10話「出発の朝」
エルルと扉越しの会話を終えてから数時間後。
昨夜とは打って変わって元気に朝食を食べるエルルを見て、流石のメディも少し驚いたようだった。しかし何故元気を取り戻したのかという原因の究明は行わず、すぐに驚きを引っ込めてメディは穏やかに微笑んだ。
ゲーテ、エルル、メディの三人は仲睦まじく食卓を囲んだ。
もし誰かがこの光景を見たら仲の良い家族だと思うかもしれない。
間違ってもかつて世界を救った勇者と、世界を滅ぼそうとした敵の幹部と、世界を滅ぼそうとした大ボスの娘だなどと思うまい。
今日の予定についてゲーテはエルルに訊ねた。
「エルル、今日はこの後どうするか予定はあるのか?」
「うーん……決まってるような決まってないような……」
「煮え切らない回答だな」
ゲーテは楽しげに笑う。
もし予定がないのなら街をもう一度案内してあげようか、とゲーテは考えていた。昨日は後半、カフェに居座ってしまって街の全てを案内しきれていない。昨日の続きを……と密かに狙っていた。
思い切って声に出して言ってみる。しかしエルルの反応は乏しいものだった。
「それも魅力的ではあるんですけど、折角この街に逗留を続けることにしたわけですし、昨日出来なかった買い物や時間があったらアメリアに会いに行きたいなあって思って」
ああ、とゲーテは頷く。
元々エルル達はこの地にも短期間の在泊予定だった。けど色々な事が重なって在留が伸びてしまった。
なのでどうしても衣類などが足りなくなってしまい、買い足す必要がある。
またエルルは種族は違えど若い女性である。特に人間の心理に詳しい彼女だからこそ、女性の羞恥心とやらにも一層敏感であるだろうと予想する。
娘のリープが思春期に突入した頃を思い出す。
幾らそういった年頃で、ある程度は覚悟していたものの、「パパの下着と私の衣類を一緒に洗濯しないで!」の怒り心頭な発言には少々ショックを受けた。
そんな苦い思い出を頭に浮かべつつ、ゲーテは「それがいい」と呟いた。
「いつも私がエルルに付いて回るというのもおかしな話だしな。今日は私も私のタイムスケジュールで過ごさせてもらおう。メディはどうするんだ?」
「私も今日は一日ゆっくりさせて頂きますわ。といってもお買い物をしたり散歩したりといったぐらいですが」
「だったらメディ、買い物は私と一緒に行きましょう」
「そうですわね。エルルに似合う服があるといいのですが」
今日の予定について語るエルルとメディは親子か、あるいは仲の良い姉妹のようであった。
これほどの絆が築かれるほど彼女たちは共に過ごしてきたのだなと今更のように実感する。
朝食を食べ終え、その他諸々の雑務を終わらせたエルルとメディは玄関の扉を開けた。
二人を見送るために後から外に出たゲーテを陽射しが歓迎する。
そして太陽の明るさを光背にして立つ二人の女性の姿を見て、あの時と逆だな、とゲーテはふと思った。
あの時とはゲーテが魔王討伐のために旅立ったあの日――まだその日家族と最後の別れとなることを知らなかったあの日――のことを指す。
あの時はゲーテが背中に太陽の光を浴び、二人の女性が正面から陽光を受けていた。眩しいだろうに、妻のヘクスと娘のリープはゲーテの姿を刻み込もうとするかのように見つめてきていた。
そういえば、あの日の夜も扉越しに会話をした。
明るい日差しがゲーテの目元にかかる。視界が閃光を受けたように明るくなる。ゲーテはその一瞬、意識を過去に移した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
出発前日の夜、家族で食卓を囲んで夕食を食べていたにも関わらず、その日は娘のリープと父であるゲーテの間で会話が交わされることはなかった。
リープは前と比べて随分落ち着いたとはいえ、まだまだ年頃の娘である。父親と会話したくない日もあるだろう。ヘクスもそれを弁えていて、普段は何も言わなかったが、今日に限っては閉口していた娘を叱った。
何故なら今日を終えればゲーテと次に顔を合わせるのはいつになるのか分からないのだ。それどころかもう二度と会えなくなる可能性だってある。だから、せめて今日はお父さんとめいいっぱい話しなさい、と。
だがヘクスの説教にリープは自分の部屋に閉じこもるといった形で答えた。
ヘクスは娘の態度に怒りを感じたようだが、ゲーテはそれをどうにか宥めた。
敏感な思春期を超えてからは父を再び認めるようになった。それに相次いで昔のように会話も多くなった。
しかし魔王討伐の任を与えられ、家を長いこと離れることが決まってからリープの態度は過去と同じものになっていった。つまり父を無視し、会話も極力しないようになっていったのだ。
ハッキリと把握できないものの、娘がそういった態度を取るのをゲーテは何となく予想できていた。
しかしそれを無理に改善しようというのは無理がある。
さらに魔王討伐といった世界の一事に関わる以上、娘のためだけに仕事を断るなんて出来るはずもない。故にゲーテはどうすることもできず、ただ甘んじて娘の反応を受けるしか無い。
確かに出発前に娘と話せないのは残念であるが……。
特別な日の前日ではあるがゲーテはいつもどおりの時間に床についた。
こういう日にこそ普段通りであるのが一番なのだ。それをゲーテはよく分かっていた。
夜が更け、日が変わり少し経った頃。
眠りについたゲーテの身体に信号のような刺激が走った。
それは近くに何者かが立つと気配を察してしまうゲーテの体質が働いたためだった。
目覚めたゲーテは扉の前から誰かが動く気配を感じていた。
「パパ……」
それはあまりにも小さくか細い声だった。
「リープか?」
家族であるリープは当然ゲーテの体質を知っている。だからゲーテが起きていることも予測できたのだろう。扉の先から驚くような気配は感じられなかった。
ゲーテの問いに真夜中の訪問者は答えなかった。代わりに沈黙と言葉を声に出そうとしてすぐに引っ込めたりといった動作を何度か繰り返した。
「……本当に行っちゃうの?」
ようやく絞り出した声には戸惑いや恐怖、怒りや焦燥といった様々な感情を含んでいた。
その一言を繰りだすまでに頭のなかで数多の言葉を吟味していたのだろう。散々悩んだ末に出てきたのがいかにも子供っぽいこの問いかけなのだった。
「ああ。明日の朝に私はこの家を出る」
ゲーテは淡々とした口調で言った。
今更取り繕った所でゲーテが長い出張に出てしまう事実は変わらない。嘘も通じる時期ではなくなっている。故に正直に言うのが一番ダメージの少ない回答だった。
リープもそれが分からないほど幼くはない。
想像通りの回答が返ってきたからこそ、彼女は口を閉ざしたのだろう。
静寂が流れた。
扉の先で大人になろうとしている娘は果たして何を想っているのだろうか。
「一つ訊ねてもいいか?」
リープはその質問に答えなかったが、ゲーテはそれを無言の肯定として受け取った。
「リープは今誰かと付き合ったりはしてないのか?」
「……え? ええっ!? い、いないよ、そんな」
完全に意表を突かれたようだった。慌ただしく動く音が聞こえた。
「では気になっている子はいないのか?」
「えっと、それは……えっと……し、質問は一つだけじゃなかったの!?」
苦し紛れに言ったのがよく分かる。
やはりいるのか、と父親として寂しさと少々の怒りがゲーテの心に到来した。
「リープも大きくなったものだ。あんなに小さかったのにいっちょまえに恋をするようになった。よく大人になれば時間の流れが早くなるというが、お前が生まれてからは本当にあっという間だったよ」
ゲーテは目を瞑った。
生まれてくる性別を間違えたのではないかと思うほど活発に動きまわる幼少の娘の姿が昨日の事のように思い出せる。
幼少の頃だけではない。リープが生まれたその瞬間から今日に至るまでの日々をゲーテは容易に想起させることが出来た。
「お前が居て、お母さんがいてくれたから早く感じたのだ。人生で最も幸せな時間だった。ただ明日からは少々その連続した時間が途切れてしまうだけだ。……残念ではあるけど、幸福な時間が終わるわけではない。いや、終わらせるわけにはいかない。だからこそ私は暫く家を空ける必要がある」
ゲーテ一人が魔王討伐に向かった所で事態が反転することはそうそう起こりえない。しかし、かといって彼らの侵攻を見守り、危険が迫った瞬間にだけ行動しては守れるものも守れない。
再び安寧の日々を獲得するために戦場へと旅立つのだ。
「これは私の願望なんだが、今回の事を特別なことだと思わないで欲しいんだ。あくまで普通の日々を送ったままでいたい。そうじゃないとこれが最後の別れみたいな雰囲気になってしまうからな。それは避けたい。……俺の言いたいことが分かるか?」
「……うん」
自分で言っておいて幼稚な台詞だなあと思った。
誰でも思いつくような稚拙な願望に言葉回し。若者が将来の夢を語るような青臭さを感じる。
だからあえてゲーテは若かりし頃の一人称を使ってみた。
「私は絶対に家に帰ってくるよ。何年かかるかは未知数だが、その時にはお前の恋人の顔を拝ませてもらおう。そして娘が欲しければ私を倒してみろと恋人に豪語してみせる」
「大人げないよパパ。それに恋人がいるかどうかもわからないし、結婚だってするかどうか……」
「さあ、分からないぞ。時間の流れは早くても事態の展開は早いからな。何にせよ、空白の時間の成長を私は見届けてみせる」
親馬鹿ここに極まれり。でも、これが子供を愛する親というものだとも思う。
「馬鹿だね、パパは。でも……うん、分かったよ」
「理解してくれたか。なら、今日はもう寝なさい。さっきも言ったけど、普段通りでいいんだ。明日の朝もいつものように朝食を食べて、『いってらっしゃい』と声をかけてくれれば私は満足だ」
「うん」
リープは扉に背中を預けて体育座りでもしていただろう。立ち上がる気配がした。
「ねえパパ、最後に一つだけいい?」
「何だ」
「私は約束を守る人が好きなの。パパは約束を守ってくれる?」
「当然だ。娘に嫌われたくない」
「なら……絶対に帰ってきてね」
「ああ、任せろ」
こうしてゲーテは娘と約束を交わした。
――これより数年後、確かにゲーテは約束を守って帰宅を果たすことになる。だが……。
その日の翌日。
特別な日にも関わらず、ゲーテが願ったようにデイパ―家は普段通りの日常の中にいた。
いつものように――といってもほんの少しだけ起床時間は早かったが――起きて身支度を整えた後、リビングに降りる。妻のヘクスが用意してくれた朝食を食べているとパジャマ姿のリープが瞼を擦りながら席につく。
食べ終わると皿を片付け、部屋に戻って荷物の中身を再度確認。次に窓の締め忘れなどがないか確かめる。出発の準備が整ったところで数秒間部屋を眺めた後、意を決したようにドアを開けて部屋を出た。
そのまま玄関に直行し、外の世界へ足を踏み出す。その際、眩い陽射しがゲーテを襲った。額に手を当てながら光源を見上げた。
ゲーテに続くように足音が後方からした。
振り返るとエプロン姿のヘクスとパジャマ姿のままのリープが並んで立っている。
二人の女性はほんの少し寂しそうな、しかし悲しい顔は見せまいと精一杯の笑顔を向けてくれている。
ゲーテはその時二人だけを見ていた。背景に我が家見えるぐらいでその他のものは意識の外だ。
視界云々の話ではない。ゲーテは世界のことを完全に忘却していたのだ。
そこに二人の女性が同時に口を開いた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ゲーテさん」
「ゲーテ様」
名前を呼ばれてゲーテは記憶の旅から帰ってきた。
目の前にはあの時と同じように二人の女性が並んで立っている。違うのは女性がそもそも別人であること、そして今回はゲーテが見送る側ということだろう。
エルルは特に変わったところはなかったけど、隣のメディはゲーテの様子に気づいてたのか、不安そうな瞳をしていた。
ふと昨夜の会話を思い出す。
――その時ゲーテ様は何を見ていましたか。
メディは何を思ってこのような問いをしたのだろう。彼女が想像したように家族の姿と我が家を目に焼き付けていたが……。
いや、無用な詮索は無用だろう。
何を見てたか、見ていなかった。これは恐らく今の自分には関係のないことだ。なので余計なことは隅に追いやろう。
雑念を振り払うとゲーテは二人に向き直った。
言うべき言葉は一つ。ヘクスとリープが自分に向けて言った言葉をかけてやればいい。
息を吸い、笑顔を浮かべた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「あなた」
「パパ」
二人は息を吸い、笑顔で言った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
――いってらっしゃい。
呼応するように送られる側は答える。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
――いってきます。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
出発の朝、彼らは満面の笑顔を浮かべていた。
そして勇者は魔王となる 高木健人 @takaken
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