7話「赤き瞳」
「それじゃあまたね、エルル。良かったら明日でも明後日でも……いや、毎日でも来てくれていいから」
「毎日は厳しいけど……また来るね。さようならアメリア」
結局乙女の会話は長時間に及び、辺りはいつの間にか夕焼け色に染まり始めていた。
「これでは午後の予定もへったくれもないな」
「まさかこんなに長い時間居座るとは思ってませんでしたからね。けどとても楽しい時間でした」
エルルの横顔は今までに見たことないほど楽しげな笑みを浮かべていた。
拙いお出かけプランで必要以上に喜んでくれたリープの表情とエルルの横顔が被る。
ゲーテは満足していた。
「では食材を帰りに買って家に戻りましょう。メディも私達を待っているはずです」
「ああ、そうだな。ただなエルル、この先についてだが……」
しかしどんなに充足感を得ていてもやらなければならないことは忘れていない。
歯切れ悪く言葉を区切ったゲーテに純粋な疑問の意志を持った瞳をエルルは投げかける。
「何でしょうか」
「実は私にはやらねばならぬことがあってな。一緒には帰れないのだ。陽が完全に落ちる前には帰るから先に戻っていてほしい」
「それは私ではお手伝いできないことなんですか?」
「ああ。厚意は受け取るがね。ただ店の場所は知らないだろう? だからこれを受け取るんだ」
エルルとアメリアが二人だけの世界に没入している間に書いておいたメモを手渡す。
食材が売ってる露店の他にも生活用品や服や下着の売ってる店の位置を記入した簡易的な地図だった。
「エルルもメディも女性であるだろう? 女性の服や必要な生活の品というのは正直分からない。それに私のようなジジイが付いていては買いたいものも買えぬだろう。良かったら買うと良い。お金は……これぐらいあれば足りるか?」
「え? あの、これは幾らなんでも過剰なような」
ゲーテがエルルに渡したお小遣いは大人が数ヶ月働いた分の給料でもなお足りぬほどの金額だった。
「身寄りがいないというのに、お金だけは腐るほど余っておる。使われずに土の下で眠るぐらいなら若い者に託したほうがよっぽど良いというものだ。遠慮もいらないし返す必要もない」
「しかし……」
「いいんだ、受け取れ。なんなら最初の三日間、私が粗末な態度を取ったお詫びと考えてくれてもいい」
納得したのか、それともゲーテの意地に屈したのか、どちらかは分からぬが観念したエルルは無言で紙幣をポケットに突っ込んだ。
「ではここで一旦お別れだ。また後で」
陽が落ちるまでもう猶予はあまりない。
約束してしまった手前、何が何でも守りたかった。
故にゲーテは用件を手早く済ませてしまおうと駆け出した。
そんなゲーテの背中を強靭な意志で見つめる瞳には気付かずに……。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
普段ならギルドに寄ってもう少し細かい情報を得てから魔物退治に臨んでいる。
ただ今回は被害とその加害者が明確なこと、そして早めに帰ることを約束していたので一直線に街道へとやって来た。
整備された道の端には魔物や動物を寄り付かせないように街灯が灯っている。
ゲーテならば法力を操り光を発生させることなぞ造作もないが……力を必要以上に振る舞うのは好ましくない。
ザッと見たところ件の魔物の姿は見当たらない。
道を外れた森の中でジッと身を伏せ、通行人を奇襲するといった寸法だろうか。
魔物と一口にいっても様々な種類がある。
よく見かけるのは既存の動物――犬や狼を凶暴化させたような魔物や、前回討伐を果たし、また今回の標的でもあるオークやゴブリンといったもの。
中には通常の生態系からは考えられないような造形をしたものや頭は爬虫類、足は四足歩行で背中には翼が生えているといった風に生き物の特徴を組み合わせて作り上げた生物もいる。
更には人間と同じ見た目と高等な知識を持つようなのもいたりする。
このように魔物といっても一つの生き物を示せないように、魔物の生態もそれぞれによって変わってくる。
多くのものが同一の種類の魔物は似たような性質を持つ。集団で一つの標的を襲ったり、夜行性の特徴を持つなり……。
時々変わり種が表れたり、また元々そういった生態のものは既存の性質に囚われずに自由気ままに動きまわるなんてものもいたりする。
さて今回の敵と思われるオークは人間や人型魔物のような高度な頭脳は持たないまでも簡単な思考能力をもつ魔物である。
彼らは単体ではなく集団で行動するのが殆どだ。
一個体は弱いと認識しているらしく、集団で襲いかかれば手強い敵にも勝ることを知っているのである。
とはいっても小柄であるゴブリンはともかく、人間より一回りも大きいオークが集団で襲ってきたりしたらたまったものではないのだが。
魔王が倒れたことによって終わりを告げた統一時代。
一つの時代に終焉が訪れて故郷である魔界に帰ることが叶わず、人間界に残留せざるを得なくなった魔物達が取った行動は多岐に渡る。
正気を失い、命を投げ捨てるかのように暴れたもの。
故郷に帰ろうと長い長い旅路に出たもの。
人間社会に溶け込みひっそりと暮らすようになったもの。
しかし大半は野生に還り、自然に身を潜めて生きるようになった魔物がほとんどだ。
オークもその一つで、普通ならば人目が着くような場所に出現したりしない。
何故なら姿を見せれば容赦なく命を奪われてしまうからだ。
そのオークが数日前に街道に出現した訳……それは群れの移動中にはぐれてしまい、冷静さを欠いて人を襲ってしまった――そんな所だろう。
で、今回新たに出現したオークはそんなはぐれもののオークの所属していた群れだと思われる。
人間に仲間を殺されたことを悟った彼らは無念を晴らそうと街道を通る生者を無境なく襲っている。
ゲーテの想定する一連のストーリーはこんな感じだった。
予想が正しければオーク達はそう遠くない地点にいるはずだった。
ゲーテは目を閉じ、法力を練りあげて辺り一帯に放出する。
法力を周辺に飛ばして魔力の反応を窺うソナーのようなものを発信したのだ。
案の定、三つの魔力の反応が近くから感じ取ることが出来た。
戦闘を想定していなかったゲーテは武器らしい武器を持っていない。
なので道端に落ちていた手頃な木の棒を拾ってそれに法力を通した。木の棒を構成する物質が強化され、即興の武器が完成する。
ナイフに比べればいささか頼りないがこの際文句はいっていられない。
ゲーテは魔力を感じ取られた方向に向けて気配を殺して近づいていく。
森の中でも小さく開けた空間に三体のオークがいた。
樹の影に身を隠しそっと様子を窺う。
彼らはこちらには全く気づいていないようだ。
ゲーテ程の実力を持つ者ならオークが束になって正面から襲ってきたとしても赤子の手をひねるほど簡単に返り討ちにできるだろう。
しかしなるべく騒ぎは起こしたくなかった。なので隠密に行動する事に越したことはない。
全身に法力を流しこむ。
身体に張り巡らされた神経に強化を促す信号が流れ、通常の状態よりも遥かに強大な力がみなぎってきた。それだけに留まらず視覚や聴覚といった感覚まで冴え渡っていく。
法力が全身に回ったところで戦闘の準備は整った。
木の棒を握る力を強くし――ゲーテは一気に飛び出した。
刹那、数メートルの距離を一気に詰めて敵の存在を感知せぬ緑の体躯をした生物の胸を背中から貫いた。
「ふっ!」
深く突き刺さった木の棒を引き抜き、再び神速の勢いでゲーテは地面を蹴った。
一体のオークが仲間の変事に僅かに反応する。
――何か危険なものが侵入してきている。
だが、物を考えられたのはそこまでで仲間の影から飛び出したゲーテの手によって喉を貫かれていた。
僅か数秒の間に三体の内二体が絶命した。
そのままの勢いで最後のオークに攻撃を仕掛けようとする。
けれど最後の一体は他の二体に比べて反応が速かった。
「がああああっ!」
丸太のような腕をゲーテに向かって振り下ろす。
木の棒を回収するために引っこ抜こうとするも、何かに引っかかって簡単には抜けそうにない。
やむを得ず棒から手を放し、横に転がるようにして攻撃を避けた。
最後の一体を下から覗きこむ。
距離が少々離れていたのと辺りが暗くなってきていたせいで確認できなかったが、こうして実物を前にすると既に手に掛けた二体よりも一際大きな体をしていた。
恐らくであるがこの群れのリーダー的存在なんだろう。
「うう……あああ……ぐおおおおおおっ!」
仲間を殺されたことに憤ったオークのボスは大地を轟かすような咆哮を放った。
次の瞬間、彼に変化が起きた。
ただでさえ太い腕に血管が浮き上がり、より一層巨大に盛り上がった。
腕だけに留まらず胸も膨れ上がり、上半身に纏っていた皮の鎧が弾け飛んだ。
そして深緑色に濁った瞳がたちまち赤い瞳に変化していく。
オークの様子を見てゲーテは気を引き締める。
戦いはここからが本番だ。
瞳が赤く光ったことがそれを知らせる合図だった。
魔物は元来魔力を蓄えているだけであって常に魔力を使用してるわけではない。
彼らも人間と同じで下手に使い方を誤ると暴走してしまうのだ。
一歩間違えばその身を破壊してしまう魔力を使う時、人間や魔力といった違いに関わらず、術者にはある特徴が浮かび上がる。
――赤く輝く双眸。
それこそが魔力を使用している証なのである。
「うおおおおおっ!」
オークはゲーテの立っている場所に向けて再びを腕をふるった。
先程の攻撃よりも早く、そして段違いの力が篭っている。
素早く身をこなしてかわす。
先程までゲーテが立っていた地点にオークの豪腕が通り過ぎ、後ろに合った樹がだるま落としのように身体を失った。
攻撃が外れても暴走したオークは動じない。
すぐさま体勢を立て直し、次々と攻撃を繰り出していく。
「くっ! ほんの少しばかり厄介だな」
攻撃自体は単調なので避けることはさほど難しくなかった。
しかし周囲が木ばかりなのと一撃で仕留められる武器がないことがゲーテを苦戦させていた。
こうなれば場所を移すしかない。
ゲーテは攻撃をかわしながら魔力探知のソナーを放った。
生物ならば体内に必ず魔力を内包している。それは魔物と比べればごく少量のものであるが。
その特性を活かし、ゲーテは広い街道に人がいないかどうかを確かめようとしていたのだ。
だが、彼の行いは思わぬ事態を引き寄せた。
――なんだこれは!? 巨大な魔力の塊が近づいてきてる!?
戦いを繰り広げるこの地点に大きな魔力を持つ何かが近づいてきていた。
それはゲーテの長い生涯でも数回しか感知したことない程の途轍もない魔力の大きさだった。
ここに来て初めてゲーテの中に焦りが生じる。
今、感じ取っている魔力は魔王の直属の配下――四天王クラス、いや、それ以上か!?
武器と防具がしっかり揃っていたとしても若い頃……勇者として全盛期だった頃でなければ太刀打ちできないような実力者に違いない。
その者との距離はもうあと僅か数メートルに迫っている。
今から全力で遁走したとしても逃げ切ることは不可能だった。
ゲーテは死を覚悟し、そして背後に立ったであろう何者かを振り返った。
そこには、エルルが立っていた。
「エルル!? 何故……いや、今すぐここから逃げろっ!!」
強大な魔力の持ち主に気を取られていたせいでオークの攻撃に対し疎かになっていた。
ゲーテに攻撃の手が伸びる。避けることは容易だが、しかしそうするとエルルに直撃してしまう!
「くそっ!」
一か八か彼女に向かって飛び込もうとする。エルルを突き飛ばせさえすればゲーテは命を落としてもエルルは生き延びることができる……はずだった。
だがそこで悲劇は起きた。
昨日までの天気は雨。ゲーテが蹴った地面はまだ乾いておらずぬかるんでいた。木の葉に遮られて乾くことのなかった地面は勇者に「転倒」という牙を剥いた。
「なっ!?」
倒れる瞬間、ゲーテの周囲の時間はスローモーションになっていく。
頭の上を通り過ぎていく緑色の腕。
肌白い小柄な少女の顔よりも数倍の大きさを誇る拳。
それが長く美しい黒髪の少女の目の前に迫る。
――駄目なのか!
こうしてすぐ近くにいたとしても駄目なのか!
私は……俺は娘を救うことが出来ないというのかっ!?
「やめてくれぇぇぇえええ!」
己の非力さを感じてゲーテは声にならぬ声をあげる。
だが現実の時間は止まることなく動き続け、そして。
『止まりなさい』
腕が少女の鼻を掠めたところでオークの動きが止まった。
奇怪な様子に地面に身を投げ出したゲーテはしばらく状況を理解できなかった。
少女は伸ばしきったオークの腕を撫でるようにしてオークの前に悠然と歩み出る。
その際、彼女は一瞬だけ倒れているゲーテに目を向けた。
ゲーテはその時の少女の表情を見逃さなかった。
いつもの自信のない、弱気な表情とも違う。
観光の際、辺りの景色に輝かせていた表情とも違う。
友達のアメリアと楽しそうに笑っていた時の表情とも違う。
そこには表情というものがなかった。
そして、その時唯一彼女に彩りを持たせていたものは赤き瞳だった。
『あなたの怒りはごもっともよ。仲間を殺されて怒り心頭だったんだよね』
双眸に赤き光を宿した少女はオークに語りかける。
『気持ちは痛いほど分かる。けどね、ここは人間たちの暮らす場所なの。だからこれは不幸な事故と考えて。悔しいし、やり切れないだろうけど、それがルールだから』
少女は聖母のような笑みをオークに向けた。
『ここであなたまで死ぬ必要はないの。どうか今だけは怒りを鎮めて。そして新たな地に旅立つの。きっと同じような仲間がどこかで見つかるから』
信じられないことが起きた。
正気を失った魔物が、知性的ではあるが単純な思考の持ち主であるオークが、少女に傅いたのだ。
『さあ、行きなさい。どうか生きて』
祈りを解いたオークは立ち上がりそのまま樹林の奥へと姿を消していく。
ゲーテは一連の流れを呆然と眺めていた。
放心している彼のもとに綺麗な碧い瞳の少女がやってくる。
彼女は憐れむような、悲しむような表情でゲーテを見下ろした。
「ゲーテさん、ごめんなさい。私、実は――」
瞬間、ゲーテは少女のことを思い切り抱きしめていた。
「言わなくていい! その先の言葉は言わなくていいんだ!」
彼女は喉元まで出かかっていた言葉を喘ぐような声で霧散させた。
言葉の代わりに彼女は言った。
「ごめん……なさい。ごめんなさいごめんなさい……!」
謝りつづける娘をゲーテはただ黙って抱きしめることしか出来なかった。
この選択が正しかったのかどうかは分からない。
しかし少女に……エルルにその言葉を言わせてしまったらどうなるかをゲーテは知っている。
ようやく取り戻した家族を、娘をまた失うことになってしまう。
彼はもう大切なものを失いたくなかった。
ゲーテは悟っていた。
その先の言葉を言わせてしまった場合の末路と、その先に続いたであろう言葉を。
言葉はこう紡がれるはずだったのだ。
『私、実は――魔王の娘なんです』
世界は闇に包まれて懺悔を続ける二人を飲み込んでいった。
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