1話「平穏なる一日」
ゲーテ・デイパ―の一日は珈琲を飲むことから始まる。
ベランダのほとりで柔らかい椅子に体を預け、空を眺めながら煎れた珈琲を口に運ぶ。
空は今日も快晴。良い一日になりそうだ。
ぼんやり眺めていると、ゲーテの目に一羽の鳥が羽ばたく姿が見えた。鳥は人の手では届かない上空から急降下して地面スレスレで飛翔の軌跡を描いた。
それを見てゲーテはふむ、と考える。
普段空高く飛ぶ鳥が低空飛行をすると次の日は雨が降るとよく聞く。
これは別に鳥に限った話ではなく、自然に敏感な動物たちは何かしらの兆候を察すると普段とは違った行動を取ることが多い。
中には迷信を過信し過ぎだと思い込んで、全く信じない人も中にはいる。
けれどゲーテはこの考えを信じていた。
ゲーテは雨が嫌いだ。もっというなら雷雨が嫌いだ。
だからこういった雨の傾向に関することは詳しく、また信心深かった。
次の日が雨となると、食料などをもう少し買い足した方がいいかもしれない。
頭のなかで本日の予定を組み直しながら立ち上がり、家の中に戻ると今度はキッチンに立って朝食の準備を開始した。
日によってメニューは変わってくるが、お気に入りはハムエッグトーストにレタスやトマトを和えたサラダの二品である。もう一昔前ならもう一品欲しい所だっただろうが、この頃は胃が昔ほど量を受け付けなくなった。
朝食を終えた後は軽いストレッチをしてから家の周りをぐるっと走った。一汗かいたらシャワーを浴び、クッキーと紅茶の準備を始める。
運動しやすい服から普段着に着替えるとティータイムも兼ねた読書タイムに入る。
ゲーテは特にこの時間集中する。彼は元々読み物といった文化が好きだったのだが、若いころはじっくり本を読む時間がなかった。だからこうして年老いてから余生を謳歌しているわけである。
それから暫くすると街の方から鐘の音が聞こえてきた。
十二時になった事を知らせるものだ。
切りのいい所で読書を切り上げ、今度は出かける準備を始めた。
家から街の距離は十分かかるかどうかという所だ。
ゲーテは街より少し離れた丘陵の上に家を建てて住んでいる。一応は近くの街であるフォーゼタウンの領地に住んでいることになっていた。
街に出るとお得意のレストランに入って昼食を食べた。その間に店員と雑談を交わしたりして一時間程度したら店を出る。
その後は食料が少なくなっていたら食料の買い込みをしたり、あてもなく道を歩いてめぼしい店を見つけたら入ってみたり、公園に入って道行く人々を眺めていたりと様々だ。
今日は明日が雨であることを信じ、食料の買い足しをするつもりだった。
また、雨になると滅多に外に出なくなるので先に好きなものの成分を摂取していくつもりだった。
レストランは大きな道沿いにあって、店を出てからもしばらくは大きな通りを歩いていた。
昔ならこれほどの幅があれば一軒や二軒、店を建ててしまうことがあったけど最近ではそうもいかない。
歩道の隣りにある整備された道は車道といって、車のみが走れる道なのだ。
車が開発された頃はお金持ちの王族や貴族ぐらいしか買えなかったが、今では一般市民でも購入できるほど値が落ちてきた。
実際に確かめたことはないが各大陸の代表的な都市にはもっと大きな車道があったり、一般市民が公共的に乗れる大型の車が走っていたり、都市間を繋ぐ車だけが走れる道路――普通より速度を出せることから高速道などと呼ばれているらしい――があったりすると聞く。
フォードタウンのような辺境な都市は人々が最も使うメインストリートぐらいにしか車道はない。
もっと田舎の町や村なんかだと、そもそも車道など存在しない。
何にせよ、魔力や
今はまだ馬車や人力車といった生物を利用した移動手段が活発だが、いずれ近い将来、そういったものは「文化」として記念に残るぐらいで主要な移動手段は車に移るだろう。
もっとも、その頃にはゲーテは寿命を迎えているだろうが……。
ゲーテは途中で道を折れ曲がり、目的地に向けて一片の迷いもなく足を進める。
やがて彼がやってきたのは人が横に二人しか並べないぐらい狭い道幅に店が連なる坂道だった。
ゲーテはそのうちの一店――クレーデル・カフェと銘打たれた看板の扉をくぐった。
「いらっしゃい――って、デイパ―さん!」
「やあ。今日も元気そうだね、アメリア」
ゲーテを迎えたのは店の看板娘であるアメリア・クレーデルだった。
彼女は長い髪を後頭部の高いところで一つにまとめて垂らしている。ゲーテにはよくわからないが、若い者達の間ではポニテールと呼ばれている髪型らしい。
色白の肌と結晶のような瞳から美人であることが一目で分かる。しかし見た目に反して明るい笑顔を振りまく彼女はどちらかというと可愛いと揶揄されることが多い。
美人と可愛いを兼ね備えた、明るい娘だ。
「席は空いてるかな?」
「店内を見れば一目瞭然でしょう? 今日も感謝御礼、席が選び放題よ」
店の中にはゲーテを除いて二人しか客がいなかった。
ゲーテが店を訪れた時に席に着いてる人間は十名を超えたことがないと思う。
よく潰れずに店を経営していけるものだ、と最初は感心したが、通っている内にこの隠れ家的なカフェはゲーテのような通に愛されているのを知った。
店内に広がるゆったりとした雰囲気と、相反する輝かしい娘の笑顔がこの店を支えていた。
「でも珍しいわね。デイパーさんが来たの、今週で三回目でしょ? いつもは一週間に一、二回しか来ないのに」
気がつけば勝手にゲーテ専用の席に認定されていたテーブルへ案内される。
「明日からどうやら雨が降るそうだからね。数日の間は来れそうにないからこうしてアメリアの顔を拝みに来たんだよ」
「ああ、そういえばデイパ―さんって大の雨嫌いなんだっけ。でも暴風雨じゃない限り傘さえあれば問題ないでしょう? むしろ雨という憂鬱な日にあたしに会いに来ればいいのよ」
「雨の日にどうしても人恋しくなったら来ることにしよう」
「あたし、待ってるからね。それで注文はいつものでいいのかしら?」
アメリアは自分の仕事を思い出してゲーテに訊ねた。
「いや、今日はカフェオレを頼みたい」
「あら、本当に珍しいわね。いつもはブラックなのに」
「雨が降る前兆かもしれんな」
「意味がわからないわ」
アメリアが呆れてため息をつく。
それを見てゲーテは雨天前日に起こる迷信を語ってみることにした。
「ふむ、アメリア、こういう話を聞いたことはないかい。普段は空高く羽ばたく鳥が低空飛行をすると、翌日雨が降るというものだ」
「ええ、聞いたことがあるわ」
「つまりこれと同じことだよ。それともアメリアはこの迷信を信じていないのかい?」
「信じる信じないの前に、考えたことがないわ。じゃあちょっと待っててね。煎れてくるから」
アメリアに一蹴されてしまった。
やれやれと心の中で肩をすくめながら頼んだカフェオレが出てくるのを待った。
「そういえば今日は店長の姿を見かけないけど、どこかに出掛けていているのかい?」
カフェオレをテーブルの上に置いた反動でアメリアの髪が揺れるさまを眺めながらゲーテは訊ねた。
「お父さんは珍しい豆が届いてるはずだーって買い出しに行ったわよ。そろそろ帰ってくると思うんだけど」
と、アメリアが言い切った時、人が入店してきたことを知らせる鈴が鳴った。
噂をすればなんとやら、ちょうどアメリアの父であり、またこの小さなカフェの店長であるユーリウス・クレーデルが戻ってきたところだった。
肩を落とした店長はこちらに気づいて近づいてくる。
「やあただいま、アメリア。それといらっしゃいデイパ―さん。ゆっくりしていってくださいね」
ユーリウスは人の良さそうな顔でゲーテに向かって微笑んだ。それから娘のアメリアに顔を向ける。
「おかえりなさいお父さん。どう、収穫は」
「それが街道に魔物が出てきてしまったらしくて、物資の運搬が遅れているそうなんだ。お陰で無駄足になってしまったよ」
「…………」
ゲーテは飲むふりをしながらユーリウスの言葉を真剣に聞いていた。
「あら……それは残念ね」
「こればかりは嘆いても仕方ない。気長に入荷するのを待つとしよう。一人で切り盛りさせて悪かったね。後は私一人でやるから、アメリアは休んでていいよ」
「やったあ!」
アメリアは歳相応の喜びを表現した。
次に体の向きを変えてゲーテの真正面の席に彼女は座った。
「アメリア、君は他に行くべき所があるだろう。少なくとも若さの影も形もない老いぼれと席を一緒にするものではない」
「いいえ、そんなことないわ。あたしはデイパーさんのお話を聞きたいの。それにデイパーさん、自分のことを老いぼれって言ってるけど、実年齢の割にピンピンしてるからね。その辺は自覚した方がいいよ」
なんてアメリアは真剣に言ってくる。
「さ、デイパ―さん。いつもの面白い話を私に聞かせて」
「ふむ、仕方ないのう。では――と行きたいところだが、実は何を話そうか考えていなくてね。元々来る予定がなかったのだから許しておくれ」
「ええー! そんな、あたし楽しみにしてたのに」
アメリアはプクーっと頬を膨らませた。
すまんすまんとゲーテは微笑みながら謝った。
ゲーテはアメリアにこれまでの人生に起きた刺激的な出来事を多少の虚飾を交えて話していた。
今の時代、人間同士の闘争はあれど、基本的には平和である。
昨今の若者は魔物の脅威を歴史上でしか知らないのだ。
故にその頃のエピソードを一つ一つ取り出し、緩急を付けることで一つの物語として話して聴かせるわけである。
もっともアメリアはそれを真実として受け止めているのか、あくまで空想の物語として聞いているのか、ゲーテには分からなかった。
「たまにはジジイの話ではなく、若い者のお話でも聞かせておくれ」
「といわれても、あたしはそんな劇的な人生を送ってはいないのよね。うーん、そうだなー……。ゲーテさん、今月の'シンデレラ'は誰が選ばれると思う?」
'シンデレラ'という単語が出た瞬間、ゲーテは一瞬顔を顰めてしまいそうになる。
どうにか抑えたお陰で、目の前の少女の眩いばかりの笑顔は守ることができた。
「私はあまり顔が広い方ではない。故にそういった予想は出来ないんだ。ただ、アメリアは充分'シンデレラ'に選ばれる美貌を持っていると思う」
「嬉しいことを言ってくれるわね。でもあたしみたいな街の外れにあるカフェで働く地味な女が選ばれるわけないわ。期待するだけ無駄ね」
「でももし選ばれるとしたら喜ぶんだろう?」
「当然よ。だって'シンデレラ'はこの街に住む女の子達の憧れだもの」
'シンデレラ'について語るアメリアはいつも以上に盛り上がっていて、瞳もキラキラしている。
しかしゲーテはこの街の'シンデレラ'システムをあまり快くは思っていなかった。この街の現状を作り上げた制度だけに声を上げて反対することはどうしても出来ないのだが。
「アメリアと会えなくなるとなったら生きがいが一つ減ってしまう。だから私は反対だ」
「お父さんと同じようなことを言って……。安心してよ。さっきも言ったけど、あたしが選ばれるわけないんだから」
アメリアはカラカラと笑う。
それから二人はしばし世間話に興じるのだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
カフェを出た後、ゲーテは数日分の食料や日常品を購入した。
一旦自宅に戻り、買ってきた物をテキパキと整理する。
作業を終えると少ししてから立ち上がり、自室から愛用の短剣を腰に忍ばせた。
もう一度外を出た時、日が暮れ始めていた。
外出する日にゲーテは必ずとある場所に赴くことにしていた。
とある場所とはかつては腕利きの冒険者が魔物駆除の仕事を請け負うための拠点としていたギルドのことである。
魔王が倒された今はかつてのように魔物駆除の仕事もあれど、商人達が欲しい素材を集めてこいとか、建築作業に人手が足りないから手伝って欲しい、など何でも屋の様相を呈していた。
ゲーテはそこで仕事を探すわけでもなく、室内に誂えた席に座り、一杯のビールを飲みながら冒険者達の話に耳を傾けた。
「おい、聞いたか。街道に出たあいつ、かなり強いらしいぞ」
「馬鹿が特攻して死にかけたらしいな。今頃病院でお寝んねしてるんだと」
「その馬鹿の二の舞いにならないよう、パーティを組んで挑んだのがいるみたいだけど、そいつらも返り討ちにあったらしいわ」
「お陰であいつが道を塞いでて街の行き来が制限されてるらしい。困った話だ」
冒険者達の会話は昼間に寄ったカフェで耳に入れたものを更に細かくしたものだった。
その話を盗み聞いたゲーテは静かに立ち上がり、噂話をしていた一団の横をスッと抜け、ギルドを出た。
ゲーテが外に出た時、辺りはもう真っ暗になる寸前だった。街灯がなければ道を歩くのも困難だったのではなかろうか。
しかしゲーテは足を家に向けるのでなく、例の魔物が出るという街道の方へと向かった。
街道を出て暫く進むと巨大な影がゲーテの前に立ちふさがった。
大きさはゲーテの身長を二倍にしてもギリギリ届かないくらいの巨漢。顔は豚のような醜い顔をしており、首から下の体は大木のような四肢が生えている。
魔物の中でもメジャーな種族であるオークであった。
「……ふむ。野良にしては中々にでかい」
オークは足元に立ったゲーテを睥睨する。しかしゲーテは物ともしない。
「私とて無駄な殺生は好まぬが……往来で立ち塞ぐというならば仕方あるまい」
ゲーテは腰に提げていた鞘から短剣を抜き出した。
オークは彼が武器を取り出したのを見て、己に敵意が向けらたことに気づく。瞬間、大木のような腕に筋肉を走らせて持っていた棍棒を振り下ろした。
あまりの衝撃に石で固められた地面がクレーターのように陥没する。掠っただけでも人間は粉々に砕けるようなあまりに強力な一撃だった。
だが、
「――遅い」
ゲーテはオークが腕を振り回すより早く、オークの後ろに回っていた。棍棒を振り下ろし、隙が出来たオークの背を睨みながら高く飛び上がる。
悠々と数メートル近く跳んだゲーテは真上から短剣を突き刺した。それだけに留まらず、頭からズボズボと刃が地面を目掛けて落ちていく。そして最後にはオークの体を突き抜ける。
一、二秒の間が空いてからオークの体は左右に真っ二つに割れて沈んだ。
「済まない。これが私の役目でな」
ゲーテは布を取り出しながら呟く。
「……昔に比べると腕が落ちたものだ」
かつて世界は魔王とその傘下の魔物達に支配されかけていた。
絶望が世界を包み込む中、数多の魔王軍を退け、ついには魔王の討伐に至った伝説の存在。
人は彼の者を勇者と呼ぶ。
月下の舞台で短剣を拭うこのゲーテ・デイパ―こそ、かつて勇者と称された人物そのものだった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ゲーテが予測した通り、翌日は季節外れの雨が降った。
晴れている日と違って室内で読書に勤しんでいたゲーテは玄関がノックされていることに気づいた。
突然の雨に困った旅人だろうか。
そんなことを考えながら彼はドアを開けた。
「あの、すいません。図々しいのを承知で頼みますがどうか雨宿りをさせて頂けないでしょうか」
訪問者の口ぶりはまさにゲーテが想像した通りのものだった。
しかしゲーテは訪問者達の顔を見て動きを止めた。
一人はまだ年ゆかぬ若き少女。
一人は若さと熟れた色気を兼ね備えた女性。
後者はメイド服でその身を包み、銀髪の短い髪を揺らしながら静かに成り行きを見守っている。
前者は腰まで伸びた黒い髪に触れながら、純粋な瞳をゲーテに向けていた。
馬鹿な、とゲーテは思った。
こんなことありえない、とゲーテは叫びそうになった。
サラッと流れる清廉な川のような黒い髪、宝石のような碧い瞳、神が精緻に作り上げた女神のような形貌を持つ少女はしかし、垢の抜けていない素朴さを窺わせていた。
ゲーテはそんな少女の姿をよく知っている。
何故なら亡くなったゲーテの娘と目の前の少女は瓜二つの姿をしていたのだから――。
死者の出迎えと、それによる愛憎の物語の始まりを雷鳴が告げ、ゲーテの平穏なる一日はこの日を境に終わりを迎えた。
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