2話「拒絶」
ゲーテは雨が嫌いだった。
もっというなら雷雨が嫌いだった。
元々雨自体そんなに好きなものでもなかったが、それは一般の人が感じる「雨の日は憂鬱」だとかその程度だった。
しかし今や明確に嫌いだと断言できる。
彼をそのように変えてしまった理由は単純明快である。
雨と雷が泥のような雲から落ちてくるその日に、生涯忘れられぬ傷を負ったからだ。
今でもゲーテは忘れることが出来ない。
あの日、あの瞬間、感じた途轍もない絶望を。
――ヘクス・デイパ―
――リープ・デイパ―
生涯を共にするはずだった家族の名が連なる墓標を目にした時に降臨した天空の叫びに、彼はいつまでもいつまでも苛まれ続けていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
一体どれほどの時間固まっていたのだろうか。
しかしそれも無理はない。
奥にはメイド服を着た妙齢の女。
そして、目の前には亡き娘と同じ姿の少女――。
これで動揺しない方がおかしいぐらいだ。
「あの……顔色が悪いのですが、大丈夫ですが……?」
「あ……いや……」
滅多に狼狽しないゲーテが言葉を詰まらせた主な原因は二つある。
一つは娘と同じ形の少女が口を開き、無垢な瞳でゲーテを覗き込んできたこと。
もう一つは少女から発せられた声がゲーテの娘とは違うものだったことだ。
「失礼ですがゲーテ様、もし体調が優れないようでしたら
混乱を極めたゲーテを引き戻したのはメイド服の女の言葉だった。
ゲーテはメイド服の女と少女を交互に視線を向けた。
それから胸に去来する数多もの疑問を飲み込み、ゲーテはようやく口を開いた。
「……雨が止むまでの間だけだ。止んだらすぐに出ていけ。いいな」
有無を言わせぬ口調で言い切った。
もしここにいるのがメイド服の女だけだったら何があろうと家に引き上げることはなかっただろう。
渋々受け入れを受諾したのは少女がいたからだ。
例え娘と姿が似ているだけの別人とはいえ、この豪雨の中外に放りだすなんてことゲーテには出来なかった。
少女とメイド服の女は小さな声で礼を言い、ゲーテの後に続いて住居の中に足を踏み入れる。
「……少しそこで待ってろ」
玄関に二人が入ったのを見届け、ゲーテはタンスから大きめなタオルを何枚か引っ張りだした。
「これで身体を拭くんだ。あちらには風呂がある。既に暖めてあるから入りたいなら入れ。その間に暖を焚いておくから、暖炉の側で衣類を乾かすといい」
バスタオルをぞんざいに少女に放り投げた。
少女は多少オロオロしたものの、どうにか掴むことに成功する。
「すいません、何から何まで……」
「気にするな。どうせ雨天の間だけの仲だ。君も、そして後ろのご婦人も。――名を名乗る必要もない」
ゲーテは二人の女を睨み――特にメイド服の女にはきつく――二人の言葉も聞かずに踵を返した。
「……私は書斎に篭る。勝手な事だけはするな」
と、一方的に言葉を突き刺してゲーテはそのまま自室に入ってしまったのだった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
一体これはどうなっているのだ。
ゲーテは閉じたドアに背中を押し付けながら天井を仰いだ。
まず、訪問してきた少女が娘のリープに瓜二つという時点でおかしな事が起きていると断言できる。
しかし、リープが亡くなったのはもう数十年も前の話になる。
ゲーテは一度も娘の顔を忘れまいと決意し、実際に記憶を刻み込んでいるのだが、どうしても細々とした形は削げ落とされてしまう。
故に多少の面影が似ていれば、リープと少女の姿を重ねてしまうといった事態もあるかもしれない。
つまり、瓜二つと感じたのはゲーテの勘違いだったとも考えられるわけだ。
なのでこちらについてはまだ納得が出来る。
更に問題なのはメイド服の女の方だ。
いくら過去の話とはいえ――何故彼女がゲーテの前に姿を現すことが出来たのか。
あの女と娘の形をした少女が共にいる。
それがゲーテにとって大きな問題だったわけである。
話を聞くのは簡単だ。
しかしあの女が共にいる以上、容易に隙を見せるわけにはいかない。
警戒心は決して解くな。
いかに少女がリープに見えるからって、決して心は開くな。
ドアに耳を押し当てる。浴槽の方から微かにだが水が流れる音が聞こえた。
この調子なら暫くは大丈夫だろう。
それに幾らなんでも真正面から襲ってくるほど彼女も馬鹿ではあるまい。
雨が止むまでの辛抱だ。
雨雲が去ったその瞬間、否が応でも家の中から排出してやる。
ゲーテは決意を固めると本棚に歩み寄り、読みかけだった本を取り出した。
ベッドに腰を落ち着け、本を開いた。
しかし本の内容は一切頭に入らなかった。
身体は本の活字を追うだけで、まるで背景を眺めているような感覚だった。
まともに読めてないのは分かっていても、ゲーテは本を読むことしか出来なかった。
それ以外に書斎で時間を潰す方法はない。そしたら嫌でも部屋の外に意識が向いてしまうだろう。
そうなると必然的にあの少女が気になってしまう……。
自分を無理矢理納得させながらゲーテは頁をめくり続けた。
気づけば数時間もの時間が経過し、曇天のためにわかりにくいが夜に突入しているのが見えた。
そんな時だった。
ゲーテの部屋にノックがされる。
「あの……」
聞こえてきたのはあの少女の声だった。
遠慮するようなか細い声だった。
「お風呂、ありがとうございました。それと失礼を承知で申し上げますがもう夜です。お夜食を取られた方がいいんじゃないか、なんて……」
「食料なら台所にある。私はいらないから勝手に食べてくれ」
ゲーテは心を殺して言った。
「ありがとうございます。ですが、私達だけというのは忍びないです。迷惑なのは分かっていますが、あなた様も部屋を出てお食事を取られた方が良くないですか?」
「……私はいらないと言ってるだろう」
「私達が邪魔なんですよね。視界に入らない場所にいますから、どうか私達のことは気にせず……」
「いらないと言ってるだろうっ!!」
怒鳴るつもりなんてなかったのに、気がついたら声を荒らげていた。
ドアの向こうからハッと息を飲む音が聞こえた。
その時の少女の表情を――いや、うっかり琴線に触れてしまった時のリープの表情をゲーテはくっきりと思い浮かべることができた。
「……あまり腹が減ってないし、体の調子もあまり良くないのだ。だから食事は君たち二人で取ってくれ」
「……分かりました」
少女の気配がドアから離れていく。
「ごめんなさい」
最後に放った少女の寂しそうな言葉が何故かゲーテの胸を痛ませた。
「相手は見知らぬ少女だぞ。なのに何故私は心を痛ませている……?」
ゲーテは顔を手で覆い、押し寄せる妙な感情に頭を悩ませた。
部屋の窓が強風で揺れ、雨音が激しく叩きつけている。
雷雨は未だ止む気配を見せなかった。
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