第12話 春に

 崩れ落ちるように床に手をつけ背を丸めた少女の手前に、黒い固まりがある。

れいれい?」

 すがるように迫り手に触れると、冷たさに震える。生命が抜け落ちたかのようで、衝撃が胸に落ち、動けなくなりそうだった。

「カスミ……」

 彼がおもむろに顔を上げる。仰向けで目を開けるも、視線は合わない。ただ、見えてはいる。こちらもうるんだ目で視線を落とした。

「大丈夫、まだ助かる。ここから医者に行って、頑張って、まだ諦めないで。そしたら助かって、私たち、ずっと一緒よ」

 現実から目をそらし、未来のことを話す。ただただ望みをこめて、早口で。

「一緒に生きましょう。ずっと愛してあげる。もっといろんな場所を巡って、美しい景色を見て、美味しいものを食べましょう。新しい人生をやり直すの。あなたではない誰かとして」

 希望に思いを託すようにぎこちない顔で笑いかけると、青年も苦笑いを浮かべた。

「そうしたかったのは君のほうだろ?」

 か細くも鋭い言葉だった。

「君はずっと過去を捨てたがっていた。全てを切り捨て、楽になりたかったんだろ?」

 なにも向き合わず、一人で。縁も切れればきっと、もうなにも振り返らずに済むだろうと。

 言葉を失う少女の内側で鼓動こどうが加速し、じんわりと汗をかく。反対に体の温度は冷え、力なく握りしめた手。

「悪いが僕が君に望むものは、一つだけなんだ」

 懐に手を入れ取り出す。表に出たものは刺繍ししゅうが入ったまり。キーホルダーにも似た飾りひもが垂れた小物だった。

「君の母から預かったものだ」

 ハッと声を出す。

 目を見開き硬直した少女に向かって、揺るぎない目で彼は告げた。

「行ってくれ。年が明けて四月一日……約束の場所、あの交差点で。あの人は待ってる」

 言葉を失った少女。

 静けさが落ちひんやりとした室内に、鼓動こどうの音だけが聞こえる。

「どうして、私なんかのために……?」

 眉を寄せ水気を含んだ目で彼を見ると、れいはゆるやかに微笑んだ。

「希望を、たくしたかっただけだよ」

 ゴフッと口から血がこぼれる。もうささやくほどの声しか出せない。

 それでも彼の言葉はなぜか明瞭めいりょうに聞き取れた。

「君はまだ間に合う。頼む、前に進んでくれ」

 祈るような目付きの真剣な色に、か細い光がにじむ。強い意思のこもった言葉にカスミは目を細めた。ツンとこみ上げてきた熱い思いに涙があふれ、ほおを伝う。

「うん、うん……」

 ハッキリと頷きコクンと顎を引く度に、透明なしずくあごを伝って、床に落ちた。

 青年は微笑み、目を閉じた。握りしめた手のひらから力が抜け、脈が消えていく。遠ざかる気配。もうなにも言わない。

「わああああああ!」

 少女は崩れ落ちた。


 慟哭どうこくを小屋の外で聞く男。きしんだ音を立てる窓を背にまっすぐに前を見据え、静止する。頭かられて、ペタンと垂れた茶色の毛。雨粒がしたたる衣服と冷え切った体。手の感覚だけが確か。しっかりとスマホを握りしめ、耳元に平らな面を近づける。唇をこすり合わせ、隙間を作った。

 硬い目付きのまま、落ち着いた心で。


 ***


 雲一つない夜の空のしっとりとした闇。澄んだ空気を浸した川辺に無数の桜が並び、吹雪いて舞い散る。月の光を浴びて全体が淡いピンクを帯びた光景は幻想的で、水面まで金を流し込んだように輝いていた。まるで異界に着たみたい。

 ここまで美しい桜があっただろうか。ロングヘアをたなびかせた少女は、歌うように口角を上げる。

 胸をときめかしながらステップを踏むと、体がふわりと浮いた。

 弧を描く朱塗りの橋を渡りかけて、見える影。顔は分からないのになぜか、安心する。心に温かいものが流れ込み少女は軽やかに駆け寄った。

「僕、やっと見れたんだ、この景色を」

 無邪気に話し掛ける声は若い男のものだった。

 そっと差し伸べられた手を受け取り、握りしめる。

「よかったね、ここにいればずっと一緒だ。ねえ、君も?」

 優しい声に心を溶かされる。


 人生の終着にたどり着いた気持ちになりながら、きっぱりと首を横に振った。

 はらりとかかった暗髪が肩に落ちる。

「私にはきっと行くべき場所があるから」

 眉をハの字にしながら笑いかける。

「君がそう言うのならこっちからはなにもしない。うん、大丈夫。君ならできるよ」

 背中を押す声。


 繋いでいた手を自ら離し、力を抜く。

 背を向けた影をじっと見送る中、ふんわりと風が吹いた。

 桜吹雪が彼の姿を覆い隠すと温かな気配も遠ざかり、景色が儚くけぶった。


 ***


 朝、まぶしい日差しが差し込む。

 真っ白な壁紙に囲まれた部屋のシンプルなベッド。霊安室じみた空間で仰向けになった少女は、今の今まで本当に死人であったかのように、無に染まった表情だった。そっけないにび色のパジャマを着た自分を客観視しつつ、肌掛けを雑にどかし、むくりと起き上がる。背を丸め、ぼーとした顔。

「夢……」

 夜桜の景色がかすんで消える。

 なんだ、幻。

 自分が求めたのか、彼が見せたものなのか。

 気がつくとまたれいのことを考えてしまう。

 もう数ヶ月が経ったのに……。

 光のない目で重たげに顔を上げ、ふと窓の外を見た。薄水色の空、垂れ下がった枝に揺れる花びらは淡い紅色を帯びていた。


 ***


 四月一日、桐野きりの街の交差点に足を運ぶ。


 高層ビルの高い位置に掲げられた街頭テレビで、ニュースが流れた。

化野あだしので起きた殺人事件について。かたきったと通報した男の証言。その裏付けが取れてきました。遺体の身元は戸籍も名前もない存在。使用した名前は雨宮あまみやれい。マッチングアプリ・チェリーブロッサムを通じて知り合った女性を刺殺したものとして』

 人々はニュースに注目し好奇の目を向けては、信号が切り替わるのに応じて正面を向き、歩き出す。


 前の列と入れ替わる形で、シフォンブラウスに巻きスカート姿の少女が横断歩道の先頭までやってきて、足を止めた。

 刺繍ししゅうを刻んだまりを垂らした肩掛けカバンのひもを、マメに直す。化粧っ気がないながらに整った顔をうつむけ髪をいじりながら、視線を彷徨さまよわせた。

 先ほどから脈拍みゃくはくが速く、不安でいっぱい。日増しに会いたい気持ちがふくらむのと同時に、今日がこなければいいと何度思ったか。まるで歯医者への待ち時間のような心地の悪さで、いっそ逃げ出したい。

 薄雲に覆われた思考・混沌こんとんとした心に彼の言葉がよみがえる。


 ――「君はまだ間に合う。頼む、前に進んでくれ」


 れいたくした最期の言葉。

 彼がうしなったもの、手が届かなかったもの。

 目をそらしてきたものと向き合う日――その権利は自分にだけ残されたのだから。

 決意を胸に顔を上げたとき、不意に背中で声を聞く。

香澄かすみ?」

 確信と不安が混じったぎこちない声には女性らしい高さと、透明感が混じっていた。


 ドキッと鼓動こどうが跳ね上がる。

 香澄かすみは目を見開き汗をかきながら、張り詰めた顔で振り向く。

 左右へ流れる人の波から浮き上がるようにたたずむシルエット。まりと同じ花の刺繍ししゅうを刻んだアンティークじみたワンピースが、視界に飛び込む。丸みを帯びた目つきに、透き通るような肌。ストレートな暗髪がふんわりとした肩にかかる。

 目の前の女性は驚きながらも愛おしむように目を細め、口元をゆるめた。

「生きててよかった」

 万感の想い。震えるような一言。


 しびれるような衝動が全身を突き抜けた。

 胸がつかえて、なにも言えない。

 こみ上げる想いに目を細めた拍子、閉じたまぶたの端から大粒の雫があふれ出し、ポロポロと肌を濡らした。

 子どものように泣きじゃくる娘を、母は温かな眼差しで見守る。


 今の一瞬でおのれにとっての二〇年は、報われた。


 人が掃いた交差点で、向き合う。

 高層ビルの隙間から覗くのは萌黄もえぎ色の山と菜の花の咲く、うららかな景色。

 キラキラとした陽光が無彩色の街が照らし、やわらかな風が吹くと花と緑の混じった春の匂いがした。

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桜の下には屍体が埋まっている、らしい 白雪花房 @snowhite

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