第12話 春に
崩れ落ちるように床に手をつけ背を丸めた少女の手前に、黒い固まりがある。
「
すがるように迫り手に触れると、冷たさに震える。生命が抜け落ちたかのようで、衝撃が胸に落ち、動けなくなりそうだった。
「カスミ……」
彼がおもむろに顔を上げる。仰向けで目を開けるも、視線は合わない。ただ、見えてはいる。こちらも
「大丈夫、まだ助かる。ここから医者に行って、頑張って、まだ諦めないで。そしたら助かって、私たち、ずっと一緒よ」
現実から目をそらし、未来のことを話す。ただただ望みをこめて、早口で。
「一緒に生きましょう。ずっと愛してあげる。もっといろんな場所を巡って、美しい景色を見て、美味しいものを食べましょう。新しい人生をやり直すの。あなたではない誰かとして」
希望に思いを託すようにぎこちない顔で笑いかけると、青年も苦笑いを浮かべた。
「そうしたかったのは君のほうだろ?」
か細くも鋭い言葉だった。
「君はずっと過去を捨てたがっていた。全てを切り捨て、楽になりたかったんだろ?」
なにも向き合わず、一人で。縁も切れればきっと、もうなにも振り返らずに済むだろうと。
言葉を失う少女の内側で
「悪いが僕が君に望むものは、一つだけなんだ」
懐に手を入れ取り出す。表に出たものは
「君の母から預かったものだ」
ハッと声を出す。
目を見開き硬直した少女に向かって、揺るぎない目で彼は告げた。
「行ってくれ。年が明けて四月一日……約束の場所、あの交差点で。あの人は待ってる」
言葉を失った少女。
静けさが落ちひんやりとした室内に、
「どうして、私なんかのために……?」
眉を寄せ水気を含んだ目で彼を見ると、
「希望を、
ゴフッと口から血がこぼれる。もう
それでも彼の言葉はなぜか
「君はまだ間に合う。頼む、前に進んでくれ」
祈るような目付きの真剣な色に、か細い光が
「うん、うん……」
ハッキリと頷きコクンと顎を引く度に、透明な
青年は微笑み、目を閉じた。握りしめた手のひらから力が抜け、脈が消えていく。遠ざかる気配。もうなにも言わない。
「わああああああ!」
少女は崩れ落ちた。
硬い目付きのまま、落ち着いた心で。
***
雲一つない夜の空のしっとりとした闇。澄んだ空気を浸した川辺に無数の桜が並び、吹雪いて舞い散る。月の光を浴びて全体が淡いピンクを帯びた光景は幻想的で、水面まで金を流し込んだように輝いていた。まるで異界に着たみたい。
ここまで美しい桜があっただろうか。ロングヘアをたなびかせた少女は、歌うように口角を上げる。
胸をときめかしながらステップを踏むと、体がふわりと浮いた。
弧を描く朱塗りの橋を渡りかけて、見える影。顔は分からないのになぜか、安心する。心に温かいものが流れ込み少女は軽やかに駆け寄った。
「僕、やっと見れたんだ、この景色を」
無邪気に話し掛ける声は若い男のものだった。
そっと差し伸べられた手を受け取り、握りしめる。
「よかったね、ここにいればずっと一緒だ。ねえ、君も?」
優しい声に心を溶かされる。
人生の終着にたどり着いた気持ちになりながら、きっぱりと首を横に振った。
はらりとかかった暗髪が肩に落ちる。
「私にはきっと行くべき場所があるから」
眉をハの字にしながら笑いかける。
「君がそう言うのならこっちからはなにもしない。うん、大丈夫。君ならできるよ」
背中を押す声。
繋いでいた手を自ら離し、力を抜く。
背を向けた影をじっと見送る中、ふんわりと風が吹いた。
桜吹雪が彼の姿を覆い隠すと温かな気配も遠ざかり、景色が儚く
***
朝、
真っ白な壁紙に囲まれた部屋のシンプルなベッド。霊安室じみた空間で仰向けになった少女は、今の今まで本当に死人であったかのように、無に染まった表情だった。そっけない
「夢……」
夜桜の景色が
なんだ、幻。
自分が求めたのか、彼が見せたものなのか。
気がつくとまた
もう数ヶ月が経ったのに……。
光のない目で重たげに顔を上げ、ふと窓の外を見た。薄水色の空、垂れ下がった枝に揺れる花びらは淡い紅色を帯びていた。
***
四月一日、
高層ビルの高い位置に掲げられた街頭テレビで、ニュースが流れた。
『
人々はニュースに注目し好奇の目を向けては、信号が切り替わるのに応じて正面を向き、歩き出す。
前の列と入れ替わる形で、シフォンブラウスに巻きスカート姿の少女が横断歩道の先頭までやってきて、足を止めた。
先ほどから
薄雲に覆われた思考・
――「君はまだ間に合う。頼む、前に進んでくれ」
彼が
目をそらしてきたものと向き合う日――その権利は自分にだけ残されたのだから。
決意を胸に顔を上げたとき、不意に背中で声を聞く。
「
確信と不安が混じったぎこちない声には女性らしい高さと、透明感が混じっていた。
ドキッと
左右へ流れる人の波から浮き上がるようにたたずむシルエット。
目の前の女性は驚きながらも愛おしむように目を細め、口元をゆるめた。
「生きててよかった」
万感の想い。震えるような一言。
胸がつかえて、なにも言えない。
こみ上げる想いに目を細めた拍子、閉じたまぶたの端から大粒の雫があふれ出し、ポロポロと肌を濡らした。
子どものように泣きじゃくる娘を、母は温かな眼差しで見守る。
今の一瞬でおのれにとっての二〇年は、報われた。
人が掃いた交差点で、向き合う。
高層ビルの隙間から覗くのは
キラキラとした陽光が無彩色の街が照らし、やわらかな風が吹くと花と緑の混じった春の匂いがした。
桜の下には屍体が埋まっている、らしい 白雪花房 @snowhite
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