9話「影」

 ゆらり、と影は扉の前に立った。


 影の目的の人物は扉のすぐ先にいる。しかも無防備のままで。

 事を為すのは簡単だ。ドアを開けて中に身をすべらせる。そして目的の人物に向かって手に持ったこれを振り下ろせばいいだけだ。

 例え逃げられる可能性があったとしても……自分ならば数秒の間動きを止めることなど造作も無い。


 ただ、影は今でも迷っている。

 むしろ前に扉の前に立った時よりも迷いは深刻になっているといっていい。

 

 それでもやらねばならないのではなかろうか。

 実行することそのものに躊躇いはない。問題は心の方だ。倫理観は他と違えど、愛情や憎しみはきっと人間たちと同じだと思うから。


 決意した影はドアノブを握った。



「……命が惜しいわけではない。君のことを思って言わせてもらう。それは止めておいた方がいい、エルル」



 エルルと呼ばれた影はドアノブを半ば回したところで内部から聞こえてくる声にたじろいだ。



「起きていたんですか……?」

「いいや、エルルが近づくまでグッスリ眠っていたさ。性質の悪い体質でね、寝ている時も気配を感じると目が覚めてしまうんだ。若い頃、野営をしてた時なんかは昆虫達のせいでゆっくり眠ることもできなかった」



 室内から聞こえてくるゲーテの言葉は世間話をしているかのような調子だった。

 命が狙われていると分かっているはずなのに調子は変わらない。……どころか普段以上に機嫌が良いように感じる。



「ということは二日前も……?」

「ああ。気づいていたよ。最初はメディかと思ったが、あれとは中々に長い付き合いでね。と思った。となると残りはエルル……君が扉の前に立っていたことになる」

「…………」



 ゲーテは初めから分かっていた。二日前にも同じ場所に立ち、逡巡していたのを……。

 エルルは構えていたそれ――短剣を力なく下ろした。



「どうして……」



 声は無理矢理絞り出したかのように震えていた。



「どうして見て見ぬふりをするんですか! 命を狙われてるんですよ! 抵抗や警戒の一つや二つするものじゃないですか!?」

「しかし君には私を殺す権利があるだろう。いかに違う生命体といえ、肉親を殺したのは私だ」



 理屈は通っている。しかし。



「でもその事実を知ったのはつい先程じゃないですか! なのに二日前も同じように寝たふりをしていたのはどう説明するんですか!」

「君が凶器を振り下ろした瞬間止めていたはずだ」

「嘘です」

「根拠は?」

「勘です。……けどゲーテさんならきっとそうしたはずです」

「鋭いな。伊達に魔王の娘をしてない。それとも女特有の勘というやつだろうか」



 皺の刻まれた口元が笑みの形を作っている姿が扉越しに想像できた。



「今のやり取りで察してくれるだろうが、私は君が殺意を持っていることにも勘付いていたよ。けれど抵抗する気は起きなかった。あの時点ではエルルにも警戒心を持っていたはずなんだがな。不思議なものだ。けど後になって気づいた。とてもシンプルな理由だ」



 核心に迫ろうという瞬間、ゲーテは一瞬の間を作った。

 もったいぶってるようにも、ためらっているようにも感じた。



「何故なら君は我が娘のリープにそっくりだからだ……」



 その言葉に込められた感情をエルルは知っていた。

 

 もう何十年も前の記憶だ。

 元々無愛想な性格だったためか、交わした会話はさほど多くない。それでも魔王であった父がエルルの名を呼ぶときに必ず入っていた感情。

 人はそれを親愛と呼ぶそうだ。



「……私がゲーテさんの娘に?」

「初めは驚いたよ。何せ死んだはずの娘が旅立つ前の容姿そのままで現れるんだからね。私の記憶が間違っていなければ唯一の違いは瞳の色くらいだろう。リープは透き通るような黒い目をしていた」



 エルルの瞳は碧だ。これは父から受け継いだものだった。



「ここを宿代わりにするといいと言ったのも私が完全なる別人と割り切れなかったからだ。森の中で君の告白を止めたのも娘に辛い思いをさせたくなかったから……そして離れたくないと思ってしまったからだ」



 打って変わってゲーテの口調は教会で懺悔するようだった。

 

 エルルは迷う。彼の口から飛び出した事実は全く予想もしていなかったことだった。

 故にゲーテにどんな言葉をぶつければいいか見失ってしまったわけである。

 



「わ、私が娘さんに似ていることは理解しました。けどだからって黙って殺される理由にはなりません!」



 ようやく口から出た言葉も苦し紛れのものだった。



「普通はそうかもしれないな。けど私の場合は違った。私は君とリープの姿を重ねてしまった。娘にならば殺されてもいいかもしれない。そんな風に思った……いや、あるいは娘を守りきれなかった罪の贖罪として殺されるべきだとすら考えたのかもしれない」



 エルルは息を呑んだ。自然と足がよろめく。手に持っていた短剣を危うく落とすところだった。

 

 人間ではないエルルは彼らとは違った道徳や倫理観を持っている。特に「死」や「殺し」への考え方は人間たちの理解を得られないだろう。

 しかし魔物にだって人間と共通の考え方をしているものもあると考えている。これは希望なのだけど、愛情や友情の考え方は人と同じ構造をしているはず。エルルはそう願ってやまない。

 これも人間界で暮らし、彼らの生活ぶりを己の眼で見てきたから思うことだった。

 ただ生きていくために人界に溶け込んでいる魔物達に比べたら遥かに人間たちの心の動き方を知っているつもりだ。


 このように人間の心を理解したエルルにとってゲーテの考え方というのは異常という他なかった。

 勇者が落ちぶれたというのはメディから聞かされたが、話で聞く以上にゲーテ・デイパーは壊れてしまっている……。



「君が私に殺意を抱いたのは魔王と関連があると断定はできない。しかし理由としては十分だ。だから素直に運命を受け入れるつもりだった。しかしエルル、君は扉の前で立ち止まったな? やろうと思えば一分もかからないような事のために数分の時間を要している」



 実はエルルがゲーテに復讐するべきだと考えたのも人間たちの心を学んだ結果だった。

 人間は親しい者を殺された時、相手に強い憎しみを抱く。

 強い憎しみは膨れ上がり、あるいは殺意にすら変貌していく場合もある。


 もしエルルが普通の善良な一市民であるならばここまではしなかったはずだ。

 普通の人間なら殺意に至らない場合の方が多いし、例え殺意が膨れ上がっても様々な理由から理性で抑えつけるだろう。


 つまり彼女は普通ではなかった。

 彼女は魔王の娘だ。人間でない彼女の復讐を止める者などいない。

 

 魔王は殺された。父は殺された。

 誰に殺された?

 それは憎き魔物の仇敵であるゲーテ・デイパ―だ。


 その論理からすると、エルルはゲーテを憎んでいるはずだった。

 人間の心を学んだことより、憎んだ相手は殺さねばならないと思った。

 父の仇を討たねばならないと……無念を晴らさねばいけないと、エルルの中の人の心が叫んでいる。


 だからエルルはここに立った。



「それはつまり、躊躇っているということだ。ここに来て私を殺すことに迷いを感じている。そんな中途半端な決心のままで事を実行してしまったら君はきっと後悔する。あるいは本当にこれでよかったのかと疑念を抱く。だからオススメしない」



 殺すこと事態には何の躊躇いもない。

 殺人を依頼されたら一寸の迷いもなく手に握った短剣で相手を貫くことができる。笑顔で身体をバラバラに分解してしまうことだって可能だ。


 では何故、エルルは立ち止まってしまったのか。

 エルルはその訳を胸に手を当てて静かに考える。


 最初はゲーテと一目会ってみたいと思った。

 だからメディと共に旅を始めた。

 旅をしていく中で徐々にゲーテの元に近づいていくと、自分はどうしてゲーテに会いたいのだろうか、と考え始めた。


 結論から言うと答えは出なかった。

 ただ何となく好奇心が湧いただけだ。

 けれど、その好奇心が理由もなく湧き上がるはずがないと考えたエルルは、これはきっと父を殺された憎しみが私を動かしているのだろうという発想に至った。

 それからエルルはゲーテを殺さねばならないと錯覚し続けた。


 だが、ゲーテといよいよご対面した時、虚構の殺意は霧散していった。

 年相応に髪は白くなり、顔には皺がある。しかし同年代のお爺さんやお婆さんに比べれば若々しい顔をしているし、言葉や意志もハッキリしている。

 なのに彼からは生気を感じなかった。

 生きることに疲れた老人がエルルの前に現れた。


 それを見てエルルは分からなくなった。

 自分はこんな人を殺したいと思っていたのだろうか。

 そもそも最初から殺そうなどとは考えていなかったのではないか。

 では、どうして会いたいと思ったのか。

 会って得るものもなし、むしろ苦い哀愁だけが彼女を包み込んだ。


 結局最初の質問に戻ったエルルは、やはり殺すことがベストだろうと無理矢理奮起させた。


 けれど、その行動の結末は今に至る。



「……私にも分かりません。殺すことには何の抵抗もないはずなのに、あなたを殺すことを躊躇う理由が……。いえ、そもそもあなたを殺す理由も……それどころかあなたと会おうと思った理由すら茫洋としてきてしまいました」



 もうどうしたらいいのか分からなくなってきた。

 エルルは行き場をなくして立ち尽くす。



「ただ、分からないのはわたしだけではありません。あなたのことも……ゲーテさんのこともあやふやなんです」

「それもそのはずだ。何せ私たちは薄いつながりがあるだけで、お互いのことは何も知らない。君が魔王の娘であるということもようやく知り得たわけだしな。混乱するのも無理はない」



 ゲーテの言うとおりだった。

 エルルはまだ何も知らない。過去の伝説を聞いているだけで、彼の本当の人となりというのはようやくその一端が見えてきたくらいなのだ。


 だが、ゲーテはどうだろうか。

 いくら娘に似ているからといって、エルルは魔王の娘である。本来なら人類の脅威となっているはず。

 今はもう勇者稼業をしていないとはいえ、エルルの正体は彼に衝撃を与えたはずだ。なのに何故彼はこんなにも平然としているのだろう。



「私がゲーテさんの娘に似ていると言っても、私はあの魔王の血を引く者なんですよ? 元勇者であるとしても、そんな私に殺されていいんですか。そもそも、娘と分かってもあなたは動じないんですか。あなたは……ゲーテさんは……何もせず、流れに身を任せるだけで良いのですか!?」



 気づけばエルルは叫んでいた。

 もはや自分でも何を言っているのか、何を問おうとしていたのか、全てグチャグチャになって、感情の赴くままに言葉が出ていた。

 

 そんなめちゃめちゃくちゃな問いにゲーテは静かに答える。



「確かに君が魔王の娘であると知った時は驚いたよ。そもそもあの魔王に子供がいるということ事態知らなかったかわけだからな。しかし、今更それが判明した所でどうしようもないのが現状だ。例え私が未だに正義の心に溢れていたとしても、君を討伐する意味が無い。何せ世界は平和だし、君も世界を侵略しようとする気はさらさらないみたいだからな。これが君の正体を知っても普段と変わらない理由だ。

 そして、もう一つの流れに身を任せている、ということについては」



 ゲーテはなぜかそこで一旦間を置いた。



「これでも流れには抗っているつもりなんだ。かつても突如現れた魔王という脅威に抗った。そして今、その娘が私をどうにかしようとしているこの時もだ。もし本当に身を任せているのなら、私は君に声をかけたりせず、寝たふりを決め込んでいただろう。あるいは君を逆上させるか、お願いするなりして死の運命を受け入れていただろう。しかし今の君には私を殺すことが出来ない。そうだろう?」



 確かに今のエルルにはゲーテを殺すことが出来ない。

 この場で唯一ハッキリしている真実だった。



「だから私は思わず声をかけてしまったというわけだ。全く、君が見た目以上に歳を重ねているにしても、それでも君の二倍は生きているんだ。そんな私が若者の君と同じ境遇とは情けない。結局、君も私も行き場のない影というわけだ」



 エルルもゲーテも、心の内にモヤモヤとした実体のない感情を持ち合わせている。その感情はちょっとやそっとのことじゃ判明しないだろう。故にそれは行き場を失い、影となってまとわり続ける。

 



「エルル、君はどうしたい?」

「え?」



 唐突な質問だった。



「私に対する感情を認識できなかった君は今後どうしたいのかといった希望はあるのか?」

「……いえ、何をどうしたらいいのか検討もつきません」



 行き場を失った影は静かに消えゆくしかない。

 となると、これ以上ゲーテには干渉せずに立ち去るのがベストだろう。

 

 そう考え始めていたエルルの思考に意外な一言が飛び込んできた。



「ちなみに私にはある。……私は少しでも長く君と一緒にいたい」

「……え?」

「それが娘と姿を重ねて、かつてのように家族で暮らすといった幻想を見たいというのは私自身自覚している。しかしそれでもいい。長い長い旅の果てに最後ぐらい夢を見たいのだ」



 エルルは人間たちの死者への弔いの言葉を思い浮かべる。

 


 ――長い長い旅路の果てにあなたはここへ辿り着いた。

 ――新たなる旅路が開かれるまで、安らかに眠りたまえ。



 死者を供養するといった文化がない魔物にとって、何故死者にこの言葉を送るのか、エルルも初めは理解できなかった。

 しかし彼らは消えゆく者達に経緯を払い、生前に築いた繋がりを永遠に紡いでいこうとしている。

 これこそが人間の強さだと――父の率いた魔王軍が負けた所以であると気づいた。


 以来、エルルはこの言葉を胸に刻んだのだった。



「それに昔は敵だったが、メディと過ごしてみるのも悪く無いと思っている自分がいる」



 ゲーテの声がより一層優しく響く。



「確かに私と同様、君も影だ。ただ私の場合、長い年月が立ってしまった故に、こじれにこじれてしまった。しかし君は違う。君はそもそも私達と価値観が大きく違う。それでも人間の心を理解しているし、積極的にこの世界を見ようとしている。それに何と言っても時間がある。いずれ影に光が指す日も来よう。その日が訪れるまで、答えを探してみるのもいいかもしれない」



 ゲーテの教示にエルルは思わずハッとする。

 だがしかし、その言葉が示すのは……。



「もし答えを導き出せたとしても、それがゲーテさんを殺すという結論になってしまうかもしれないんですよ」

「ああ。分かっている」

「例え違っても、あなたと離れてしまうような答えになるかもしれないんですよ」

「ああ。分かっている」

「それ以外にも、えっと――」



 無理はしなくていいんだ、とやんわり止められる。



「君がどんな結論を出すのか、それは私にも予測できないさ。だが君がどんな結論を出しても受け入れる。私を殺す必要があるなら私を殺せばいい。離れる必要があるなら離れればいい。人間だから、魔物だから、そんなものも関係ない。君が私と会ったことでどうしたいと思ったのか、これからゆっくり考えていけばいい」



 ゲーテの声が止まる。

 彼はエルルの言葉を待っている。



「……私は旅の途中です。なのでいつまでもここに留まっているわけにはいきません。けど私は……ここでもう少し過ごしていたいです。そしてゲーテさんのことをもう少し知りたいと思います。ですから、その」



 言葉を切って、エルルは息を吸い込み、言った。



「もうしばらくお邪魔させてもらっても宜しいでしょうか」



 一瞬の間。

 やがて世界を救った英雄が魔王の娘に答えた。



「ああ、勿論だ。エルルが居たいと思う間ずっといるといい。正体は関係ない。君が過ごしたいように……君らしく過ごすといい」

「……はい!」



 何故かエルルは父に認められたような気持ちになっていた。

 娘に似ているといわれて、ゲーテの娘になったつもりになってしまったのだろうか。

 ただ、それでも構わない。



「今日はもう遅い。明日の予定は起きてから考えよう。エルルも今日はゆっくり休みなさい」

「はい、ゲーテさん。あの……おやすみなさい」

「おやすみ、エルル」



 エルルの悩みはまだ何ひとつ解決していない。

 しかしそれでも謎が解けたような爽快感がエルルを包んでいた。



 

 一人の少女と一人の老人の夜はこうして更けていった。



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