だが、不安は的中した。囁かれる声は、ひとつではなかったのだ。

 もちろん、ヤクトやその身内に面と向かって、そう問いかける者はいなかっただろう。だが、少しずつ回復していくヤクトに向かって、ときおり投げられる奇妙な視線に、私は気づいてしまった。

 それは私の、勘繰りすぎというものだっただろうか。自分がしたことへ、気が咎めていたからこその。

 だが件の娘も、同じことを考えているようだった。彼女はヤクトのそばについていて、誰かが少年に妙な目を投げかけるたびに、きつく睨み返していた。たったひとりで、ヤクトを守ろうとするように。だがその頑なな姿が、よけいに人々の疑惑を煽っているのかもしれなかった。

 きわめつけは、イアンの態度だった。

 はじめはヤクト同様、弱りきって体も起こせなかったイアンだが、それでももとの体格がいい分、早いうちから体力を取り戻しはじめていた。

 同じ広間に寝床をつくり、二人まとめて女たちの世話を受けながら、イアンはときおり上体を起こして、ヤクトのほうに、じっと強い視線を投げかけていた。その目の鋭さが、容赦なく私にひとつの答えを告げていた。

 彼は食べ物を、口にしたのだ。そしてイアンは、それを見ていた。手を伸ばしても届かない、格子の向こう側から。

 ヤクトはその視線に、気づいていただろうか。

 気づかないでいてくれればいいと、私は願ったけれど、それがあまりに虫のいい願いだということは、自分でもよくわかっていた。

 イアンに、彼を責めるなというのは、酷な話だろう。

 弟分のようにして可愛がっていた相手が、あろうことか魔物の誘惑に屈して、掟を破った。自分と、同じ洞に暮らす全ての人々の信頼を、裏切った。彼からしてみれば、そういうことなのだ。

 いまはまだ、はっきりとヤクトを責めるものはいなかった。だがこの先、少年たちがすっかり回復した後には、どうだろうか。そのことを思うと、やるせない思いばかりがこみ上げてきた。

 あるいはそうなっても、誰も、何もいわないかもしれない。けれどあの視線は、おそらく、いつまでも彼につきまとうのだろう。ヤクトが生きてこの洞穴に暮らしている限り。

 そう思うと、私は自分のとった行動の是非について、思いをめぐらせずにはいられなかった。

 私のしたことは、間違っていたのだろうか。

 あの日、私があのようなことをしなくても、ヤクトは自力で、どうにか生き延びていたのだろうか。

 とてもそうは思えない、あの食物がなかったら彼は命を落としていたに違いないと、そういいきれば、自分の心が楽になるのはわかっていた。そうだ、あの日に噂話をしていた男たちも、いっていたではないか。イアンはともかく、ヤクトのほうは駄目かと思っていたと。

 だがその答えのほんとうのところを、神ならぬ身で、私に知りようもなかった。

 そしてイアンとは別に、ひどく強い視線をヤクトに向ける人々がいた。彼らが何者なのか、私はあの地を去るまで、しかとは確かめなかった。そうするのが怖かったのだ。

 だが私は、答えの半ばを、すでに知っているように思う。

 彼らはかつて同じ試練を、正当に耐えて、生き延びた者たちではなかったか。

 あるいはあの断食行で、わが子や兄弟を失った人々ではなかっただろうか。

 彼らの声に出されない声が、この耳に、聞こえるような気がするときがあった。掟を破った恥知らずの手引きによって、この子は生き延びたのか。ならば自分の息子は、なぜ命を奪われねばならなかったのかと。



 二人が救い出されてから数日がたった頃、私は夜更けに足音を忍ばせて、彼らの寝起きしている広間に向かった。

 人のいないところで、一度彼らと話ができないものだろうか。そんなことを思っていた。だがその望みが薄いことも、頭ではわかっていた。誰か、女たちのうちから、夜通しで彼らにつきそっているらしいと、知っていたので。

 だがその夜は、どちらにしても眠れそうになかった。話をするのが無理でも、彼らの寝顔だけでも見られれば、少しは落ち着くだろうか。そう思い、ひとり、夜更けの通路を歩いていた。途中の通路では、誰とも行き会わなかった。

 広間についたとき、ちょうど、中から人が出てくるところだった。

 あの娘だった。

 彼女は私に気づくと、その場で立ちすくんだ。それから何かを決意するように、硬く唇を引き結んで、深く、頭を下げた。そして、足音を立てずに、暗い通路を去っていった。

 いまのは何だったのだろう。あっけにとられてその後ろ姿を見送った私は、戸惑いながら、少年たちの寝起きする広間に、足を踏み入れた。

 うす暗がりの中で、木蝋の燃えるにおいが鼻についた。

 壁にかけてある灯は、半ば消えかかっていた。その頼りない明かりを受けて、少年の影が、壁に投げかけられ、揺れている。

 イアンは半身を起こして、背を壁にもたれかけさせていた。その光る目が、少し離れた壁際で眠るヤクトの、小さな背中を見つめている。その横顔に浮かぶ表情は、苦いものではあったけれど、数日前まで見せていたような険しさは、そこには見当たらなかった。

 その顔が、ゆっくりと私の方を振り返った。どきりとして、私はその場に立ち尽くした。

 一瞬、イアンの目は憎々しげに歪められ、だがその次の瞬間には、静かに伏せられた。

 話ができればいいと思っていたくせに、どう声をかけたものか迷って、私は話を切り出しそこねた。しかたなく黙ったまま彼らのほうに歩み寄ると、イアンの視線が、そのまま追いかけてきた。

 ヤクトはまだ体力が戻らないのだろう、体を小さく丸めて、静かに寝息を立てていた。

 それでもその頬に、助け出されたその日よりは、いくらか肉がついたようで、私は安堵の息をついた。

 あらためてイアンのほうに向き直ると、まだ少年は、じっと私を見ていた。何かを見定めようとするように。

 やがて、イアンはゆっくりと唇を動かした。

 ――いつ、ここを発つ。

 ヤクトを起こさないようにだろうか、それとも人に聞かれないようにだろうか、ひそめた声で、イアンは私にそう問いかけた。それは奇妙に、感情を抑えた声音だった。ついこの前まで、あふれる好奇心にはちきれんばかりになって異国の話をせがんできた、悪戯坊主のものと、同じ人間の声だとは、とても信じられなかった。

 ――まだ決めていない。でも、近いうちには。

 ――ヤクトを、連れて行ってくれ。

 いわれた言葉の中身に、私は意表をつかれた。

 実際のところ、その選択肢は、頭の片隅をちらついてはいたのだ。このままここで暮らすことは、ヤクトのためにはならないのではないか、そういう思いはずっと、胸のどこかに居坐っていた。だがそれは難しいだろうと感じてもいたし、何より、ほかでもないイアンからそれを頼まれるとは、思ってもみなかった。

 私はすぐに答えず、振り返って、丸められたヤクトの背中を見た。その小さな痩せた背中は、ぴくりとも動かなかった。それが深く眠っているためなのか、それともただ寝ているふりをしているだけなのか、見ただけではわからなかった。

 ――掟を破った者を、置いてはおけない。

 イアンはそう囁いたが、それが本気の言葉とは、私にはどうしても思えなかった。それほど、少年の声音は静かだった。

 ――ラファから、長に、そう耳打ちしてもらう。

 そう続けながら、イアンはヤクトの骨ばった背中から、視線を外さなかった。ラファというのは、あの娘の名だろうか。たしかめようかとも思ったが、やめた。どうせすぐに去る身だ。

 ――わかった。本人が、それでいいといったら。

 ――もう、話してある。

 私は言葉を飲み込んで、イアンの目を見つめた。

 少年の表情は、静かなものだった。

 ヤクトを哀れだとは思わないのか、許してはやれないのかと、直前まで私はこの少年に、そういいたいと思っていた。私がそれをいうのはあまりに身勝手だと、承知しながら、それでもどうにか、諭すことはできないだろうかと。

 つまり、私はこの少年のことを見くびっていたと、そういうことだったのだろう。

 ほかでもないイアンこそが、誰よりも間近に、ヤクトの苦しむ姿を目の当たりにしていたのだ。たった二人きりで取り残された、あの暗い牢の中で。

 空腹を訴えながら弱っていく弟分に、励ましの声を掛け続けているイアンの姿は、容易に思い浮かべることができた。



 出発は、ヤクトの体調が戻るのを待ってからになった。

 表向きには、ヤクトがなぜ私についていくことになったかは、明らかにされないようだった。だが皆、言葉にせずとも察していただろう。中には、私やヤクトに冷たい視線を向けるものも、いないではなかったが、どちらかというと、私たちは腫れ物にさわるように扱われた。それまで異国の話をせがんできた人々も、もう私に近寄ってはこなかった。

 それでも、私には皆と同じ食事が与えられたし、女たちは口数の少ないまま、ヤクトの世話を焼いた。彼女らが人目を気にしつつ、ヤクトの痩せた手を握って力づけるところも、何度か見かけた。

 雨の弱まった朝、私たちは洞穴の外に、足を踏み出した。見送りのない、寂しい出立だった。

 ヤクトが洞穴を振り返り、私の顔を、不安げなまなざしで見上げてきた。その瞳は、洞穴の外で見れば、あの娘と同じ、きれいな琥珀色をしていた。

 ひとつ頷きを返して、私はその手を引いた。痩せた手のひらは、やはり熱かった。

 ヤクトに背負わせた荷は、ほんとうに最低限のものだったが、それでも痩せて小さな背中には、不釣合いに大きく見えた。

 滑る足元に注意を払いながら、いっとき歩いて、やがて洞穴の入り口が雨の向こうに霞んで見えなくなるころ、前方に立ちふさがる人影があった。姉ちゃん、と、ヤクトが小さく呟いた。

 件の娘だった。

 ――ヤクト。

 ただひとこと、弟の名を呼んで、娘は押し黙った。その声は、涙に歪んではいたが、洞穴の外で耳にすると、やはり高く澄んで、美しかった。

 ヤクトはわずかにためらい、けれど弾けるように駆け出して、姉の胸に飛び込んだ。

 互いの体に縋りつくようにして、二人はいっとき、固く抱き合っていた。

 女たちは本来、晴れたとき以外には、洞穴の外に出てはならないものらしかった。洞穴の通路は狭く、昼間はいつでも人が行き交っている。それをどうやって抜け出してきたのか、娘はそこにいて、弟の出立をせめて見送ろうと、おそらくは長い時間を、待っていた。雨に濡れそぼって。

 彼女が洞穴を抜け出して、この場所までやってこられたことに、意味を見出そうというのは、あまりに都合のいい考えだろうか。

 あの夜、私が初めて奥の牢に迷い込んだとき。いま思えば私を誘導するように、この娘が通路の奥に姿を消したのを、誰ひとりとして見咎めなかった。私が二度目にあの通路へ忍び込んだとき、イアンが大声を張り上げても、誰も様子を見に来はしなかった。いくら風雨の音に紛れるといっても、あんなふうに叫んだならば、誰かの耳に届きはしなかったか。あの夜、イアンが投げ捨てた魚の切れ端は、きっと次の日には臭っただろうに、そのことに気づいてさわぐ者が、誰もいなかったのは。

 それは彼らなりの、情ではなかったか。

 それともすべては、ただの偶然だろうか。彼らはただ掟にのっとって、少年らを見捨てようとしていたのか。

 いまとなっては、真偽はわからない。もう私があの国を再び訪ねることもないだろう。

 やがて姉弟は抱擁を解き、頷きあった。ヤクトが私の手につかまって、再び歩き出すと、娘はその場で硬い岩肌に膝をついて、深く、頭を垂れた。



 遠くの緑が霧雨にかすむ、灰色の景色の中を、二人、黙りがちに歩いた。ときおり鳥が寂しげな響きを立てて、低く、長く鳴いた。

 私のせいで故郷を追われることを、この少年は、どう思っているのだろう。何度かヤクトに訊ねようとして、私はそのたびに言葉を飲み込んだ。

 雨を避けられる場所を見つけて、足を休めるたびに、ヤクトは後にした故郷を振り返って、不安げな目をした。

 自らを追放した人々を怨むでもなく、ただあとにしてきた故郷の方を何度も振り返りながら、それでも戻れはしないのだと、諦めきっているようなのが、哀れだった。

 体力もずいぶん戻ったとはいえ、もともと小柄な、この痩せっぽちの少年が、あの険しい崖道を歩きぬくことが出来るのだろうか。私ははじめ、そんなふうに危ぶんでいた。

 だが、不安そうにしながらも、ヤクトは泣き言のひとつもいわず、黙って歩き続けた。

 ふいに一羽の鳥が木の梢を飛び経ち、羽ばたきの音も高く、私たちの頭上を飛びこしていった。白い羽の美しい、大きな鳥だった。

 ――あの鳥は、どこまでいくの。

 ヤクトはそういって、空を指さした。その声の調子は、思いがけず、明るいものだった。

 無理をして、明るくふるまってみせたのかもしれない。だがそこには、いつか広間で目を輝かせて話の続きをねだったときと同じ、世界への尽きせぬ興味が、たしかにあふれていた。

 ――さあ、どこまでだろう。ずっと西の国でも、同じ種類の鳥を、見たことがある。

 私がそう答えると、ヤクトはしばらく、じっと空を見上げていた。

 その横顔を見て、私は不意に思いなおした。イアンを見くびっていたのと同じように、私はこの少年のことも、ずいぶんと思い違いをしていたのではないかと。

 必要以上に、この子を哀れむのはやめよう。そのときになって、ようやく私はそんなふうに考えることができたのだった。

 何の非もないのに殺されかかったことも、生まれ育った故郷を追われなければならないことも、哀れなことには違いないだろう。だが、それでもこの子は、生きてゆかねばならないのだ。

 そして人が生きてゆくために必要なのは、おそらく、哀れみではない。



 幸いにも雨が強まることもないまま、翌日の昼、峡谷を抜けた。

 そこが雨の国との境だった。

 ようやく陽光に肌を温められながら、乾いた岩に腰を下ろして、疲れ果てた足を休めていると、ヤクトが空を見上げて、眩しげに目を細めた。

 ――雲が。

 そういって、ヤクトが指さした先には、雲の切れ目があった。高い山の峰を境に、きれいに天気がわかれている。後方にはどんよりと重い雨雲が。前方の空は青く、どこまでも澄み渡っている。

 あの山よりこちら側には、雨雲はほんのときおりしか越えてこないのだと、そう説明すると、ヤクトは目を丸くして、ふたたび空を仰いだ。それから前方に開けた平原と、通り抜けてきた峡谷とを、何度も見比べた。

 その痩せた腕から取りこぼしてしまった、多くのもののことを、ヤクトはこれから先、きっと、何度も思い返すだろう。

 できることならば、それ以上の喜びが、この少年の行く先にあるように。いま私が願うべきなのは、おそらく、ただそのことだけなのだ。

 ――行こうか。

 手をさしのべながら、私はヤクトに微笑みかけた。少年は立ち上がりながら、私の顔を見上げて、微笑みを返してくれた。

 その痩せた、熱い手を握って、ゆっくりと歩き出すと、さっき見かけたのと同じ、白い大きな鳥が、空の高いところを軽やかに横切っていった。

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雨の国 朝陽遥 @harukaasahi

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