行くね

真花

行くね

 ホームから見上げる鈍色の空はところどころが割れていて、薄い光がオーロラのように射している。桜がもう咲いていたのに、気弱な冷気が諦めもせずに肌にまとわりついている。僕は自分の上着を妙子たえこにかけたかった。だが、その勇気が出なかった。

 妙子は線路を背にして僕の方を向いていて、二人ともが手を伸ばせば触れ合える距離に僕は立っている。僕達は手を伸ばさない。一度もついに伸ばさなかった。

「家族は見送りは来ないの?」

 妙子はゆっくりと首を振る。

「家で済ませた。……一人がいいって言った」

 それから僕達は黙って、お互いに何かを言おうとして、だが言わなくて、橙色と水色の混じったため息だけが口から漏れた。もうすぐ電車が来てしまう。僕はせめて最後に、自分の気持ちを伝えたい。……言って何になるかなんて知らない。妙子の明日を穢してはしまわないか。それでも、胸の中に永久に閉じ込めておくことは嫌だ。……すぐそこにあるのに厳重に封をされたようにそこから動かせない。言葉にならない。ため息だけが漏れる。妙子も何かを、決定的な何かを、出し損ねている表情をしていた。だが次第に、出そうとすることをやめて、まるで全ての後のような澄んだ顔になった。

 アナウンスが響く。僕達は向かい合って立っている。僕は出せない。妙子の唇が、あのさ、と動く。

「君にもらった筆、実はまだ使ってないんだ。向こうに行ったら、最初に使おうと思う」

 僕の胸がやわらかく締め付けられる。

「そっか」

 妙子が儚く笑う。僕達はまた黙って、いずれホームに電車が滑り込んで来た。空気の抜けるような音と共に妙子の前のドアが開く。妙子は少し俯いて電車に乗り込み、振り返る。どこか晴れやかな顔になっていた。

「きっと、夢掴むよ」

「うん」

「行くね」

 僕は堪えるような顔をして、頷いた。ドアが閉まる。僕も妙子も手を振らないで、電車は僕達を引き離す。すぐにまた空のホームと僕だけが残った。僕はその場所を動くことが出来ずにいた。心の真ん中をすっぽりと抜き取られたようで、上手く泣いたり悲しんだりすることが出来なくて、妙子の残したため息も風に散ってしまって、ただ空っぽのホームを電車の残像を、妙子の顔を、見続ける。

 空は鈍色で、割れ目からの光の帯は僕には届かない。きっと、妙子だけを照らす。


(了)

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行くね 真花 @kawapsyc

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