第二十五話

 白く細い指先が、蝶に触れる。

 腹を縦断する傷は奇麗に縫合され、もしこれが生きた女の肌であったなら、上手く痕も消えただろうと思わせるほどだ。


 シューニャは、傷には触れなかった。

 それは決して傷痕を厭うたわけではなく、これ以上の痛みを彼女へ与えることを厭うたからだった。

 尤も、蛹圭ようかそれ痛みを感じるはずもないことはシューニャとて理解している。

 理解していても、触れてやってはならないという思いが少女にはあった。


 親指が、中指が、最後に小指が、順に蝶の腹を叩く。

 刻んでいるのは三拍子、奏でられるのは何という曲だろうか――不意に浮かんだ疑問も解決されることのないまま、少女の指は蝶の上を駆け巡る。


 蝶に最早、人間の女らしさは欠片もない。

 長球ちょうきゅうに似た形の胴体と胸にはみっしりと毛が生えて、それでも傷痕が見えるのは、例えば人間が頭部を手術するときのように、その部分の毛が剃られているからだった。

 脚はない。

 切り落とした痕はないようだし、蛹圭ようか自身が、いらないと思ったのかも分からない。

 正確なことは、本人のみぞ知るところなのだろう。


 三拍子が胸で止まり、全ての指がそこへと触れた。

 シューニャの指先が感じるのは冷たさではなく、部屋の空気に馴染むあまりに仄かで頼りない温度だ。


 とん、と人差し指が跳ねる。

 見えない繋がりを辿ってところを舞い上がり、頭頂部へと着地する。

 蝶が翅を休めるように白い目蓋を閉じた少女は、そうっと唇を開いた。


「しっていたの」


 その言葉にほんのわずか、亘乎せんやの指が動いたことに気付く者はなく、亘乎せんや本人もまた、ただ静かに拳を握り締める。

 シューニャの唇が何かを探すように戦慄いて、音を紡ぐ。


「ベッドのうえ、しかくいまど、むこうがわのもり。みずのにおい、うごけない、うごけないうごけないうごけない……ああ、


 その場にいる全員が、脳味噌の中へ響く爺の笑い声を聞いた。

 ただの、爺の笑い声であるというのに――おぞましさが込み上げるそれに、双子が、頼劾らいがいが。

 能面のような無表情が常の亘乎せんやですら、顔をしかめた。


 白い髪が、白い右の頬にかかる。

 開いた目蓋の奥、一点の黒が宙へと投げられたけれども、焦点は合っていないらしかった。

 眼がわずかに揺れて、濃い茶色が重なって見えたような気がする――そこにいるのは、幼い日の蛹圭ようかだ。


「おじい様、おとう様は、ようかのこと、おきらいかしら。おかあ様も、なんだか、ときたま、かなしいおかおをなさるのよ」


 今度は、左の頬へ髪がかかった。

 蛹圭ようかの幼いながらに掠れた声が、ひいやりとした空気を震わせる。


「ねぇ、ようかは、どうして寝台から出られないの、おじい様」


 それは嘆きだ。

 大人になった彼女が抱いた幼い日の嘆きに、心臓が重くなる。

 まるで、小さく細い枯れた手が、ぶら下がっているようだった。


 けれども、そんな者達を置いて、の回想は続く。


「きいて、おじい様。この子がセイよ。ようか……じゃなかった、あたくし、まちでひろったの。それでね、おとう様も、おかあ様も、よいっておっしゃるから、セイを、あたくしだけのしようにんに、したのよ」


 一転して、声が明るさを帯びる。

 自慢げなそれは、親に褒めて欲しいと目を輝かせる子供、そのものであるように思えた。

 語り掛ける相手が、本当に愛してくれている相手であったなら――今更になって考えても仕方がないことを、考えずにはいられない。


 白い白い指が、髪をく。


「おじい様、あたくし、ゆめを見るの。あれはきっと、幼虫だわ。きっと、ちょうちょになるのね。おとう様は、ちょうちょがお好きなんでしょ。セイが、さいきん、ちょうちょのお勉強をしているのよ。それで、あたくしも、ごほんを見せてもらったの。どんなゆめか、ですって。そうね、たぶん、寝台だわ、寝台の上に、大きな幼虫がじっとしているの。それだけよ」


 ――それはそれは、何とも不思議な夢を見なさる。


 爺の声が、脳味噌の奥へと響いた。

 興味深いとばかりに、愉悦を滲ませながら発せられたそれ。

 爺が、玄鳥げんちょうが興味深く思っているのは、何の関わりもない人間が例えば心理学的な物の見方で抱くようなものでなく、蛹圭ようかが幼虫の夢を見ているという事実へだ。


 父が蝶を好きであるからなのか。

 自らの使用人が、興味を持っているからなのか。

 本を見たからなのか――それとも、詛いが着実に蛹圭ようかを作り変えているからなのか。


「おじい様、今日も来て下すったのね、うれしいわ。さいきんセイが、おとう様のところへばっかりうかがって、あたくしのことはほったらかしなのよ」


 何も知らない少女の拗ねた声は、今や事情を知るところとなった亘乎せんや頼劾らいがい憐憫れんびんを誘う。

 けれども少女は無邪気なまま歳を重ね、話し続けるのだった。




「おじい様、どうしておかあ様は、かなしいお顔をなさるのかしら」

 ――奥様は蛹圭ようかを外へ出してやれんことを、嘆いておるのよ。


「おじい様、おとう様が会いに来て下さらないの」

 ――なぁに、心配せずとも、いつ何時も、旦那様は蛹圭ようかの様子を気にしておられるぞ。


「おじい様、なんだか最近、セイがおかしいの。時偶ときたまとっても……何と表現したら良いのかしら。心臓がひやりとするような、そんな顔をしていることがあるの」

 ――思春期の男だからのぅ、反抗的になることもあろうて。




「おじい様……お耳を貸して下さるかしら」

 ――どうしたね、蛹圭ようか


「お父様を、セイが……殺したかも、しれないわ」

 ――何故、そう思ったね。


「分からないわ……分からないけれど、そんな気がするの。ねぇ、おじい様、あたくしのことも、セイは、殺すかしら」

 ――ふぅむ。それはなかろうて。


「どうして言い切れるの」

 ――あの男がしたのは、蛹圭ようかの為だろうからのぉ。


「どういうこと」

 ――ふぅむ。どうやら真実を語る日が、来たようだのぉ。




 白い少女の唇から止めどなく溢れるに、亘乎せんやは強く目を瞑った。

 おじい様、おじい様、おじい様――蛹圭ようかが心を曝け出せる人間は、玄鳥げんちょうの他になかったらしい。

 父は会いに来ず、母は自分を見て哀しみ、使用人は父殺しの犯人かも分からない。

 そんな状況で、蛹圭ようかに頼れる者は、他になかったのだ。


 全て、全て、繋がっている。

 起こるべくして起こった――因果律。


 シューニャの目蓋が、唇が震え、蛹圭ようかの中を漂う。

 拾い上げる言葉は、あまりに狭すぎる世界に生きながら精一杯手を伸ばし積み上げたもので、けれども、そこに込められた想いは簡単に破壊されていってしまう。




 ――これを御覧。おぅおぅ、知っておるか、そうよ、能面よ。わしと弟子とでな、作り上げたものよ。美しかろう。これはのぉ、ただの能面ではない。これ、こうして内側へ、絵があろう。これに、人を変じさせることが出来る。そういう詛いがかけてあるのよ。決して掛けてはならんぞ、爺との約束ぞ、良いな。なに、何故これを出したかというとな、旦那様は、これに魅入られとったのよ。聞くかえ、聞きたいかえ、蛹圭ようかには辛い話だろうて。ふむん、よかろう、ならば、話すとしよう。




 シューニャの指が、びくりと跳ねた。

 蛹圭ようかの髪が絡まって、ず、と首がわずかにずれる。


「お父様が、人を蝶に変えようとしていた。お母様は、わたくしのお母様ではなかった。私は蛹圭ようかというの代わり。私は青虫。私の本当のお母様は。私は蛹。本当のお母様は、拐われてきた人で、もう、いない。蝶々。セイがお父様を殺した。私は。お母様は、私を愛してくれていたと、信じたい。けれど。お父様。私は。蝶。お父様、私は。もうすぐ、蝶に、蝶々に」


 肩が跳ね、目を見開く。そして、一瞬の間。


「私、蝶になりたい」




「シューにゃんッ」


 弾かれるようにして崩れ落ちたシューニャを支えたのは、その後方で様子を見守っていた右楠ゆなんだった。

 ただ、同じような背格好であるせいか、結局は支えきれずに二人で床へとへたり込む。

 せめてと左椋さりょうの手で引っ張られた椅子は、当のシューニャが首を振って拒否された。


 珍しく白い少女が意識を保っているのは、それだけ蛹圭ようかが狭い世界で生きてきた証しであるのかも分からない。

 湧き上がる憐憫にゆったりと目を瞬いた亘乎せんやを、白の中、一点の黒がじっと見つめた。


「しってた。ぜんぶ。しってた。それで、ちょうになる、なったら、。って、おもった」

「何が終わると、蛹圭ようか嬢は」

「ぜんぶ」

「全部」

「だれも、しななくなる」

「氏は、もう既に死んでいるのにか」


 頷いたシューニャは、今度こそ意識を失った。

 勧めた椅子は直前に拒否されたけれども、この状態でいるわけにもいかない。

 何せ解剖台とストレッチャーは蛹圭ようかでいっぱいになっている。

 どうにか座らせて背もたれの後ろに回り込んだ右楠ゆなんが、そこから抱き締めるようにして支えた。


「おい、どういうことだ」


 無意識にわずか、声を落として頼劾らいがいが低く唸る。

 問い掛けられた亘乎せんやはといえば、ラベルのない試薬瓶を手のひらに転がして、それをじっと見つめていた。


 揺らぐ黄色。

 それは、蛹圭ようかが望んだ色。


蛹圭ようか嬢は死にたくないのだと、そう思っていたのは、周囲だけだったようです」

「周囲だけってのは、つまり使用人二人っつうことか」

「ああ。彼女は望んでいた……蝶になることを。否、望んでいた、とは少し違うかも分からない。彼女は、受け入れてしまっていた。強制された人為を、自らへもたらされた天為だと感じてしまった。そう、玄鳥げんちょうが仕向けた」


 振り向く亘乎せんやに、六つの眼が向けられる。

 はためく黒が青白い光を照り返して、刀の切っ先を思わせた。


「自らが精圭しげかど氏の望みを叶えたなら、それで漸く終わるのだと思った。逆に言ってしまえば、そうしなければ、何もかもが終わらないと思っていたのですよ」

「それは、つまりお前」

限恵きりえと同じように、蛹圭ようか嬢は、セイの、執着に気付いていたのでしょう」

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