第二十四話

 もしも、母親の妊娠期間が半年でもずれていたなら。

 もしも、母親が住んでいたのが隣町であったなら。

 もしも、最初の蛹圭ようかが死んでいなければ。

 もしも、もしも、もしも――考えたところで最早何一つとして変えられない、あまりに虚しいそれを、どうしても考えずにはいられない。

 考えずにはいられないのに、考えたとてひたすらに虚しいだけ。




「きゃっふーぃ、センセセンセセンセセンセセンセぇ」

「やぁやぁおかえりセンセイ、そしていらっしゃいライコウ殿。巨大蝶々との面会希望だったねぇ。彼女の方は準備万端だよ、そしてシューニャの準備もね」


 検死室の扉を二人の男が潜るなり、緑の片割れは両腕を突き上げ勢い良く振って、もう片方はにんまりとした笑顔でそう告げた。

 重苦しい証言を聞いたあとでは普段であればやかましいとしか思えないその声も、気分を心持ち和らげてくれるようだ。

 あくまで、心持ち程度の話ではあるけれども。


 ころり、と木履ぽっくりの鳴る音が不意に耳へと届く。

 それを合図にか、やけに芝居じみた動きで双子がそれぞれ左右に一歩退けた。

 その間から白い少女が姿を現して、余計に何かの芝居のように見える。


 どうやら少女は今朝からずっと、死のにおいが漂う冷たくも騒がしいこの部屋で眠っていたらしい。

 こうなっては、情緒が育っていないというよりむしろ、随分と図太く育ったものだとしか亘乎せんやには思えなかった。

 もし例えば、恐ろしいと思わなかったとしても、普通ならばあまり気持ちの良いものではないだろう。


「いやぁ、それにしてもこの巨大蝶々ちゃんは、扱うのは中々に骨だよ、センセイにライコウ殿。何せ彼女は生乾きの標本モドキなものだからねぇ」

「だんだんだんだんだんだぁん乾燥してきて、おハネが中途半端な開き方のままになっちゃっていますですよぉ」


 五人が囲むのは蛹圭ようかのではあるけれども、その身体が敷いているのは解剖台だけではない。

 ストレッチャーがひとつ横に置かれて、翅が広げられていた。

 どうやら右楠ゆなんの言葉通り、畳みきることが出来ずにいるらしい。

 美しさを誇ることもないままで枯れていく翅は、蛹圭ようかの人生そのもののようにも思えてならない。


 首は、分かたれたままだった。

 蝶に変じてしまった身体と、人であるままの首では、繋げることが出来なかったのだ。


「さて」


 つ、とモノクルのチェーンをなぞる。

 ぴたりと口を閉じた双子と、むっつりと口を閉ざしたままだった頼劾らいがいが数歩、その場から壁際へ下がった。

 鈍色の台とその両脇に佇む黒と白を見ると、まるで世界から色がなくなってしまったようだと――特に、己が鮮やかな緑色をしているが故に余計、左椋さりょう右楠ゆなんなどは考える。


「始めようか」

「はい、マスター」


 ひいやりとした風が、頬を撫でた。




 腰に挿した扇形の矢立やたて――筆と墨壺を合わせた携帯用の筆記具だ――から、筆を取り出す。

 白い穂先はどこまでも無垢で、何物にも染まらずにそこへある。

 台を挟んだ向こう側に立つ少女とどちらがと、不意に頭へよぎるほどにはどちらもが白く、くうでもあった。


 肩の高さへと腕を持ち上げて、空中へ一条の線を引く。

 そうしてまた一条――見えない文字を書き上げる。

 台の向こう側へ立つシューニャが揺らいで見えるのは、細く吐き出された息が作り出す蜃気楼のせいではない。

 そこが確かに、揺らいでいるからだ。


 鳳凰の舞う黒留袖が、微かにはためく――この部屋へ風が入り込む場所などないのに。


 モノクルの奥の右目が痛む。

 手袋の下の左手と、腹が疼く。

 筆へ滲む黄色は、蛹圭ようかが望んだ薄羽黄揚羽ウスバキアゲハの翅の色だ。

 蠢いて、舞い上がり、ひらひらと纏わりつく。

 人間では感じ取れないほど些細な羽音と風が合わさって、渦巻き、亘乎せんやを呑み込もうとする。


 絶望と希望。

 人は絶望の中から希望を見出すのか、それとも、希望を知っているから絶望するのだろうか。

 蛹圭ようかは果たして何に絶望し、何を希望としていたのだろう。


 纏わりつく黄色がとろけ、肌から、目玉から、じわりじわりと染み込んでくる。

 その色を愛おしげに見つめた瞬間に、爺の笑い声が密やかに、それでいてけたたましく亘乎せんやの耳の奥へと響いた。


 ――忌々しい。


 血色の悪い薄い唇が、音もなくそう囁く。

 気付いたのは正面に立っている白い少女だけで、けれども、少女はそれを黙ってじっと見つめているだけだった。


 忌々しい爺の声の端、もしくは裏側。

 蝶の羽音ほどの儚さで、甘やかな女のささめきが縫われた腹の傷から染み出し、舞い上がる。

 希望と、絶望と、切望と、怨望えんぼう――それは確かに、女が生きていた証だ。


「蝶になりたい。そう、貴女は言った。望みは――嗚呼」


 亘乎せんやが漏らした吐息が、冷ややかな部屋の空気をわずかに湿らせた。

 六つの眼が亘乎せんやへと注がれて、二つの白い眼は蝶々をじっと見下ろす。


 黄色が沸き上がり、そうして、亘乎せんやは一条の線を引く。

 血色の悪い薄い唇が、あまりにも柔らかに弧を描いている。


「蝶になりたい。本当に、貴女はそれだけで良かったのか」


 呟いた声は、哀惜あいせきに満ち満ちていた。

 何を言わんとするのかを黒と白以外は知らず、黒は余韻に浸るように唇を閉じ、白はただひたすらにじっと黙している。

 けれども決して、緑も、濃紺も、口を挟むことはなかった。

 否、外野は最早背景ですらなく、口を挟むなどということはいつだって、出来ないのだ。


 人前で外されることのない左手の手袋は、相変わらず真っ白い。

 その一点の白を亘乎せんやは不意に下ろして、試薬瓶を取り出した。

 ラベルはなく、中身も空だ。


 そして、もうひとつ――試薬瓶であろうと、そう曖昧な所感を漏らしたくなるのは、それが最初に取り出されたものとあまりに様相が違っていたからだった。

 ラベル、と呼べるようなものはない。

 ただ、瓶の肌が見えないほど幾重にもふだらしきものが巻き付けられ、にわかに丸みを帯びて見えるほどだ。

 札には様々な言語が記されていて、けれども、重なっている為にろくに見えもしない。

 一体何であるのか、正体を知らずとも禍々しいものであるのだと誰しもが思うことだろう。


「シューニャ、これを」

「はい、マスター」


 シューニャに手渡されたのは、最初の試薬瓶だった。

 白い指がそれを包み込み、そうしてから数歩下がる。


 ゆったりと目を瞬く。


 亘乎せんやは少女が離れるのを見届け、そうしてから視線を手の中へと下げた。

 禍々しい試薬瓶らしきもの、を見下ろすその鋭利な三白眼はあまりに冷え冷えと冴え、わずかな温度を探すことすら愚かに思える。


「忌々しい」


 その声を、室内にいる全員が聞いた。

 憎しみであるとか、怒りであるとか、そんな単語だけでは言い表せられない声色を、全員が聞いた。


 蓋を押さえるようにして貼り付けられた札の、わずかな隙間に爪を差し入れる。

 容易に剥がれたそれは、片側だけが本体に巻かれた札達に押さえつけられていて、力なく垂れ下がった。


老残ろうざんを晒すのは、やめて頂こう」


 手袋に包まれた左手が、手の中の試薬瓶を蝶の腹へと押し付ける。

 ざわざわと、札が蠢く――否、札に記された文字達が、餌を見つけた蟻の如く蠢いていた。


 黒留袖がはためいて、腥い風が首筋を撫でる。


『カカカ』


 その笑い声を、シューニャと、緑の双子は初めて聞いた。

 けれども、それが誰のものであるのかは直感で分かる。

 玄鳥げんちょうだ。

 日本画やまとえの大家と呼ばれながら、その実、詛いの為ならば人を人とも思わない、玄鳥げんちょう翁、その人の笑い声。


「忌々しい爺が……ッ」


 静かで、それでいて低く唸るような――亘乎せんやの声にシューニャが微かに後退った。

 けれどもそれは、亘乎せんやの三白眼には映らない。


 蛹圭ようかの、蝶の腹から、くろが染み出してくる。

 何ものをも飲み込む、底の見えない虚のような玄が。

 真っ白い手袋を、指先から侵食していく。


 カン、と硬質な音がして、筆が解剖台へと落とされた。

 その穂先は白く、何物にも染まっていない。

 それとは対象的に、手袋は既に玄く染められていた。

 まるで――まるで手首から先が壊死したようだと、白い少女越しに様子を見守っていた緑の双子は思う。

 心を襲うのは、このままではいけないという焦燥で、けれども動くことは出来ない。

 自分達が役に立たないことを、双子は――そして頼劾らいがいも――能く能く理解していた。


 腰に挿した矢立を取り出し、それで左手に代わって瓶を押さえ付ける。

 玄く染まった指で蝶の腹を撫で、彼女が長年込められた玄を引きずり出す。

 それは愛撫のようでいて、責めさいなんでいるようにも見えた。

 ただ、蛹圭ようかという存在を作り上げる為の大きな何かを抉り取っていることは間違いない。


 瓶を右手が握り締め、左手が蛹圭ようかの頬を撫でた。

 目蓋を、鼻筋を、唇を撫でて、玄を抉り取る。


「これで、終いだ」


 握り締められる左手、蠢く札の文字。

 ぺき、という弱々しい音が、その室内へいる全員の耳へと届いた。

 瓶の上、小指から力を緩めれば、そこから玄が零れ落ちる。

 全ての指を開いたときには、手袋は既に白に戻っていて、けれども亘乎せんやは手袋を脱ぎ去って共に試薬瓶の中へと押し込めた。


 蓋をして、最初に剥がした札を戻し、そして何事かを呟く。

 札の文字が一層激しく蠢き、やがて動かなくなった。

 溜め息を吐いたのは誰だったのか。

 わずかにたたらを踏んだ亘乎せんやに、頼劾らいがいが咄嗟に伸ばした腕は、結局触れないままで下ろされた。


「シューニャ」

「……はい、マスター」


 一瞬の間がそこへ生まれたのは、親指と人差し指の間から手首まで走る、古傷のせいだ。

 伸べられた左手から視線を逸らして、シューニャは抱えていた瓶を手渡した。

 その様子に思うことはあれど、今は気にしてやるときではない。

 亘乎せんやはわずかだけ、唇を歪めるだけに留めた。


 ゆったりと目を瞬く。


 試薬瓶の蓋を外し、右手には筆をもう一度構える。

 シューニャの温もりが移った瓶を左手に感じながら、細く息を吸った。


「魅せてくれ」


 空中へ、点をひとつ。

 そうしてまたひとつ。白い穂先が黄色く染まっていく。


 蛹圭ようかへ集り漂う黄色の群れを、流れるように運ばれる筆が切り裂いた。

 手の中で震える試薬瓶に、黄色が這うような速度で増えていく。

 時間にして数秒。

 筆が止まったとき、試薬瓶はたっぷりと黄色を湛えていたし、筆は真っ白に戻っていた。


 蓋を閉め、細く息を吐く。

 二つの試薬瓶と筆とを片付けて、漸く亘乎せんやが顔を上げた。

 その視線の先にいるのは、じっと佇むシューニャだ。


「これからは、お前の仕事だ、シューニャ」

「はい、マスター」


 頷いたシューニャの白い髪が、青白い光を反射して、亘乎せんやの視界を一瞬だけ焼いた。

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