「たとえありふれた人生を送って、似たような経験を持っている人同士でも。どれだけ親しくなって、気心の知れたように見える間柄でも、人と人が、お互いのことを本当に理解することなどできないし」

 サイトーは心細いような顔をしたまま、それでも耳をふさぐことをせずに、じっとわたしの言葉に耳を傾けていた。

「他人と共有できない体験が多い分だけ、あなたは、人よりよけいに寂しい思いをするかもしれない。だけど。だけどね、サイトー」

 このときはじめて、わたしは、この子と出会ったのがいまでよかったと、そう思った。色恋の対象として浮かれ騒ぐのにふさわしい、小娘のころの自分ではなくて、いまこのときでよかったのだと。

「相手が痛みを抱えていることを知って、それを尊重することが、あなたにはできる。想像をすることしかできない相手の痛みや傷を、いたわることはできる……」

 ぼくは、と言いかけたサイトーを遮って、わたしは続けた。「さっき、わたしが足を引きずったのを見て、あなた、自分が痛いような顔をしたわ。自分で気づいていた?」

 握っていた手を放して、わたしはサイトーに微笑みかけた。

「そういう人であるかぎり、あなたの痛みや、あなたが払ってきた努力を尊重する人と、必ず出会えるわ」



 それからわたしはお茶を淹れなおして、いっときの間、ふたりでぽつりぽつりと話をしながら、静かにお茶を飲んだ。

 お湯を沸かしに立ち上がるとき、わたしがまた足を引きずるのを見て、サイトーがとっさに腰を浮かしかけた。支えようとしてくれたのだった。

「ありがとう、大丈夫よ」

 何か言いたげなサイトーに、せいいっぱい冗談めかして笑いかけて見せた。「わたしだって、あなたに同情されたいわけではないのよ」

 ときどき風に乗って思い出したようにローズマリーが香り、生け垣のどこかで小鳥の羽音が響いた。お茶にするにはとても気持ちのいい、完璧な秋の午後だった。

「トラムの時間があるので、そろそろおいとまします。おいしいお茶をごちそうさまでした」

 サイトーがそう言って立ち上がったとき、ちょうど風が吹いて、木漏れ日が乱舞をつくり、彼の微笑みを隠した。

「ねえ!」

 立ち去りかけたサイトーを呼び止めるのに、この何年も出したことのないような大声を出した。

 マルグリットが驚いてベランダから顔を出すのがわかったが、それには気がつかないふりをして、立ち止まって振り返るサイトーに呼びかけた。

「まだ返事を聞いていなかったわ。これから先も、お友達でいてくださるかしら? ときどきお茶をしながら、好きな本について存分に語り合えるような?」

 ちょうど逆光ではあったけれど、サイトーが泣きそうな顔で笑うのが、はっきりと見えた。

「――喜んで」

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木漏れ日の庭 朝陽遥 @harukaasahi

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