第二十六話

 吐き出した息が、白くけぶって空気へと溶ける。

 最近になって、めっきり冷え込むようになった。

 埃を防ぐためにあるダスターコートなどは羽織ったところで何ら意味がなく、頼劾らいがいは、洗濯屋へ預けたままの外套を引き取りに行かねばならないと考えながら人を待っていた。


 人とは、亘乎せんやだ。

 蝶の絵が出来上がったと、そういう連絡があったからだった。


「お待たせを」


 スタンドカラーの白いシャツと錆鼠色さびねずいろの袴、羽織った黒留袖には相変わらず鳳凰が舞っていて、首には毛糸で編まれたたっぷりとしたマフラーが巻かれている。

 今更ながらに頼劾らいがいは、亘乎せんやが寒さを感じているという人間として当たり前の事実に面白味を感じた。

 それと同時に何故か、心のどこかで安堵していることにも気付く。

 そして次の瞬間には、理由の分からないその安堵にむしろ落ち着かなくなった。

 ただ、それを顔に出すことはせずに、変わらないいかめしい視線を向けるのだ。


「それか」

「ええ」


 風呂敷を軽く持ち上げて頷いた亘乎せんやに、そうか、とだけ答えて、頼劾らいがいは背後にそびえる建物へと足を向けたのだった。




 これだから軍人は全く横暴だと、自分のことを棚に上げて亘乎せんやは考える。

 そこは、精神科病棟の面会室だった。

 軍という肩書きに物を言わせて、人払いがしてあるのだ。


 措置入院という形で入ってからしばらくの時間がたっているけれども、目当ての人物――セイ、本名でいうならば成圭ひらあき――は、未だにそこへ入っている。

 当初の錯乱状態からは少しにはなった、という話だ。

 ただ、ましになればなるほど、厭世に拍車がかかる。

 であるが故に、どうしても病院から出してやるわけにはいかないらしかった。


 看護師が押す車椅子に乗せられたセイが、扉の向こうから現れる。

 どうも、大分痩せたように思う。

 やはり元々の顔付きがであるらしく、口元だけはやんわりと笑みを象っているように亘乎せんやの目には見えた。


 そして何より、彼の姿がいつかの日に重なるのだ。

 そのときは、車椅子に座っていたのは蛹圭ようかであったし、彼はその車椅子を押す役を担っていたのだから、決定的に違う。

 二度と見ることのない光景を脳味噌の中で描けば、思い入れなどはなくても哀然あいぜんを感じずにはいられなかった。


 部屋の中ほど、テーブルの脇へ車椅子は止められ、そして看護師は頼劾らいがいの求めに渋りながら部屋を後にする。

 後ろ姿を見送って、ひと呼吸、ふた呼吸。亘乎せんやは漸く口を開いた。


「お久し振りですね」


 妙に穏やかな声色で語りかける様子に、胡散臭いものでも見るような顔をしたのは頼劾らいがいだけで、セイはといえば動かずにただじっと、身体の構造に任せて前を向いている。

 正面には亘乎せんやが、窓際には頼劾らいがいが腰掛けているけれども、セイの眼が濃色のうしょくを湛えた男達を見ることはなかった。

 否、眼球がその姿を捉えても、脳味噌がその像を結んでいないと表現するのが正しいだろうか。

 恐らく、と。

 恐らく、彼の中には大きな虚があって、そこへ全てが吸い込まれているのだ。


 セイのその様子は想定内であって、むしろ亘乎せんやの姿に激昂しなかっただけ良いと言えるのかも分からなかった。

 万一そうなったとしても、抑制帯で両手両足、そして腰を車椅子に抑えつけてあるセイが出来ることなど、ほとんどない。


「今日は貴方に伺いたいことがありましてね」


 風呂敷を解きながら、亘乎せんやが言う。

 セイは欠片も反応を示さず、意図的に無視をしているのだと言われると納得しそうになる程だった。

 取り出されたのは巻かれた紙――掛け軸へ表装する前の、一枚の絵だ。

 端を押さえて、表面を傷付けないように広げられていく。


 二人から少し離れた位置で様子を眺めていた頼劾らいがいだけが、セイの目蓋が震えたことに気付いた。

 その眼をじっと観察して、思う。

 空だった硝子の器に、何かが注ぎ込まれていくようだと。

 人間の感情にはかなり疎いと、自他共に承知している頼劾らいがいですら感じたそれは、岩漿がんしょうも凌ぐほどの熱量を有しているようだった。


「……う…………」


 掠れた呻き声、そして、びん、と張った手首の抑制帯。

 亘乎せんやが視線を上げた先、セイが手を伸ばそうとしていた。

 何の特徴もない焦げ茶色の眼には、爆発的に生まれた熱が渦巻いている。


 何もかもが、ない交ぜだ。

 人の持ち得る感情という感情が、そこにはあった。


 怒り、怨嗟、虚しさと、哀しさ――それらは、死を選んだという裏切りへ。

 喜び、興味、愛しさ――それらは、蛹圭ようかという人間へ対する純粋な好意。

 底へ淀んでいるのは劣等感と嫉妬、そして、罪悪感と、恐怖。


「おじょ、う、さま」


 完全に広げられたその紙に、ひとりの女の姿があった。

 椅子に腰掛けるその女は、黄色い蝶の舞う着物を羽織って、微笑んでいる。

 指先に止まっているのは、着物から溢れた蝶だ。

 何頭もの蝶が女の周りに舞って、それを嬉しげに眺めているのだ。


 蛹圭ようかだった。

 亘乎せんやが描いた、彼女に残された詛いで描いた、蛹圭ようかだった。


「セイ、貴方は……蛹圭ようか嬢のこんな姿を、見たかったのでしょうね」

「あ、あ……」


 窓から低く射し込む一条の光が、セイの頬を雫と共に下っていく。

 透明な反射は複雑でありながら、どこまでも真っ直ぐに、純粋だった。




 車椅子に抑えつけられた青年の、束の間の正気を引き戻したのは蛹圭ようかの――薄羽黄揚羽ウスバキアゲハの色だ。


「邸を出るとき、面は置いていったそうですが」


 問いかけに、セイはじっと目を閉じる。

 思い返すための作業ではなく、喪失感に呑まれないための自己防衛として。

 ややしばらくの間があって、そうしてからやっと目蓋を持ち上げるその一連の動きを、二人の男達は黙って眺めていた。


「二人で、生きていけると思った。どこへだって、飛んでいける。全て、全て、なかったことにして」




 答えて欲しいと、蛹圭ようかは言った。

 邸を出てすぐに体調を崩した彼女を休ませるために、滞在していた粗末な小屋での出来事だ。


 そこは、先代精圭しげかどで亡くなる前、色々と試したいことがあって二束三文で買い上げた小屋だった。

 まかり間違っても蛹圭ようかを連れて来ることになるなど考えてもみなかったし、今すぐにでも出たいとセイは考えていた。

 けれども、移動は体調が許さなかったし、こんな小さな村では身動きも取れず、そこへいるより他の選択肢などは用意されていなかったのだ。


 蛹圭ようかは、覚悟を決めた女の顔をしていた。


『お父様を殺したのは、セイ、貴方なの。ねぇ、セイ、貴方はあたくしのために、それをしたの』


 粗末な寝床からじっと見上げる女の眼。

 セイの思考は一瞬にして凍り付き、無意味に唇が戦慄く。

 一等知られてはいけない人へ、知られてしまった――男の中にあったのは恐怖であり、諦めであり、そして、理不尽な怒りだった。


 ――何故、何故知ってしまったのか。


 答えないセイに蛹圭ようかは、何かを悟ったような眼をして、静かに視線を逸した。

 馬鹿なことを訊いてしまってごめんなさい、きっと疲れているのだわと、そう呟いて目蓋を閉じる。

 ただじっと、寝息を立て始めるまで眺め、そうして、弾かれたように小屋を飛び出したのだ。


 セイの中には恐怖ばかりが渦巻いていた。

 知られたことへではない。

 自らの、まるで悪魔にでも取り憑かれたかのような、あまりに傲慢な欲への恐怖だった。


 助けられたことへ、ずっと恩義を感じていた。

 成長を見守り、見守られる中で、いつしか主ではなくひとりの女として見るようになった。

 助けなければならないと考えて、それを成した。

 自己犠牲だと疑わなかったのだ。


 けれども本当に、それだけだったのだろうか。

 自らの中へ、恵まれた環境に生まれた彼女へ対する嫉妬は、少しもなかったのだろうか。

 苦しめられていると知ったことへの憐れみは、助けてやったのだという優越感は、本当になかったのだろうか。


 自分が信じられなくなって、買い出しを理由に小屋を離れた。

 少し時間を置けばきっと、思考の整理がついてくれるはずだと信じて。


 けれども、全ては無駄になる。


「小屋へ戻ったとき、彼女はほとんど、蝶になっていた」


 反射的に、面を剥ぎ取った。

 剥ぎ取っても、腹が、胸が、変じていく。

 恐ろしかった。

 彼女を喪うことが恐ろしくて、自分はこの女をやはり愛しているのだと悟った。


 何と言えば良いのか分からなくなり、ただただ喪う恐怖に震える。

 そんな自分を、穏やかな眼が見上げていた。


『あたくし、ちょうになるために、うまれさせられたの。これで、おわるの。あたくしが、ちょうになれば、おわるの。せい、あなたも、もう、くるしまなくて、いいのよ』


 眠りに落ちる瞬間のように、舌足らずな声が紡ぐ。

 何もかも、わけが分からなかった。

 苦しんでいるつもりなどなかったし、こんな状態になりながら思いやってくる彼女が、奇妙なものに見えた。

 湧き上がる激情は、怒り。

 そして、子供のような執着。


 望みなど叶えてやるものか――どうか蝶になどならないで。

 終わらせてやるものか――どうか置いていかないで。


『止める術はないぞ。あいやしかし、そうさなぁ、れば止まるかも知らんのぉ』


 カカカ、と笑い声がして、気付いたときには、包丁を握り締めていた。

 頭に靄がかかる。

 短い叫び声が聞こえた気がした。

 身体がひどくだるい。


『それ、標本にでもしてやらんと、傷んでしまうぞ』


 虫の標本の作り方は知っている。

 沢山、たくさん作ったから。

 でも、これは。


『今や幻の薄羽黄揚羽よ、これは。蛹圭ようかも見たがっておったろうよ。よう見つけたのぉ。さぁさ早う、早う、標本に。大きさもある、腹をまず開いて、中身を取り出してやるのが良かろうよ』


 ちょう、なのに。

 そんな、ひょうほんの、つくりかた。


『なに、爺の知恵よ。ほれ、早う』


 そう、そうだ、げんちょうおうは、あのときも、おしえてくれて、それで。


『ふむん、中身は虫にはならなんだなぁ』


 ああ、はやく、おじょうさまに、みせてあげないと。

 おじょう、さま。

 だいすきな、おれの、おじょうさま。




 それきり黙り込んだセイは、看護師に車椅子を押されて部屋へ戻っていく。

 亘乎せんやは絵をまた丸めて、風呂敷へと包んだ。


 もうここへいても用はない。

 面会室を後にした二人の男は、建物の外、ふと立ち止まった。

 頼劾らいがいが、がりがりと頭を掻く。


「何もかも、爺の手の内だったってのか」


 耳へ届いた忌々しげな呟きに、亘乎せんやは強く強く瞑目した。

 一体何と答えられるだろうか。

 どこをどう取っても肯定する言葉しか見付けられず、そんな己が腹立たしくて仕方がない。


「……ともかくだ、行方をくらましていやがったあの爺、今は近くにいるってえことなんだな」

「そう、なるでしょう」


 静かに息を吐き出して、顔を持ち上げる。

 鈍色の空から落ちた白い結晶が、頬を一欠片流れていった。






 ――――――――這う女、了。


 キイロハ、ドコカヘ、ツヅイテヰル。

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