3話「名前」
ゆらり、と影は扉の前に立った。
この扉の先に目的の人物がいる。
やろうとしていることは簡単だ。
目の前の扉を開けて、この身を部屋に滑りこませる。目的の人物の前に立ち、そして――。
だけど目的の人物のことを影はまだよく知らない。
果たして感情のまま、行動に移していいのだろうか……?
影は暫く扉の前で立ち尽くした。
長い逡巡の末、影はそっと扉の前を離れていったのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
外は相変わらず雨が振り続けていた。
流石に昨日ほどの勢いはなくなっていたが、それでも外出するのを躊躇うほどには降り注いでいる。
この調子だと晴れるまでにまだ数日掛かりそうだった。
ゲーテは今日も引きこもり生活を続けていた。
もう少し雨の勢いが弱くなっていれば夜の内に彼女たちは引き上げていたかもしれない。しかし、この雨じゃ厳しいだろう。
それにゲーテ自身も雨が止むまで、と言った。故に彼女たちが居残っていたとしても何も不思議ではない。
無理矢理本を読み進めることで時間を潰し、時刻は既に夕方を越していた。
昨日で懲りたのか、彼女たちからの干渉は一切ない。
それがゲーテにとってはありがたかった。
しかしゲーテの側で問題が発生した。
幾ら年を老いていくうちに食が細くなってくるとはいえ、人間は食事を摂らねば生きていけない。
ゲーテの胃が食料を求めて悲鳴を上げていたのだった。
歴戦の勇者も腹の減りには叶わないということだ。
仕方なく立ち上がり、外を窺うようにドアを開けた。
リビングはやけに静かだった。暖炉で薪がくべられている音ぐらいしか聞こえない。
二人の女が動いている気配もなかった。
そういえば昨日から二人が会話しているような音も全く聞こえなかったことに今更気づく。
二人が家にやって来てから存在を主張したのは少女がゲーテに夕食を勧めてきた時と、夜中ぐらいだろうか。
メイド服の女はすぐに発見できた。
リビングの中心には暖炉の前に大きなテーブルと、それをコの字に囲んで開いた口を暖炉に向けるように並べた三つのソファがある。
その内の一つ――ちょうどゲーテの部屋を出た真正面に位置するソファに安らかな寝息を立てて眠り込んでいるメイド服の女が見えたのである。
メイド服の女は足を綺麗に揃えて床に着けながら上半身だけソファの上に横たえて寝ている。
どうやら座りながら寝てしまい、途中でバランスを崩して上半身だけ倒れてしまったのだろう。
夕方まで眠るほど疲れていたのか、あるいは家の主が起きるのを待っていたが力尽きたか。
そんな馬鹿なことあるはずが……。
「あ、起きたんですね」
ハッと振り向くと、リープ――いや、この子は娘ではない――ではなく、訪問者の少女が立っていた。
「中々部屋から出てこなくて私もメディも心配してたんです。けどどうしても体力が保たなくて交互に休憩を取ることにしたんです。今はメディが休憩中で、私があなた様を待っていたんです」
えへへ、と少女は微笑んだ。
違うとは分かっていても懐かしさと愛しさの感情が溢れるのをゲーテは止められなかった。
「いつ起きてきてもいいようにって、すぐに食べられる物を作っておいたんです。今温めますね」
少女はタッと台所に駆け出し、鍋に火を掛けた。
すると胃をくすぐられる匂いが辺り一帯に広がる。
少女が料理を温めて皿に盛りつけている間、ゲーテは何も出来なかった。
忙しなく動く少女の動きを目で追って――ゲーテは再び過去の映像と重ねあわせていたのである。
「ねえパパ、すぐにご飯の準備をするから座って待っててね。よいしょっと」
と言いながら、小柄な身体をせっせと動かす。
ゲーテはそんなリープの後ろ姿を見ながらこう言ったのだ。
「やけに張り切ってるな。もしやこの料理もリープが作ってくれたのかい?」
するとリープは「うっ」と動きを一瞬止める。
「あははー、本当は作りたかったんだけど、私はまだまともに料理が出来ないし。これは――」
「――これはメディが作ったスープです」
言われてゲーテはハッと現在に意識を戻した。
気づけばゲーテは椅子に腰をかけており、すぐ横には料理を提供し終えた少女が正面の席に座ろうとしていた。
「メディ……はあの女のことか」
ゲーテはちらりと背後の方を見た。
ソファで眠り込むメイド服の女はどうやらメディという名を謳っているらしい。
「まさかだけど毒なんかが入っていたりはしないよな」
「メディがあなた様はそう仰るかもしれないと言ってました。安心して下さい。何も悪いものは入っていませんよ。信じられないのでしたら私が毒味をしましょうか?」
「――いや、いい」
スープは野菜と肉を煮込んだ簡単なものだった。味付けも最低限のものになっている。
しかし基本に忠実な料理は家庭的な味と、何より暖かさをゲーテにもたらせた。
ゲーテが食事を摂っている間、少女は黙ってこちらを見続けていた。
顔を見れば目の下に小さな隈があるのが見える。
一度スプーンを置いて、少女に言った。
「別に私の食事に付き合う必要はない。疲れているんだろう? 少し寝るといい。ソファだと寝にくいというなら、空いてる部屋を使っていいから――」
「いえ、お気遣いは無用です。それに一人で食事は寂しいですよ。誰かが傍にいるだけで食事は美味しくなるんですから。こればかりは我慢して下さい」
少女は微笑みを携えながら言い切った。
ゲーテはこの言葉に覚えがある。
発言した人物こそ、親しみがあっただけに少しムッとした表情で言っていたが内容はほぼ変わらない。
「もう、パパったら何のために家族がいるのよ。こうして一緒に過ごすためでしょ。何言ったってパパが食べ終わるまで付き合うんだから!」
それはゲーテが仕事で夜遅くに帰った日のことだった。
妻のヘクスならばすんなり受け入れたものの、食卓に座って待っていたのは娘のリープの方だった。
ゲーテが「私は一人でも食べれるから、子供は早く寝なさい」と叱ると、逆にリープはムキになって以上の台詞を言ってきたわけである。
それ以来、ゲーテが家で食事を摂る時は必ず誰か一人は同じ席を囲んでいた。
今思えば当たり前のようになっていたその事が実は幸せだった事に気付かされる。
妻と娘を喪った後の食事は虚しかった。
外に出れば誰かと食事を取ることが出来ても、家に帰れば一人で黙々と口を動かす日々。
けど、昔の日常が数十年越しに思わぬ形で戻ってきていた。
「――君の名は?」
「え?」
少女は突然の質問に戸惑ったような反応を見せた。
重ねて言う。
「君の名前を聞いてるんだ」
「あ、はい。えっと」
少女は一度息を吸い込み、その名を口にした。
「私の名前はエルルといいます」
エルル、か。
ゲーテはその名を深く噛み締めた。
「良い名前だ」
ゲーテは立ち上がり、空になった食器を持ち上げる。
「ご馳走様。皿は私が片付けておくから、エルルはもう寝なさい」
そう言ってエルルに背を向けた。
「待ってください!」
が、エルルが制止に入る。
「何だ」
「あの、良ければあなた様の名前も教えてはくれませんか?」
「私の名前? 私はゲーテ・デイパ―という者だ」
「ゲーテ・デイパー……? 待ってください、まさかその名は――!」
エルルはゲーテの名を聞いて何かに至ったらしい。
しかしゲーテはやんわりとその先に続く言葉を止める。
「何、気にするな。私は今やただの老いぼれだ。君が何に気づいたかは知らぬが、私にはもう関係のないことだ」
「でも、ゲーテ様がやったことは偉大な事なはずです」
「偉大、か。多くの犠牲を払った報酬がその一言だというならば、偉大とは何とも安っぽい価値の言葉であるな」
エルルの言葉を待たずにゲーテは歩みを再開した。
この時ばかりはエルルがどんな表情をしているのか全く予想ができなかった。
ゲーテは窓に目をやる。
雨は依然降り続けているが、気づけば雷は止んでいるようだった。
空が晴れるのも近い。
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