後日譚〜蝶だった女

「すっかり忘れられているんだと思ってたわ」


 カウンター越しにからからと笑うそのショートヘアの女性に、亘乎せんやは何とも言えずに口を閉ざした。

 忘れていたわけではないけれども、わざわざ記憶に留めておこうと考えていたわけでもない。

 その女性――赤の事件で結果被害者となった識安しあ――はしかし、特に気にした様子もなく、シューニャが差し出した珈琲を飲んでは、下手な喫茶店に行くくらいなら絶対ここへ来るわ、とまた笑ったのだった。




 ゼロイチ管区中央二二四六第イチロク分家の、前夫人であった限恵きりえは、殺人罪には問われなかったけれども、幾つかの罪に問われることとなった。

 長年折り重なってきた罪は、幾年もの刑期として限恵きりえに戻って来るのだ。

 とはいえ、本人は至って落ち着いた様子であるらしい。

 むしろ、これまでのことが白日の元に晒されたことで、解放された心持ちであるというのが本音であるらしかった。

 精圭しげかど氏の亡き後、自らばかりが秘密の守り人であったという状況は、想像するに余りある苦痛なのだろう。


 セイはといえば、前当主精圭しげかど氏が長男成圭ひらあきとしてではなく、単なる使用人セイとして、幾つかの罪に問われた。

 ただ彼は、相変わらず精神科病棟内にあてがわれた部屋へ収容されていたし、これからも――少なくとも自らを傷付ける恐れがなくなるまで、今暫くは――そこから出ることはないだろう。

 そして何より、彼本人に自らの生みの親が精圭しげかど氏と限恵きりえであることは知らされず、そも、今回の事件に関わり事情を知る極々少数の人間以外は、彼がかの家の、死んだことにされた嫡子なのだと気付く者はなかった。


 否。

 もしかすると、知っている者はもっと多くあったのかも分からない。

 けれども、その誰もが口を噤んだ。少なくともセイを置いて行方をくらませた両親などが鼻を利かせて訴え出ることもなかったのだし、それだけは、間違いのないことだった。


 あの地下シェルターへ飾られていた骨達は、未だほとんどが身元の確認が取れていない。

 例外はといえば、やはり蛹圭ようかである赤子の骨だ。

 ただその最初の蛹圭ようかにしても表向きは身元不明とされ――何せこんな事件があったと公になるのは、家持ちとしても国としても都合が悪い――国の所有する合葬墓、特に詛いへ関わった者達の遺骨のみと定められた墓へと埋葬されのだった。


 どうにか体裁を取り繕い、丁重に火葬された蛹圭ようかは、小さな瓶に納まってしまうほどしか、残らなかった。

 元より骨は空洞だらけであったし、人として残っていたのが、そも、首から上だけしかなかったために。

 それを伝えられた限恵きりえはさめざめと涙を流して、セイには蛹圭ようかが火葬されたこと自体が知らされていない。

 考えれば分かることではあるけれども、医者が、やはり今の段階では知らせない方が良いと、そう判断したからだった。




 今回の事件は、そういうことで、一応の終息を迎えた。

 ただ、問題は様々残っている。

 そのほとんどに玄鳥げんちょうが関与しているということが、亘乎せんやの神経をどこまでも逆撫でしたけれども、現時点で何か出来ることがあるのかといえば、ない。


 むしろ亘乎せんやにしてみれば、近々に解決しなければならないことが多くあって、玄鳥げんちょうばかりに腹を立てている場合でもなかった。

 その内の一つが今、カウンターの向こうに座って呑気に珈琲を飲んでいる識安しあだ。


 雇え、という。

 正確には、雇えと言ったのは頼劾らいがい紫苫しとまであって、この識安しあという女はそれに従っているだけなのだろう。


 何故か、と亘乎せんやは考える。

 識安しあにとっては、亘乎せんやもシューニャも、このヨゴト画房にも、決して良い思い出などないはずなのだ。

 忌まわしく、哀しく――触れられたくない、何より癒えてすらないだろう傷を遠慮なく抉るような所業ではなかろうかと。

 それなのに、何故。


「ふぅん、副班長さんの言った通りね」


 カップを両手に包んで、識安しあが唐突に、どことなく面白そうに笑った。

 副班長さんとは、十中八九紫苫しとまのことだろう。

 何がです、と素気すげなく返す亘乎せんやに、彼女はまた少し笑う。


「いつもなんだってお見通しみたいな顔をしているのに、自分の理解が及ばないもの……特にそんな人間なんかが目の前に現れると、目を細めてじいっと観察するんだって……睨まれているように感じても、そうでもないから気にしなくて良いわって副班長さんが言っていたの」

「……そんなに見ていましたか」

「ええ。人ってきっと、視線で死ねるわね、って思うくらいにはじいっと」

「それは失礼を」

「平気よ、見られることには慣れてるもの」


 珈琲を飲む識安しあをまた観察しそうになって、努めて視線を外す。

 揺らぐ和ろうそくの火に絵を固定しながら、亘乎せんやは彼女の経歴について思い返していた。

 勿論それは、事件に関わったことで知り得た過去の傷ではなく、雇用主として、職歴であるとかそういった一般的なことに関してだ。


 識安しあは、ホステスをしていた。

 聞いたところ、この夜の街イタルヤでも高級な部類に入るナイトクラブであったらしい。

 馬鹿ではないし――何もこれは、安い店のホステスを貶す心積もりで言うわけではない――知恵もあった。

 元々の性格なのか忠実まめで、客の覚えもめでたく指名もよく入っていたという話だ。


 そも、識安しあが詛いを求めたところから引き起こされた事件である事実は公にされておらず、あくまで被害者という扱いにはなっているとはいえ、詛呪事件なんてものに関わったのだから、元の職場に戻ることは簡単ではないだろう。

 特に彼女の職を考えれば、戻れたとしてもこれまでのように働いていけるとは到底思えない。

 人の口には戸が立てられないとよくいうし、これまでも、詛呪事件絡みの人間が社会復帰することへの難しさは言われてきたことだ。


 それでもやはり、不思議だった。

 幾ら考えたとて、それこそ『自分の理解の及ばないもの』である彼女の思いなど分かるはずもない。

 ならばいっそ、本人に尋ねれば良いのだ。

 和ろうそくから、今度は観察する意味ではなく、識安しあへと視線を移した。


「貴女は、何故ここへ」

「何故、っていうと」

「選択肢が、なかったわけではないのでしょう。普通ならば、私や店などには近寄りたくないのでは」

「じゃあ、きっと私が普通じゃないのね」


 茶化すように笑う識安しあを、じっと眺める。

 真意は果たしてどこにあるのか。

 彼女の中身を覗き込もうとしたけれども、それより早く彼女自身が再び口を開いたために、成されることはなかった。


「詛い屋さんが考えることは、よく分かるのよ。私もね、どうして班長さん達の勧めに頷いたのか、よく分からなかった」


 それはそうだろうと思う。

 詛いはあくまで道具に過ぎない――亘乎せんやはそう考えているし、亘乎せんやのみならず、多くの詛い屋にとってもいわゆる免罪符のような言葉だ。

 けれども例えば、包丁で人を刺殺したとしても包丁の使用目的はあくまで食材を切ることで、金槌で撲殺したとしても金槌の使用目的は釘などを打つことだ。

 詛呪殺である場合はどうかというと、詛いの目的は、殺すこと――それ以外にも使えるというだけで、結局そこには変わりがない。


 詛呪殺犯になり損ね、結果詛われて、そして自ら以外を失った識安しあ

 裁いては貰えない罪の象徴でもある詛いの側に、何故また寄り添おうとするのか。


「詛い屋さん達の前にいると、すごく、そうね、居た堪れないような気持ちになるのは確かよ。でもやっぱり私、後悔してないの。孝重きょうえさんも潔生ゆきみも殺したいって思ったのは確かで、それは、ずっとずっと考えていたことで……」


 両手で包み込んだカップを、識安しあはくるりと揺らす。

 波紋を作った珈琲に、彼女の目は何を見るのだろうか。

 店の端で、白い少女が座り込んでその後ろ姿をじっと眺めている。


「まともじゃないなって、思うのよ。分かってる。でもね、私、あの二人が死んで、ほっとしてるの。自分で殺したかったとも、やっぱり思ってるし、だけど……自分が今生きていることを、少しだけ……嬉しいと思ってしまっているのも事実」


 細い吐息が、店の湿度を帯びた空気に溶けていく。

 目には見えないはずのそれが、妙に存在感を持っているような気がして、亘乎せんやはゆったりと目を瞬いた。


希安ねあのことは、どうかな。やっぱり、ほっとしてるかも知れない。半分は血が繋がってるわけだし、弟として、きっと、大事に思わなきゃいけないって、思い込もうとしてた気がするの。希安ねあを大事にしたら……お母さんが帰ってきてくれるって、多分ずっと心のどこかで思っていたし、それと同時に、絶対帰って来ないんだって、分かってもいた。希安ねあの全部が憎らしかったわけじゃないけど、でも、やっぱり……辛かった」


 カップに落とされていた視線が、亘乎せんやへと向けられる。

 その眼にはやはり相変わらず仄暗さがあったけれども、それでも、生きている、生きていこうとする人間の色を宿していた。

 怨みを晴らすためならば命すら惜しくないと、そんな危うさは見えない。


「私がしたこと、私がしようとしたこと、希安ねあがしたこと……許されることじゃないって思うけど。じゃあ、私がされたこと、希安ねあがされたことは許されて良いものなのか、ってなったら、違うとも思うし。でもそれって、例えば孝重きょうえさんのお母様からしたら、知ったことじゃないと思うの。どうしたら良いのか、すぐには分からないから……希安ねあが、壊れないように私を詛ったというなら、私、じゃあそうやって……じっくり考えながら、生きていこうと思うんです」


 亘乎せんやはそうじっと己の眼を見つめてくる識安しあに、なるほど、と思った。

 彼女は詛われたのだ。

 種違いの弟である希安ねあに壊れないようにと――こわしてあげない、と。

 だからこそ、それが世間的に見て正しいのか、若しくはマジョリティ多数派として受け入れられ易いかは別として、彼女の中で正しい姿でしかいられないのだ。


「それで。何故ここに」


 問い掛けに、識安しあが笑う。

 どこか照れ臭そうなその表情は、無邪気なものに見えた。


「嬉しかったのよね」

「何がです」

「シューニャさんが、私の手を握ってくれたのが。頭を撫でてくれたのが……何の思いも含まない手って、きっと、初めてだったから」


 深々と溜め息を吐いて、思わず額を押さえた。

 亘乎せんやは自分自身を決して情に厚い人間だとは思っていないけれども、頼劾らいがい紫苫しとまにしてみれば、どうしても切り捨てることが出来ない最後の一線が存在しているのだと知っている。

 それは、亘乎せんや自身も薄々勘付いていることだった。


「家事は出来ると思って良いのですね」

「え」

「朝食はいりませんので昼食と夕食の準備を。必要であれば貴女の分も一緒にお作りなさい。料理は、シューニャにも教えてやって下さい」

「あの、それって」

「あまりにも使えないようならライコウ殿へ突き返します。しっかりと働いて頂きますので、そのつもりで」


 立ち上がり、宜しくお願いしますと頭を下げる識安しあが、そうして亘乎せんやとシューニャの日常に加わることになったのだった。






 ――――――蝶だった女、了


 キイロハ、イチマイノ、エヲエガク。


 ――――――黄の章、了

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うけひ、えがきて 相良あざみ @AZM-sgr

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