春の弥生のこの良き日

うめもも さくら

あの日見た二人

 この平安の世に思う。

 姫である自身の想いなど、些末さまつなもの。

 この部屋を淡く照らす燈火ともしびかたわらで、チラチラと舞っては、一瞬で跡形もなく消え去る火の粉よりも。

 姫である自身の幸せなど、儚いもの。

 降り止まぬ春の雨の中で、山々を懸命に彩りながら、散り急ぐ桃の花よりも。


 夜の静けさに混じる音が遠くに聞こえる。

 風が戸を叩くつづみの音や戸の隙間から鳴らす笛の音。

 昔、兄の正室せいしつとなった義姉様あねさまも、あの晴れの日、涙をこぼしていた。

 私や女房の前では、薄く微笑んでるばかりだったけれど。

 私はそれをお人形みたいだと、そら恐ろしかった。

 まるで私のすえを見せられているみたいで、とても恐ろしかった。

 兄と義姉様、二人の並んだその姿が、私のこのまなこに焼き付いてがれない。

 まぶたを閉じても、遠くから襲いかかってくるように、暗闇の奥から眼の前に現れる。

 夜の静けさに混じる声に誘われるように眠る。

 兄の二人目の赤子がむずがる声や子をあやす声。

 義姉様はどんな想いを抱えているのだろう。

 義姉様は幸せになれるのだろうか。

 あの赤子も、いつか私のように眠るのだろうか。


 夜を越えれば、この世も朝になる。

 眠りから覚めれば、明日が今日になる。

 部屋には着物にめられた香が鼻につくほど。

 その部屋で、屋敷の主である父につかわされた女房たちが、お人形遊びにいそしむ。

 着物を着せ替えて、紅を引いて、髪をく。

 そして飾り立てられたお人形を連れ出して、次の持ち主のもとへと運ぶ。

 私には目に痛いほどの華美かびな飾りが、陽の明かりを揺らす。

 美しい屏風びょうぶの前、陽の明かりを背にした私が見たものは、優しい面差おもざしの美しい殿方とのがた

 酒でもしたのか、彼の赤らんだお顔を見つめれば、小さく微笑み、語る。


聡明そうめいな姫君、そのように見つめられると面映おもはゆく、貴女あなたかんばせにじんでしまいそうです」


 殿方の眼が語る。

 私を語る。

 眼の前にいるのはお人形ではないのね。

 私を見てくれるのね。


「貴女を一目、この眼に宿した日から、貴女のために今日まで生きてきたと悟りました」


 私、昔から怖かったの。

 義姉様のように、お人形になるのが。

 私、その日から諦めていたの。

 私ではなく、姫としての在り方だけ取り繕ったの。

 

「今でなくとも、かまいません。貴女がいつか、もし、私と同じ想いを抱いてくれたら、私は至上しじょうの幸福な男となりましょう。そして貴女を生涯しょうがい、幸せな姫君として守ると誓います」


 私の想いをんでくださるのね。

 私の幸せを望んでくださるのね。

 晴れた陽の明かりの中、美しい屏風の前。

 赤らむお顔の貴方と薄く微笑む私。

 恐ろしかったはずの姿が剥がれて、見る見る間に塗り替えられていく。


――あぁ、私がお人形にしていたのね。


 ねぇ、義姉様。

 私は義姉様の想いを知るすべはないわ。

 私は義姉様の幸せをはかる権利はないわ。


――でも、幸せでも涙は溢れるものなのね。


 私は心の内で、幸せになる覚悟で帯紐おびひもをくくる。

 おにんぎょうから私になる。

 人形ひめから正室わたしになる。

 誰がなんと言おうと、私は幸せになるのだから。


 春の弥生やよいのこの良き日。

 私の幸せな結婚ものがたり


 この平安の世に問う。

 姫である自身の想いなど、些末なものなのか。

 この部屋を明るく照らす子供たちの傍らで、よしよしと撫でるこの時が、一瞬でもせることのない優しい日々だというのに。

 姫である自身の幸せなど、儚いものなのか。

 降り止まぬ春の雨は、桃を散らせど、かの美しき桜の花を起こす催花雨さいかうになるというのに。


 だから、どうか、恐れないで。

 薄く微笑む私を見て、この先を憂いないで。

 私はこんなにも幸せなのだから。

 そして、どうか、惑わされないで。

 姫君の在り方や、世の中の流れに惑わされないで。

 今日はこんなにも晴れの日なのだから。

 あの時、泣いていた兄の子や私たちの子らよ。

 さきの世に生きる私たちが、このさきの世にできること。

 それは、私たちが幸せだと伝えることだと思うの。

 前の世を先の世が羨み、望み、続いていくように。

 だから、紡ぐわ。


 春の弥生のこの良き日。

 なにより幸せな結婚ものがたり


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