読み終わったので書きます。
タイはウケを狙って書いたわけではなく、読んでそのままの感想を当てはめたところこのようになりました。
平家を駆逐した源義経。紛れもなく戦の才覚を持った彼の存在は戦神と呼ぶのがピッタリです。
本来敵の領土に乗り込むのは何かと不利になることが多いですが、これを手際よく鮮やかに勝利への布石として魅せるのは、やられる側からしてみれば紛れもなく厄災そのものです。
その義経の暴れ振りでとりわけ有名なのが、今回の逆落としの話です。
リスキーすぎるからやらないと考えるのが道理な選択肢なわけですが、これを躊躇いなくやってみせたのが源義経という人物なわけです。
しかし、それだけではただの説明で終わってしまします。本作の義経の行動に私が「天災」と付けてしまうほどの行動をやろうとしてみせます。ここから先はネタバレになるので書けませんが……。
平家の終焉は遠くなく。鐘の音が聞こえるまでに残された物語も機会があれば目にしたいものです!!
タイトルのとおり、かの「一ノ谷の戦い」をモチーフにした歴史小説ですが、「鹿に越えられるものが馬に越えられぬはずがない。それーっ! いけーっ!」という単純な物語ではありません(すみません、私の『一ノ谷の戦い』についての知識なんてその程度のものなのです……)。
作者様の義経の、敵の裏の裏の裏を読む頭の良さ、何を考えているかわからない底知れなさが過不足なく描かれていて、最後の最後まで「こう来たか!」と驚かされます。1万字に満たない短編とは思えない密度と満足感です。
絶対に敵には回したくない。味方についてくれたとしてもちょっと怖い。そんな義経の魅力に完全に痺れてしまいました。いえ、もうすでに、同作者様の「笹竜胆咲く ~源頼朝、挙兵~」や「春の海のあたたかさとつめたさと」で痺れているのですが……。
また、ラストでの弁慶との会話が、よりいっそう物語に深みを与えています。義経は目的のためなら手段を選ばぬ、非情なだけの男なのか。それとも……?
それぞれの解釈を楽しみながら、皆様も義経の魅力に痺れてしまってください!
むかーし昔。歴史の授業で先生は言いました。
義経は悲劇のヒーローとして後世で人気だけども、あれって義経を憐れんだ人たちの創作だからね。
学生時代の朝倉は思いました。
「ええ〜、義経ってかっこいいじゃん! なんでそんなこと言うの?」と。
今作品では、かの有名な「一ノ谷の戦い」が描かれています。
逆落としとは? 鵯越(ひよどりごえ)とは?
歴史に明るい方ならば、すぐ源平合戦と結びつくでしょう。
そう、これは奇襲作戦。兵力で劣っている源氏側の作戦です。
さて、九郎義経といえば何をイメージするでしょうか??
悲劇の天才武将? 戦いの天才? 現実主義者? いや、やっていることは実際卑怯だよね? これって判官贔屓だよね??
みなさまのイメージされる義経はどんな人物でしょうか?
そしてぜひ、この作品を読んでみていただきたいのです。義経像の印象が変わるのか?それとも……??
数々の傑作歴史短編をものされておられる四谷軒氏の最新作は、三題噺「気」「幕」「電撃」の参加作品。……で、電撃? 歴史物で?
しかし「電撃」の謎は、作品概要であっさり判明。それは「電撃戦」でした。
歴史的には、第二次大戦の序盤に独軍が見せた機動戦のドクトリンを指しますが、その本質は「奇襲」にあります。
どれほど迅速に戦闘部隊を移動できても、その動きが相手に予測されていたら意味がありません。機動力を駆使して、「時間」や「場所」、ときには「戦力」で相手の裏をかくからこそ有効なこの戦術を、日本史上有名な奇襲作戦である「一ノ谷の合戦」、いわゆる「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」の描写に使ったのは、さすがは四谷氏です。
本作は、奇襲の指揮官・源義経と、守将・平宗盛が対峙するシーンから始まります。そこから時間をさかのぼり、この合戦に至る状況――平家が奇襲を受けるに至った経緯――が描かれます。
そして迎えたクライマックス。史実で知るとおり、義経は電撃的な奇襲を成功させ、わずか七十騎で平家の陣に突入します。
しかし歴史を知る者には、ひとつの疑問がわきます。いかに虚を突かれたとは言え、万を越す軍勢が、わずか七十騎の集団の前に潰走するものでしょうか?
本作では、その謎についてもひとつの答えを提示しています。その答えは――
義経やべー!
どうやべーかは、ぜひ本作をお読みください!
なお、レビュー見出し文の「土岐頼遠」は、南北朝時代に光厳上皇の牛車に無礼を働いたやべー奴です。「高師直」も、同時期に天皇や上皇についてやべー発言をした(ことにされてる)やべー奴です。おまいう。