4話「事情」

 騎士だったゲーテは同時に戦士でもあった。

 そのためどんなに疲労を溜め込んだまま寝ていたとしても傍に立たれたら気配を察して起きてしまう。

 

 この習慣ばかりは妻や娘が出来ても治ることがなかった。

 最初は悲しんでいた妻のヘクスももうどうしようもないことが分かった後は呆れてしまったようだ。

 むしろ家族でお出かけする日なんかは積極的にゲーテの横に立って、「寝坊ですよゲーテさん」なんて意地悪に言ってきたりしたものだ。


 と、このようにヘクスは夫の体質を理解してくれたからいい。

 問題はどちらかというと娘のリープの方だった。

 リープが幼い頃、有り余るパワーのままに疲労困憊で寝ているゲーテの元にやって来て意味もなく起こしてくる。


 ゲーテは心ゆくまでグッスリ寝たい。リープは父と遊びたい。

 

 そんな二人の想いが板挟みになっていた時期は本当に参ったものだ。



 しかしそれも今では懐かしい記憶である。

 ここ数十年間、寝ている瞬間にゲーテの隣にやって来るものはいなかった。

 なのでゲーテは久しく真っ黒の何も無い空間にぼんやりと人の輪郭を持った何かが見つめてくる感覚を忘れていた。


 だから久しぶりにそれを味わっても、人が横に立ったから起こされたということにゲーテはすぐに気付けなかった。



「おはようございます、ゲーテさん」



 声に釣られるまま首を向けると、そこにはエルルの姿があった。



「リー……いや、エルルか」

「すいません、様子を確かめようとしただけで起こすつもりはなかったんです」

「構わないさ」



 ゲーテは身を起こし、体をうーんと伸ばした。



「そういえばメディが朝食を用意してくれているんです。起きてしまったのでしたら折角だし召し上がりませんか?」

「そうだな。昨日は結局一食しか食べなかったしお腹が空いているんだ。頂こう」

「では、先に戻ってメディに伝えておきますね。準備が整ったら来てください」



 訪問してきたばかりの頃のおしとやかな印象はナリを潜め、少女本来の活発的な一面が現れ始めていた。

 その様子はますます娘のリープに似ていると思った。



 部屋を出ると二人の女がこちらに目を向けてきた。

 二人の女とは勿論エルルとメディのことである。



「おはようございます、ゲーテ様。ここ数日まともに食事を取っていなかったように見えましたので腹に溜まるものを用意しておきました」



 サッとメディが手で示したのは食卓に並んだ料理だった。

 メイド服を着た彼女がそのような仕草をすると本物のメイドにしか見えない。

 

 ゲーテは多少訝しながらも大人しく席についた。

 するとソファで本を読んでいたエルルが真正面の席に座る。



「本の続きは読まなくていいのか?」

「気にはなりますけど、それよりも食事優先です。私達もゲーテさんを待ってたせいでお腹ペコペコですから」

「まだ食べてなかったのか?」



 その質問には対角線に座ったメディが答えた。



「ゲーテさんが起きたなら一緒に食べたいとエルルは申してまして。彼女の希望通りになりましたので私達も口をつけずに待っていたのです」

「そうだったのか」



 ゲーテは思わず「すまない」と二人に謝りそうになっていた。

 言いそうになったその時、初日に固めた警戒心がほぐれ始めている事にようやく気づいた。

 ゲーテが愕然としている後ろで頂きますの声がかかった。



「そうだ、勝手に本を読んでごめんなさい。大人しく何もせず過ごそうとしたんですけど、思った以上に苦痛で……」

「部屋を荒らしてるわけじゃないし、問題無いだろう」

「ですがあの本棚はあまり使っておりませんね? おかげで埃が舞ってしまいました。出る前にはきちんと掃除しておきます」

「私が見た限りそんなでもなかったような。メディは少し過敏過ぎない?」

「人様の家に泊まらせて貰ってるのです。それぐらいの配慮は当然のことでしょう」「別にそこまでする必要はないと私も思うが……」 



 いつしか普通に会話していることにもゲーテは驚いた。

 それもエルルだけではない。あのメディとも当たり前のように話している。



「この調子でしたら午後には雨も上がりそうですね」



 メディの言葉にゲーテはバッと顔を上げる。それから慌てて窓の方を見た。

 もはや最初は雷雨だったと思えないほど雨の勢いは弱まっていた。いつ止んだとしてもおかしくない。

 昨日見た限りではまだ数日は振り続けるのでは、と予想したのに。

 これでは早過ぎる。……早過ぎる?


 心中の違和感を察知する。

 どうして私は雨が上がるのを早過ぎると思った。

 彼女たちが来た当初は、早く止んでくれと祈りさえしたのに。

 私は……一体どうしたいのだ?



「ゲーテさん、少し気が早いかもしれませんけど、先にお礼を言っておきます。雨宿りをさせてくれた挙句、数日の宿泊もさせてくれて本当にありがとうございました。とても助かりました」



 朝食を食べ終えてゲーテとエルルは場所を暖炉の前に移していた。

 やがて食器を洗い終えたメディもやって来る。



わたくしの方からもお礼を。私共々受け入れてくださり大変感謝しています。何か残していきたいところなのですが、私達にはゲーテ様に残せるようなものは何もなく……申し訳ありません」



 項垂れたメディの姿を見ると、彼女は本当に昔のあの時と同一の存在であるのか疑わしい思いだった。それほどに今のメディは人間的で、かつ殊勝だった。



「そういえば聞いていなかったが、二人はどうしてここを訪れたんだ?」



 ゲーテの今更な質問にエルルとメディは顔を見合わせる。



「それは――」

「全くの偶然ですわ」



 エルルの言葉を遮ったのはメディだった。



わたくしとエルルは旅をしていました。あてのない旅です。フォードタウンに行く道すがら、雨に見舞われて慌てて屋根のある建物に駆け込みました。その建物がゲーテ様のお家でした。ですから私とゲーテ様が再開したのも偶然の産物です。過去のしがらみに囚われず、こうして面と向かい合うことができているのもそのためです」



 メディはそこまで語ると、話の主導権をエルルに回した。



「その、私達が旅をしている理由は世界を見るためです。私は驚くほど世界を知りません。ですからこの世界を知るために、こうして自分達の足で旅を続けています。まあ、計画が全くないせいか、ハプニングに遭ったら今回みたいに慌てちゃうんですけど……」



 話の終わりにはにかんでしまうエルルの姿は年相応のものだった。



「けど、こういったハプニングもたまにはいいなあって思うんです。だってそのお陰で新しい出会いがあったりしますから。ゲーテさんとの出会いもその内の一つです。私は生涯を終えるまでずっと、この三日間を忘れないと思います」



 ゲーテはこの二人に対し別段何かをして上げたような事はない。

 むしろ昨日までの二日間は二人を拒絶し、嫌な思いをさせてたはずだ。

 なのにこの三日間を忘れないと豪語するのはおかしいものがある。


 つまり、二人がここに訪れたのは偶然ではなかったわけである。

 メディは否定したがそれはゲーテに対し何か負い目があるからだろう。

 その負い目の心当たりもゲーテにはある。どうしてその行為に及んだのか、理由までは分からないが……。


 しかしそうなるとエルルの姿形が娘のリープに一致しているというのも偶然なのかそうでないのか分からなくなってくる。


 いや、ある意味では運命だったのだろう。

 彼女たちがここを訪れるつもりだったならば、ゲーテとエルルが顔を合わせるのは必然だったからだ。

 リープに似せたのか、それともリープに似ていたのか、という違いはあっても大したことではない。



「ここを出たらどうするつもりなんだ?」

「予定通りフォードタウンを訪れるつもりです。結構歴史のある街だと聞きました。数日滞在してからまた違う地へ旅立とうと考えています」

「そうか。漠然とした事は知っているようだが、フォードタウンの歴史や名所も知っているのか?」

「いえ、そこまでは」



 私はこれらを聞いて何をしようとしているのだろうか。

 こんなことを聞いても意味が無いと理解しているはずなのに。

 けれど言葉と感情は止まらない。



「歴史といってもあの街は一度崩壊している。そこから復興した過程が面白いんだ。私があの街に惹かれている理由はそのためだ。まあ、その名残で残った制度はあまり快く思ってはいないが……」

「へえ~、何だか興味が湧いてきちゃいました」



 エルルの瞳が一層輝いたように見えた。

 娘のリープも好奇心を持つとこのように瞳を輝かせていたのを思い出す。



「折角だ。私がエルルにフォードタウンを案内してあげようか?」

「えっ? い、いいんですか?」

「私みたいなジジイでは不満か?」

「い、いえ、そんなことない……どころか嬉しいぐらいなんですけど、その……」



 慌てふためくエルルの姿を見てゲーテは優しい笑みを浮かべた。

 

 ここまで会話を続けてゲーテは己の感情に気づき、そして決着を付けていた。


 雨が止むのが早過ぎる、と慌てた理由。

 言い訳のようにスラスラと街のことを説明しようとする理由。

 

 その二つが示すのはとても簡単なもの。

 ただ、今のゲーテにはすぐには受け入れられない感情。

 でも彼はいつまでも悩み続けるような脆弱な心の持ち主ではない。



「私はこう見えて寂しがりやなんだ。いつまでもいてくれ、などと馬鹿げたことは言わない。君たちが旅立つ日までここに泊まるといい」



 それは少しでも長くエルルといたい一心だった。

 

 ゲーテが寂しいというのも一理ある。

 けれどそれだけでなく、エルルと言葉を交わしていると心が自然と穏やかになっていく自分がいることに気づいた。

 勿論その訳はエルルが娘のリープに似ているからで、長く娘を喪失していた身には例え相手が偽物でもいいほどに愛する者を求めていたのだ。



「それは……本当に?」

「ああ。当然君の侍女であるメディも泊まりこんでくれて構わない。彼女が拒否するなら話は別だが……」

わたくしはエルルの言葉に従うのみです。己の意志は関係ありません」



 メディが言い終えるのを見届けて、ゲーテはエルルの方に顔を向けた。



「ということだそうだ。後は君次第だがどうする?」

「では、喜んで申し出を受け入れさせてもらいます。これからまた数日間よろしくお願いします!」



 エルルは元気よく声を出して頭を下げた。


 ゲーテは思う。

 果たしてこの選択が、この出会いが私達にもたらすものは何だろう、と。

 願わくば双方共に実りのある数日間になればよいのだが。


 ゲーテは窓から外を見上げる。

 空はすっかり快晴になっていた。



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