第9話 正しさの孤独

隆弘の足音が、無機質な床に響き、やがて遠ざかっていく。完全に音が消えた時、図書館の静寂は、先ほどとは比べ物にならないほど冷たく、重く、栞の肩にのしかかってきた。

書庫に、一人取り残された栞は、立ち尽くすことしかできなかった。

床に散らばる、過去の犠牲者たちの記録。そして、すぐ隣で心を通わせているはずだった「協力者」からの、残酷な刃。

「強い…?私が…?…違う、そんなわけない。だって、こんなに怖い。怖くて、怖くて、たまらないのに…。なんで、わかってくれないの。一人に、しないでよ…」

隆弘の言葉が、何度も頭の中でこだまする。「誰もが、一瀬さんみたいに強くて頭がいいと思わない方がいい」。違う、私は強くなんかない。頭がいいわけでもない。ただ、臆病なだけなのに。知っていることを盾にして、必死に自分の弱さを隠しているだけなのに。

震える手で、床に散らばった隆弘のメモを拾い集める。そこには、几帳面とは言えないが、懸命な努力の跡が滲んでいた。こんなに必死になってくれていたのに、私は、それを無価値なものだと切り捨ててしまった。後悔と自己嫌悪が、冷たい水のように心を満たしていく。

書庫を出る瞬間、ふと背後の書架の奥の暗がりに、強い視線を感じた。はっとして振り返るが、誰もいない。ただ、一番奥の棚と天井が作る深い影が、一瞬だけ、あの赤いキャップの丸みに見えたような気がして、栞はたまらず走り出した。

アパートへの帰り道。夕暮れの鴨川のほとりを、栞はとぼとぼと歩いていた。川面をオレンジ色に染める夕日が、やけに目に染みる。隆弘に言われた言葉が、過去の亡霊を呼び覚ましていた。

あれは、高校二年生の秋。楽しみにしていた修学旅行で訪れた、奈良でのことだった。

友人たちと法隆寺の夢殿を訪れた時、一人の子が、有名な救世観音像を見上げて無邪気に言った。「この人、聖徳太子なんでしょ?なんか教科書で見た顔と違くない?」

その瞬間、栞は、自分の「好き」をみんなと共有できる絶好の機会だと、胸を躍らせたのだ。 「あ、それはね、実はこの像が本当に聖徳太子をモデルにしているかは、まだ議論があってね!そもそも、この時代の肖像画っていうのは…」 堰を切ったように、知識が溢れ出した。飛鳥時代の仏像彫刻の特徴、聖徳太子生存説の最新の研究、夢殿が長年秘仏とされてきた理由…。ただ純粋に、自分の知っている面白い物語を、友人たちに聞かせてあげたかった。一緒に楽しい時間を過ごしたかった。

だが、数分後、熱弁を振るう栞がふと我に返ると、そこに広がっていたのは、楽しい時間とは対極の凍りつくような沈黙だった。友人たちの顔から笑顔は消え、困惑と、退屈と、そして「うわ、面倒なやつに絡まれた」という、あからさまな拒絶の色が広がっていた。

「…へ、へえ。そうなんだ。物知りだね、一ノ瀬さん」

誰かが絞り出すように言ったその一言が、決定打だった。「栞ちゃん」ではなく、「一ノ瀬さん」。その呼び方に込められた、明確な壁。この日を境に、彼女の「正しさ」と「情熱」は、集団の和を乱す「面倒なもの」として、彼女と周囲の存在とを隔てる見えない壁になった。皮肉なことに、その壁の内側で、彼女が傷つき、必死に自分を抑え込もうと選んだ『沈黙』は、周囲に全く違う印象を与えてしまう。いつしか彼女は、『物事に動じない、クールで芯の強い子』『一人でいることを恐れない、自立した人間』と見なされるようになっていた。本当は、嫌われるのが怖くて、必死に自分を殺しているだけなのに。『栞は強いから、一人でも大丈夫だよね』。そんな風に言われるたびに、彼女の心は悲鳴を上げた。違う、強くなんかない、ただ臆病なだけだ、と。しかし、一度できあがった『芯の強い一ノ瀬さん』という虚像は、彼女が助けを求めることすら許さない、新たな檻となったのだ。

そして今、隆弘が自分に向けたのも、あの時と友人達と同じ、拒絶の色をした、栞をそんな檻に閉じ込める眼差しだった。「やっぱり、私は、人を遠ざけることしかできないんだ」。

一人きりのアパートの部屋。窓から差し込む西日が、部屋の壁に長い影を落としていた。その光がゆっくりと生命力を失い、オレンジ色から深い紫色へと変わっていくにつれて、部屋の隅の暗闇が、じわりじわりと面積を広げていくようだった。孤独と絶望に満たされた空間は、見えない何かが忍び込むには、あまりにも無防備だった。

スマホの画面が、不意に点灯した。差出人不明の新着メール。件名は「無題」。

本文には、こう書かれていた。

『せっかく教えてあげてるのに、誰もわかってくれないよな。その知識、アマゾンで買ったのか?なあ、俺と一緒じゃないか。』

心を見透かすような不気味な文面に、栞は小さく悲鳴を上げてスマホを投げ出した。スマホが床に叩きつけられるのとほぼ同時に、閉じていたはずのノートパソコンの画面が、ぼうっと不気味な光を放ち始めた。

恐る恐る視線を向けると、そこに映し出されていたのは、薄暗いボーリング場の映像だった。ぬらぬらと光るレーンの上を、血のように赤いボールが、まるで生きているかのように、ゆっくりと転がってくる。そして、スローモーションでピンに激突した瞬間。

ガシャアン、という甲高い金属音の代わりに、ごきり、と骨が砕けるような鈍い音が響いた。ピンは倒れない。代わりに、一番ピンの丸い頭部に亀裂が走り、ぽとりと床に落ちた。そして、首が折れた断面から、どろりとした黒い血が溢れ出し、レーンの上にじわじわと広がっていく。一本、また一本と、ピンの首が折られ、血だまりができていく。それは、ただの映像ではなかった。紛れもない、死の予告だった。

シャワーを浴びていると、ドアの向こうから、気味の悪い甲高い裏声で「ねむれないよ~る、きみのせいだよ~、さっきわかれ~た、ばかりなあのに、みみたぶがあ、For you、燃えている~ぜ、For you、 はじめてーのーちゅう、きみとちゅう~」とハミングする声が聞こえてきた。

シャワー室からほうほうの体で逃げ出し、栞は自室のベッドに潜り込んだ。しかし、眠れるはずもなかった。布団の外は、あの男が支配する闇。耳を澄ませば、ドアの向こうから、まだあの歌が聞こえてくるような気がする。恐怖に叫び出しそうになるが、声が出ない。隆弘に連絡しようにも、自分が彼を傷つけてしまったという罪悪感が、助けを求める声を喉の奥に押しとどめてしまう。ただひたすらに、硬く目を閉じ、早く夜が明けることだけを祈り続けた。


翌日、ほとんど眠れずに大学へ向かった。憔悴しきった栞は、講義もほとんど耳に入らない。一人、学生食堂の隅で、味のしない昼食を無理やり喉に押し込んでいた。

その時だった。

「栞ちゃん、大丈夫?すごく顔色が悪いよ?」

顔を上げると、長崎先輩が、本気で心配そうな顔で立っていた。そのどこまでも優しい眼差しに、栞は、いつものように虚勢を張ろうとした。

「…何でも、ないです」

「そっか…。ねえ、栞ちゃん。みんな栞ちゃんのこと、しっかりしてて、強い子だって言ってるけど。でもね、私、ずっと見てて思ったの。そんなにいつも、一人で戦わなくてもいいんじゃないかなって。辛い時は、ちゃんと辛いって、怖い時は怖いって、言っていいんだよ」

その言葉が、最後の引き金だった。

高校時代から、ずっと心の奥にしまい込んできた鍵。必死にクールな自分を演じ、誰にも弱さを見せまいと固く閉ざしてきた心の扉。それが、いとも容易く、開かれてしまった。

「…っ、う…」

栞の目から、大粒の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。

それは、高校時代からずっと一人で抱えてきた、孤独と悲しみの涙だった。

周りの学生たちの訝しげな視線から隠すように、長崎先輩は栞を食堂の裏手にある中庭へと連れ出した。嗚咽を漏らす栞の背中を、ただ黙って、優しくさすり続けてくれる。

どれくらい時間が経っただろうか。ようやく少し落ち着きを取り戻した栞は、途切れ途切れに、全てを話し始めた。修学旅行での出来事。良かれと思ってしたことが、いつも裏目に出てしまうこと。「強い子」というレッテルが、どれだけ自分を苦しめてきたか。そして、昨日、図書館で、同じ絶望を隆弘に向けてしまったこと。

「…私、最低なんです。横田くんも、怖くて、必死だったはずなのに…。私、自分のことばっかりで…彼を、すごく傷つけました」

話を聞き終えた長崎先輩は、栞の顔を覗き込むと、穏やかに、しかしはっきりとした口調で言った。

「そっか…。全部、話してくれてありがとう。…でもね、栞ちゃんは、最低なんかじゃないよ。好きなことを、一生懸命話せるのは、すごく素敵なことだもん。それにね、横田くんも、きっと後悔してると思うな。」

「…え?」

「二人とも、怖くて、どうしたらいいか分からなくて、お互い、一番言っちゃいけないことを言っちゃっただけ。…大丈夫。もう一度、ちゃんと話そう?私も協力するからさ」

長崎先輩の言葉は、魔法のように、栞の凍りついた心をゆっくりと溶かしていく。一人じゃない。私のことを、分かってくれる人がいる。

栞は、涙で濡れた顔を上げると、小さく、しかし確かに、頷いた。

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