空白のカルテ
leniemma
空白のカルテ
「どうも、調子はいかがですか?」
「まあまあ、ですかね……」
グレー一色に統一された、無機質な診察室。その椅子に腰掛ける男性患者。両目の下の青い隈とこけた頬が目立つ。
この男性は中央病院で事務員として勤めている。過労が原因で不眠症になってしまった。
男性に向かい合い、じっくり耳を傾ける。
私は彼らの理解者でありたいと思っている。
誰だって、好きで患者になったわけではないのだから。
「今日はどうされました?どこか具合でも悪いですか?」
「はい、実はお話が……先生、うちの病院へ来ませんか?」
「うち、というと?」
「先生もご存知の、中央病院。ぜひ来て頂けませんか?」
彼の話しを聞いた瞬間、自分の手が若干震えるのが分かった。
「先生なら、まだまだ患者を捌けるでしょう?先生のような人がここにいては、勿体無いといいますか……」
「私はもういい歳です。それに……こうして時間をかけて診察できる所が気に入っているんですよ。さ、診察と関係ないお話はこのくらいで」
男性は申し訳なさそうに口を固く結び、診察室の扉に手をかけた。
「調子が悪ければ、いつでも来てください」
私は紙カルテに処方を書き込んだ。自分にしか読めない走り書きで。
この病院の経営状況は思わしくない。現にカルテは紙のままだ。
ここ二、三年は患者も減り、私にかかっているのは彼を含めてほんの数人。
昨今、医者の高齢化や医師不足というのが問題になっている。彼の病院も例外ではなく、最近は私を引き抜こうと必死の様子だ。
「先生、次の患者さんです」
「ああ、どうぞ」
続けて患者が来るなんて、今日は珍しい。
「先生、長年お世話になってきましたが、中央病院へ移りたいんです」
「中央病院? なぜ?」
「はい、そちら明るくて雰囲気が良いと評判ですし、何よりアクセスが良いので……」
確かに、ここに比べれば評判は良い。ここは辺鄙な場所にある——だが、よりによって中央病院とは……。
「……まあいいでしょう。それで、ご希望の医師は?」
「もちろん先生です」
「は?」
「だって先生、中央病院に移られるんでしょう? 噂は聞いてますよ」
「噂まで流しているのか……」
置かれた環境や社会というのは、実に残酷なものだ。
こうして正常な判断が出来なくなる程、追い詰められてしまうのだから。
医者にしても同じことが言える。現にこの病院は、非常勤医ばかりで、皆休みなくあちこちに診察に歩いている。
"我が子が可愛ければ医者にはするな"と、昔どこかの医者が言ってたな。
「残念ながら、私は移りませんよ」
「そうなんですか? 残念です。それならどの先生でもいいです」
紹介状を書き終えたところで、診察室の扉が開いた。
「注射の時間です」
「ああ、悪いね」
「痛くありませんからね」
カルテNo.10350——注射器に貼られたシールが目に入る。
瞬間、チクッと電流のような刺激が腕に走った。
看護師は私の腕に躊躇なく針を刺していた。
「少しずつ良くなってきてるので、明日にでも部屋を移れるそうですよ。でも、他の科の治療も必要みたいなので、近いうちに中央病院に転院ですね」
「……ほう」
「先生方も安心してましたよ。中央病院への転院にやっと同意してくれたって。早く元気になりましょうね」
注射を終えると、看護師は扉を閉め、外から鍵をかけた。
ガチャリ、という音が、部屋の中に小さく反響した。
取っ手を回してみるが開かない。窓も固く閉じられている。
隣室から僅かに話し声が聞こえ、天井隅のカメラが無言でこちらを見つめてくる。
ふう。溜め息と共に力が抜ける。
なぜ、私はここにいるのだろうか?
私を待つ患者達は、今頃——。
残されたカルテは——。
こうしている暇はない。
私に休んでいる時間などないのだ。
「次の患者さん、どうぞ」
私は病衣の裾を直し、カルテを書くように、指先で空を描いた。
空白のカルテ leniemma @laniemma
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