終章

値のつけられない宝物

 スィーラーンの爪先が開廊ロッジアの床のモザイク模様を踏むや否や、黒い影が飛び出してきた。


「おかえり。スィーラーン、大丈夫だったか……?」


 弾む声と抱擁で彼女を迎えたのは、バルトロだ。妻の足音が近づくのを、扉のすぐ内側で待ち構えていたかのような性急さだった。


 頬に額に唇を落とされて、同じ回数の口づけを返しながら、スィーラーンは苦笑した。


「ええ。に行っただけなのに、大げさね?」


 夫に対する言葉遣いは、以前よりもずっと砕けたものになっている。

 夫婦として本当に心を通わせ合うまでは、スィーラーンは彼に素の自分をさらけ出すことができていなかった。価値ある至宝、信用に足る取引相手――あるいは、役に立つ奴隷であろうと必死で。


 彼女はずっと、強がって、背伸びをしていたのだ。それを止めるということは、弱さや脆さを認めて、バルトロに見せるということでもあった。


「相手が寵姫イクバルシェフターリだからな……貴女が、やられるばかりのはずはないと、分かってはいるが」


 だから、なのだろうか。眉を下げて覗き込んでくるバルトロは、スィーラーンの態度や表情の、些細な翳りも見落とすまいとしているかのようだった。シェフターリとの経緯いきさつを教えたことで、余計な心配をさせることになってしまったかもしれない。


(そうね……以前の私なら、冷静ではいられなかったかも。怒ったり、動揺したり――あの女を、喜ばせてしまっていたかもしれないけれど)


 数年ぶりに顔を合わせたシェフターリは、やはり美しく可憐だった。醜い傷を負って生きるなら死んだほうがマシだ、と――薔薇のような唇で嘲られたら、胸を抉られても良かったのに。


 なのに、スィーラーンは本心から笑い飛ばし、逆にあの女を哀れむことができた。それはたぶん、バルトロは火傷の痕にさえ躊躇わずに口づけてくれるから、だろう。


 寄り添って屋敷の中へと足を進めつつ、スィーラーンは夫を見上げて、笑う。


「本当に大丈夫。さすがに堪えたようだし、しっかり釘を刺しておいたから」


 鞭で打たれた傷の痛みと、立ち場を脅かされる恐怖に、打ちひしがれた様子のシェフターリを眺めるのは、正直言って愉快だった。いっぽうで、スィーラーンを睨め上げる淡い色の目に、激しい怒りが燃え盛っていたのも明らかだった。


「まあ、簡単に諦める女ではないと思うけど」


 脅して心を折るどころか、焚きつけた自覚は、スィーラーンにも重々ある。


 シェフターリが、ほどほどの贅と権力で満足するはずがない。

 大人しくなったとしても一時だけのこと、母后ヴァリデ・スルタンを油断させるための雌伏の時でしかないだろう。ゼーナの大使とは遠ざけられたとはいえ、皇帝スルタン寵姫イクバルに取り入ろうとする者は多いのだろうし――遠からず、何かしら企み始めると見るのが良いのだろう。


(望むところよ)


 頬の傷痕については、もう意趣返しは済んだ。後宮ハレムという豪奢な籠の鳥の身の上を逃れて、商売の楽しさを知ることができた。バルトロと出会うことができた。だから、もう良い。


 でも、エステルの死について許すかどうかは話が別だ。母とも師とも慕ったあの女性ひとの仇を討つ機会が来ることを、スィーラーンはむしろ待ち望んでさえいる。


「何を企んでも、何度でも受けて立つわ。そうでしょう?」

「ああ、もちろんだ」


 戦意満々に宣言して剣呑に笑うと、バルトロは頼もしく頷いてくれた。そのころには、ふたりは階段を上がり、書斎に着いている。

 屋敷には居間もあるし、今は同じ寝室で眠るようになってはいるけれど、夫婦が多くの時間を過ごすのはやはり紙とインクと、そして潮と異国の香りが漂うこの部屋だった。ふたりして商人であるからには、それぞれの取引や市場の動きについての話題がやり取りの多くを占めるのだ。


 今日も、スィーラーンが後宮ハレムを訪れていた間に、机の上にはずいぶん書簡が積み上がっている。


「私が見るべきものも、届いているかしら」

「ああ、それなら――」


 書簡の差出人や封蝋の紋章に目を凝らしていると、バルトロが応える前に、マルコが室した。スィーラーンが戻るのを待ち構えていたのか、果実水シェルベトを満たした水差しと、杯をふたつ載せた盆を手にしている。そして盆を卓上に置くと、晴れた青空のような爽やかな笑顔で目礼しただけで、ひと言も言わずに退出していった。


「……別に、邪魔だなんて思わないのに、ね?」

「いや、私は思うな。持つべきものは、気が利く従者だな」


 まだ日の高いうちから何をすると思われたのか、と。少々気まずい思いで首を傾げたスィーラーンに、バルトロは堂々と答えた。互いの想いを確かめてからの彼は、それを言葉や態度で表すのに躊躇いがなくて――恥ずかしいけれど、嬉しい。


 果実水シェルベトを注いだ杯をスィーラーンに渡した後、バルトロは書簡の山から一通の封書を抜き出した。

 重厚な金の封蝋を捺された書簡を、バルトロは広げて見せた。力強い筆跡で記された文面、その内容に加えて、末尾の署名を認めて、スィーラーンは小さく息を呑む。


(アントニオ・コンタリーニ。イストリアの元首ドージェ……!)


 妻を驚かせたのを確かめて、元首ドージェの子息は悪戯っぽく微笑んだ。


「――イストリア政府から、近く礼状が届くそうだ。父が内々に教えてくれた。アスラン皇子と繋いでくれた功績を湛えて、年金一千ドゥカートを授与する、と」

「まあ」


 一国の元首ドージェたる者が、元奴隷の商人の名をわざわざ記し、しかも丁寧な感謝を述べている。……息子との結婚を、喜んでくれている。


 そのどれもが信じがたくて、溜息を漏らすことしかできないスィーラーンの手に、バルトロは父からの手紙を握らせた。紛れもなく現実なのだと、優しく教えるかのように。


「貴女の商売の元手になるな。おめでとう」

「……ええ」


 イストリアは、金のやり取りに関しては非常に厳格な国だ。金貨の信頼度はアクデニズ海一だし、国の名において年金を与えると宣言した以上、生涯に渡って安楽な生活が保障されたも同然だった。


(……でも、私が安楽を望むとはまったく思わないのね)


 彼女がまとまった金を手にしたら、女として着飾ったり生活のために蓄えたりするのではなく、必ず商売のために使う。……夫が理解してくれているということが、何よりも嬉しくて幸せだった。


「ありがとう。元首ドージェ閣下にも御礼の手紙を書くけれど、でも、すべて貴方と会えたからこそだから……!」


 感謝と喜びを表すため、スィーラーンはバルトロに抱きついた。彼も手にしていた杯から果実水シェルベトを零さないよう、狼狽えた気配がするのに笑って、その首筋に口づけながら、囁く。


「……早く、資金を殖やさないと。エステルの屋敷を早く手に入れたいの。今のアダムなら嫌とは言えないでしょうけど、買い叩くなんてできないから……」


 エドレネでの不手際で、アダムはゼーナに見捨てられたとか。そもそも母ほどの商才は持たない不肖の息子だから、遺産を切り売りして食いつなぐのが精いっぱいだともっぱらの噂だ。

 大事な遺品までもが散逸してしまう前に、手を打たなければならない、とスィーラーンは考えている。


「貴女にとっては思い出の屋敷なのだろうが、別居するつもりではないよな……?」

「まさか。私が離れたくないもの」


 心配性の夫を宥めるため、スィーラーンは彼に体重を預けて、ぴたりと寄り添った。……やはり、マルコが席を外してくれて良かったかもしれない。


「でも、商談の場としても、仮の倉庫や展示場としても使えると思うの。これから、皇子殿下シェフザーデの屋敷を調えなければならないでしょう? 宮殿サライに劣らぬ調度を、各地から取り寄せないと……!」


 アスラン皇子は、コフチャズの件で高まった名声と、民や臣下からの期待に応えるため、という名目で鳥籠カフェスを出て、帝都に屋敷を構えることになった。彼には近々、地位に相応しい役職をも与えられるはずで、いよいよ帝位を狙って本格的に爪と牙を研ぎ始めることになるのだろう。


 もちろん、母后ヴァリデ・スルタンとしては鎖から離れた若い獅子の動向を監視したいに違いない。後宮ハレムから離れられない母獅子は、スィーラーンに目となり耳となるよう命じるだろう。


(堂々と皇子殿下の屋敷に出入りできる――イストリアにとっても朗報でしょう)


 夫婦ふたり、同じほうを向いているはずだ、と言いたかったのだけれど――バルトロの表情は、まだ硬い。


「皇子殿下の御前に上がる時は、私も必ず同行する。あの御方は――よく、分からないからな」

「そうね」


 あの御方は、もはや怪しい由来のに縋る必要なんてないのだろうに。自らの力と振る舞い次第で、いくらでも民や臣下の信頼と忠誠を得ていくことができるのだろうから。


 でも、そんなことを言ってもバルトロは収まらないだろう。だから――スィーラーンは彼の胸に頭を寄せて、甘えるように見上げてみせた。


「割って入ったり、奪ったりする余地などないのだと――ことあるごとに見せつけてくれますね、旦那様?」

「もちろんだ」


 貴方だけだ、と仕草で伝えると、バルトロはようやく安心してくれたようだった。


「ずっと傍にいて欲しい。スィーラーン――私の、宝物」


 この宝物、は金や宝石を意味するものではない。数字として、分かりやすく人に示せるものでも、何かと引き換えにるものでもない。

 とてもふんわりと、漠然とした――ただ、心から大切で愛しいというだけのこと。でも、そんな曖昧な言葉がこの上なく嬉しいし、スィーラーンを支えてくれる。


「ええ、バルトロ――ずっと一緒に」


 囁くと、スィーラーンは上向いて目を閉じた。無言のおねだりに応えて、唇に温かいものが触れる。


 夫と交わす口づけの甘さ、温もりの心地好さもまた、値をつけることのできない宝だった。


(私たちは商人なのに、ね。でも――誰にも渡せないもの……!)


 この愛しさ、この幸せを決して逃がさないよう。その、決意を伝えるために。

 スィーラーンはバルトロの背に腕を回し、固く抱き締めた。

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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る 悠井すみれ @Veilchen

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